テラーノベル
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山道には、朝靄が残っていた。
白い霧が木々の間を這い、足元の石を濡らしている。
葛城佐衛門は、その中に立つ旅僧と向かい合っていた。
僧が懐から取り出したのは、一枚の木札だった。
焼き印で、たった一文字。
――鬼。
「鬼が、村を一つ喰いました」
僧の声に冗談めいた響きはない。
「生き残った者は三人」
佐衛門は木札を受け取った。
「ですが」
僧が言葉を切る。
「その鬼が、助けを求めているのです」
風が吹いた。
木々の葉がざわめく。
「鬼が?」
「はい」
「助けを?」
「ええ」
佐衛門は木札を裏返した。
何もない。
「……何故、私だ」
僧は少し考えた。
「妖を斬る者はおります」
それから、佐衛門を見る。
「ですが貴方は、妖を斬る前に真実を見ようとする」
「そうか」
佐衛門は木札を懐へしまった。
「なら、行くか」
僧が頷いた。
二人は山奥へ向かった。
*
鬼哭村。
山に囲まれた小さな集落だった。
農作と狩猟で細々と暮らし、住人は五十人ほど。
十日前。
最初の一人が消えた。
次の日には、二人。
さらに翌日には、村へ出入りしていた商人まで戻らなくなった。
様子を見に行った者が、村の入口で足を止めた。
誰もいない。
戸は開いたまま。
火の消えた竈。
食いかけの飯。
椀の中には、まだ箸まで残っていた。
人だけが消えている。
死体はない。
争った跡もない。
ただ、あちこちに血が残っていた。
そして村の奥で――鬼を見た。
赤い皮膚。
二本の角。
大人の男を軽々と見下ろす巨体。
誰が見ても鬼だった。
ところが、その鬼は人を追いかけながら泣いていたという。
「助けてくれ」
「殺してくれ」
「逃げろ」
言っていることが、ばらばらだった。
人を喰らう怪物の言葉とは思えない。
佐衛門は話を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「操られているな」
僧が顔を上げた。
「操られている?」
「推測だ」
佐衛門は山道の先を見る。
「鬼が本気で人を喰うなら、逃げろとは言わん」
僧も黙った。
確かに、何かがおかしい。
村には、古い伝承も残っていた。
三百年前。
この山には、一匹の鬼がいた。
人を喰らい、村を襲った鬼。
最後の夜、その鬼は泣いていたという。
何かを抱きしめたまま山へ入り――それきり姿を消した。
「鬼そのものが本質じゃない」
佐衛門が呟く。
朝靄の向こうへ目を細める。
「別の何かがいる」
その直後だった。
山の奥から、地の底を揺らすような声が響いた。
ドォォォォォ……。
鳥が一斉に飛び立つ。
木々が震える。
獣たちが逃げていく。
鬼の声だった。
だが。
その奥に、別の音が混じっていた。
――笑い声。
佐衛門は足を止めた。
「聞こえたか」
「……はい」
二人は山奥へ進んだ。
*
霧が濃くなった。
木々の向こうに、人影が立っている。
男だった。
首がない。
それなのに立っている。
身体だけが、こちらを向いていた。
僧が息を呑む。
男の胸に、顔が埋まっていた。
口が動く。
「にげろ……」
掠れた声だった。
佐衛門が刀へ手を伸ばす。
その瞬間。
男の背中が裂けた。
肉が裂ける音とともに、腕が一本、飛び出す。
二本。
三本。
次々と腕が生えてくる。
老人の腕。
女の腕。
子供の小さな腕。
男の身体を内側から食い破るように、何十本もの腕が伸びた。
声も重なった。
「痛い」
「寒い」
「お母さん」
「助けて」
「にげて」
「みつけた」
僧の顔から血の気が引く。
「……取り込まれている」
佐衛門は答えなかった。
男だけではない。
腕も。
顔も。
声も。
何もかもが、身体の中へ押し込められている。
その時――
山の木々が大きく揺れた。
赤い影が霧を突き破って現れる。
鬼だった。
二本の角。
赤黒い皮膚。
巨大な身体。
伝承に残る姿、そのもの。
だが。
鬼は泣いていた。
肩が震えている。
胸にも。
腹にも。
腕にも。
人間の顔が埋まっていた。
何十もの顔が、鬼の身体の中で蠢いている。
鬼が叫んだ。
「逃げろ!」
声が山を揺らす。
「こっちへ来るな!」
だが、身体は止まらない。
一歩。
また一歩。
鬼自身の意思とは関係なく、こちらへ近づいてくる。
「やめろ!」
鬼が自分の腕を掴んだ。
止めようとしている。
それでも腕は動く。
僧が呟いた。
「……操られている」
佐衛門は鬼の身体を眺めた。
角でもない。
顔でもない。
胸に埋まった人間でもない。
視線を上げる。
背中。
そこに、黒いものが張りついていた。
人の形をしている。
子供ほどの大きさしかない。
けれど――あれだけは、鬼の身体から生えているわけではなかった。
背中に貼りつき、何かを囁いている。
「そっち」
「そっち」
「そっち」
佐衛門の目が細くなる。
「僧」
「はい」
「二手に分かれる」
「しかし――」
「逃げろ」
僧は一瞬、佐衛門を見た。
それから左へ走った。
佐衛門は右へ。
鬼の首がぐるりと回った。
僧を追う。
巨体が地面を踏み砕く。
その背中で、黒い影が笑った。
「そっち」
「そっち」
やはり。
鬼ではない。
あの影が、鬼を動かしている。
だが次の瞬間。
影が止まった。
ゆっくりと、佐衛門を見る。
「……みつけた」
鬼の顔が歪む。
「見るなぁぁぁぁ!」
悲鳴だった。
佐衛門は刀の柄に手を掛けた。
「もう見た」
影が膨らむ。
黒い闇が一気に広がった。
無数の魂が、その前へ押し出される。
首のない男。
胸に顔を埋めた者。
泣く女。
子供。
喰われた者たちが、壁のように重なっていく。
僧の声が遠くで響いた。
「葛城殿!」
返事はしない。
斬れば、彼らまで斬る。
だが。
斬らないわけにもいかない。
佐衛門は目を細めた。
人の姿。
人の声。
人の痛み。
その奥を見る。
闇の中心に、一つだけ。
揺らがないものがあった。
目。
たった一つの目が、佐衛門を見返している。
「……いたな」
一閃。
刃が走った。
目が割れる。
影が絶叫した。
黒い闇が弾ける。
それでも消えない。
むしろ、その奥から何かが這い出してきた。
小さな身体。
痩せた子供だった。
肋骨が浮き出るほど痩せている。
裸足のまま、こちらを見ていた。
鬼が動きを止めた。
大きな身体が震える。
「……おれは」
鬼の声が掠れた。
「鬼じゃない」
*
三百年前。
山は今よりずっと貧しかった。
雪が降れば、人が死んだ。
畑が枯れれば、また死んだ。
ある年、猟師の男が山道で子供を拾った。
捨てられていた。
痩せ細り、声も出せない子供だった。
男は家へ連れて帰った。
飯を食わせた。
火に当たらせた。
それで助かったと思った。
だが。
その夜、子供は死んだ。
男は認めなかった。
冷たくなった身体を抱えたまま、何度も名前を呼んだ。
朝になっても。
昼になっても。
夜になっても。
手放さなかった。
死んだことを認めなければ、まだ生きている。
そう思いたかった。
その想いだけが残った。
男は人ではないものになった。
子供もまた、自分が死んだことを知らないまま残った。
それから三百年。
二つの未練は離れなかった。
いつしか、二人とも何を待っているのか分からなくなっていた。
*
子供が、鬼を見上げた。
「とうちゃん」
鬼の身体が震えた。
「……ごめんな」
大きな手が、小さな子供へ伸びる。
触れる寸前で止まった。
子供が、その手を取った。
「ごめんね」
鬼の目から涙が落ちた。
大きな身体が、ゆっくりと崩れていく。
角が消える。
赤い皮膚が剥がれ落ちる。
その下から現れたのは、一人の猟師だった。
古びた着物。
節くれだった手。
今にも消えてしまいそうな姿。
それでも、その手は子供の手を握っている。
それだけだった。
白い光が二人を包んだ。
鬼哭村に残されていた魂も、次々と身体から離れていく。
泣いていた者。
怒っていた者。
名前を呼び続けていた者。
一人。
また一人。
ようやく暗闇から抜け出していく。
山に、静けさが戻った。
*
だが。
佐衛門は刀を納めなかった。
鬼哭村の中央。
そこに一本の古木が立っている。
幹には、古びた文字が刻まれていた。
――封。
佐衛門が近づく。
根元の土が盛り上がっていた。
その脇に、木札が落ちている。
拾い上げる。
焼き印があった。
――壱。
少し離れたところにもある。
弐。
参。
肆。
伍。
さらに探す。
六。
七。
八。
数えていく。
二十四枚。
佐衛門の指が止まった。
その時だった。
最初に拾った「壱」の札に、赤黒い文字が浮かび上がる。
まるで、内側から滲み出てくるように。
――滅。
僧が息を呑んだ。
「第一の封印が……」
「消えた」
佐衛門は札を見つめた。
残り、二十三。
その時。
遠くの山から咆哮が響いた。
鬼の声ではない。
もっと低い。
腹の底へ響くような声だった。
木々から鳥が逃げていく。
僧が空を見上げる。
「始まったようですな」
佐衛門は答えなかった。
ただ、遠い山を見ていた。
*
鬼哭村を後にしてから、しばらく歩いた。
僧は何度か話しかけようとしたが、そのたびに口を閉じた。
佐衛門も何も言わなかった。
ただ、頭の中には先ほどの親子が残っていた。
子。
親。
情。
別れ。
その言葉が、何かを引っ張り出す。
山。
焚き火。
夜。
大きな岩に腰掛け、胡坐をかく老人。
皺だらけの手。
片目しかない顔。
そして、酒臭い息。
『馬鹿弟子』
昔の声がする。
『刀を振るう前に見ろ』
『人を見ろ』
『妖を見ろ』
『見極めてから斬れ』
佐衛門は歩きながら、ぽつりと呟いた。
「……子と親か」
風が吹いた。
木々の間から、青空が覗く。
「出来れば」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「また、お師さんに会いたいな」
隣を歩いていた僧が、目を丸くする。
「……意外ですな」
「何が」
「貴方にも、会いたいと思う相手がいたとは」
佐衛門は答えない。
「どのような御方なのです?」
少し考えてから、
「老いた」
「はあ」
「一つ目の」
僧が足を止めた。
「……一つ目?」
佐衛門は振り返らない。
「妖怪だった」
「妖怪?」
「ああ」
「お師様が?」
「ああ」
僧はしばらく黙った。
「……人を喰ったりは?」
「若い頃は喰ったらしい」
「……」
「酒飲みで」
「……」
「碁が強かった」
「……」
「刀も強い」
僧はとうとう頭を抱えた。
「それはもう、完全に妖怪ではありませんか」
「妖怪だ」
「そこは認めるのですな」
佐衛門が、ほんの少し笑った。
「変な妖だったよ」
「変な妖……」
「すぐ怒鳴るし」
「はい」
「酒癖は悪い」
「でしょうな」
「説教は長い」
「……」
佐衛門はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「でも」
風が吹いた。
遠くで鳥が鳴いた。
「良い師だった」
僧は何も言わなかった。
佐衛門も、それ以上は話さなかった。
二人の影だけが、山道に長く伸びていく。
*
山の向こうで、何かが鳴いた。
佐衛門は足を止める。
僧も振り返った。
だが、そこには何も見えない。
ただ、遠い山の稜線に黒い影がひとつ。
すぐに霧へ消えた。
佐衛門は刀の柄へ手を添える。
まだ抜かない。
見る。
それから斬る。
師から教わったことだった。
朝靄の向こうで、山が静かに佇んでいる。
その奥で何かが動いた。
二人は、再び歩き出した。
MOMO🩲
ひな
104
けだま15号🍓🐾໊
6,356
夕鳴
128
コメント
1件
読んだよ〜!!😭💕 もうね、冒頭の「鬼が助けを求めてる」って一文で心掴まれた!普通の討伐ものじゃなくて、真実を見ようとする佐衛門のスタンスがかっこよすぎる…! そして何より…親子の未練が三百年も続いてたって切なすぎるでしょ…「ごめんな」「ごめんね」って謝り合うシーンでもう腺崩壊したわ😭💦 鬼の涙が落ちるところ、映像で観たい… 佐衛門の師匠エピも「変な妖だった」って言いながら「良い師だった」って締めるの、グッときた…! 残り二十三の封印、続きが気になりすぎる!!