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窓の外が薄ぼんやりと明るくなり始めた頃、森の館にはパンを焼けれう香ばしい匂いが漂っていた。
寝起きのぼやけた頭のまま、ベッドの上でゆっくりと上体を起こして、ベルはふぅっと大きく息を吐く。
「みゃーん、みゃーん」
「ちょ、待って。ちゃんと冷まさないとっ」
「みゃーん」
耳をすませば、葉月と猫のやり取りが聞こえてくる。どんなに前の晩に床へ入るのが遅くても、猫は日が昇れば目を覚まして同じ時間に朝ご飯の催促をするようだ。
異世界からの客が来てから、ベルも釣られるように朝方から行動するようになった。すっかり生活が変わってしまっている。
「ふふふ。早起きさんね」
寝間着からいつもの黒のロングワンピに着替え、簡単に身支度を整える。
部屋に造り付けられた洗面台に置かれていた桶に軽く手を触れると、あっという間に人肌の温かさのお湯でいっぱいになる。髪をさっと結わえて顔を洗った後は、濡れた肌と髪を風魔法で乾かしていく。
ふと何気なく顔を上げると、鏡の中の自分と目が合う。そして、首を傾げた。
何だか以前とは雰囲気が変わったような気がする。そもそも、普段からじっくりと鏡を見ることも無かったから、自分が前とどう違っているのかさえよく分からないけれど。
「んー、……新しい石鹸が良かったのかしら?」
葉月に頼まれて取り寄せてみた石鹸が肌に合ったのかと、頬をそっと撫でてみる。以前は荒れてゴワゴワだった肌が、確かに何だか柔らかくなっている気もする。勧められて付けるようになったオイルのおかげで、髪の癖もしっとりと落ち着いて扱いやすくなったかもしれない。
あまり身なりを気にしないタチだが、悪い気はしない。
「そんなに変わるものかしら?」
石鹸やオイルも館にはまだ沢山残っていたのに、新しい物を取り寄せて欲しいと言われた時は正直驚いてしまった。別に腐る物でもないし、まだ使えるのにと思ったけれど、
「劣化してる物を肌に付けるなんて、ダメです!」
凄い剣幕で葉月に力説された。傷んだりしていなくても、いつ購入したか分からないような古い物は使ったらダメなのだと言う。言われてみれば、オイルは変色していたし、石鹸の泡立ちも悪かったかもしれない。
食材以外の物でも傷んだり劣化したりすることがあるんだなんて、全く知らなかった。
そして、取り寄せてみた新しい物は香りも良く、使う度にホッと気分が安らいだ。
身支度を済ませて扉を押すと、賑やかな声と朝食の優しい香りが飛び込んでくる。
「今日も早いわね」
「あ、おはようございまーす」
「みゃーん」
少し前まではただの荷物置き場だったはずのダイニングテーブルには、軽く焼き直したパンと、温め直されたスープ。スープはいつも前の晩に多めに作っておいて、こうして翌朝にも出してくれる。作り過ぎてしまった時は昼にも出て来ることもたまにあるけれど……。
「今日は何をするのかしら?」
「お天気が良さそうだから、また庭へ出てみようかなって」
「そう。結界の外には出ないようにしてね」
「はーい」
「くーちゃんも、葉月の護衛をよろしくね」
「みゃーん」
他愛もない話をしながらの朝食にも随分と慣れて来た。誰かと一緒に食べるなんて、いつぶりかしらと考えてみるも、全く思い出せない。
昼食までの時間は作業部屋に籠ることが続いている。取引先からの最後通告のような連絡を貰ってしまってから、ひたすらに回復薬の調合ばかりしている。
回復薬は沢山の種類の薬草を使うので、まず薬草ごとに乾燥や粉砕、抽出、精製の作業をこなしていかなければならない。完成するまでの工程が多くて、面倒で仕方ない。魔力もそこそこ使うから、何度も休憩を挟みたくなる。
だからと後回しにし続けた結果、青い瓶の山が残ってしまっていたのだが……。
ここ数日は本当に集中して作業していた為、瓶の在庫は随分と減っている。何なら今止めてしまってもしばらくは問題なさそうな気もする。
以前のベルなら間違いなく、とっくの前に止めていただろう。
「全部終わらせて、葉月を街へ連れて行ってあげなくちゃ」
まだ森から出たことがない少女と一緒に街に出る。そして、彼女が知りたいことの解決への手助けをしてあげたい。その為には仕事はやり切っておきたい。
「くーちゃんっ、それは掘り返しちゃダメ!」
「みゃん?」
「そこ、今植えたばっかりだからっ」
大騒ぎしている声がして、窓の外を覗き見る。庭の一角で何かしているようだった。
――畑かしら?
草だらけだった庭も、知らない内に綺麗に除草されて、随分とすっきりしている。入口扉へと続く石畳以外はただの更地状態になっていたので、葉月はそのスペースを利用して何かを植えようとしているみたいだ。
そういえば、調理場に芽が出た野菜があったから植えていいかと聞かれた気がする。自分で調理できない食材はそのまま放置していたので、それらが知らぬ間に育っていたらしい。
そもそも、ベルに扱えない材料を仲介人に注文した覚えは一切ない。なのに、なぜか定期的に荷物の中に紛れ込んでいるのだ。まるで、「栄養バランスを考えて召し上がり下さい」とでも言わんばかりに。
もう何年も見ていない顔を思い浮かべ、ベルは深い溜め息を吐いた。