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泡咲めろあ🫧🪄
843
りんご
904
山の彼方から、獣の咆哮が響いた。
低く、長い。
木々の葉がざわめき、枝にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
鬼哭村を後にした葛城佐衛門と旅僧は、その声を追うように山間の街道を進んでいた。
佐衛門の懐には、二十四枚の封印札。
鬼哭村で見つけた札の一枚には、すでに文字が浮かんでいる。
――壱 滅。
そして、もう一枚。
まだ何も刻まれてはいない。
それが何を意味するのか。
二人は知らなかった。
まして、その先にある三枚目の札が――佐衛門自身へ向けられていることなど。
*
街道脇の森へ入ると、空気が変わった。
土が黒い。
雨でも降ったのかと思った。
違う。
血だった。
木の幹にも、草にも、石にも付いている。
量がおかしい。
これだけ流れていれば、死体が一つくらいあってもいい。
だが、何もない。
骨も。
肉片も。
衣服さえ。
旅僧が足を止めた。
「……妙ですな」
佐衛門はしゃがみ込み、地面へ指を触れる。
乾きかけた血を親指で擦った。
「新しい」
「人の血でしょうか」
「かもしれん」
「では、死体は?」
佐衛門は答えなかった。
森の奥を見ている。
その時だった。
「たすけて」
女の声がした。
僧が顔を上げる。
「生存者ですかな」
「いや」
佐衛門は立ち上がった。
「同じだ」
「何がです?」
「声も」
一歩、森へ入る。
「間も」
また一歩。
「震え方も」
木々の向こうで、何かが動いた。
「全部な」
闇の中で、無数の黄色い目が開いた。
*
一つ。
二つ。
三つ。
数えているうちに、分からなくなった。
旅僧が念珠を握り直す。
その時、佐衛門の懐が熱を持った。
封印札だった。
取り出す。
白かった札へ、じわりと文字が浮かんでいく。
――弐。
その下に、
――餓狼。
裏返す。
そこにも文字があった。
飢えたる者。
声を真似る。
群れを成す。
決して満たされず。
喰らうほど飢える。
佐衛門は札を眺め、鼻から小さく息を吐いた。
「餓狼、か」
その声を聞いたかのように、森の奥で枝が折れた。
一匹。
また一匹。
やがて狼の群れが姿を現す。
痩せていた。
毛はところどころ抜け落ち、皮膚の下から骨が浮いている。
腹はへこみ、目だけが異様なほど大きい。
口を開く。
牙の隙間から、人の声が漏れた。
「たすけて」
老婆の声。
「たすけて」
男の声。
「たすけて」
今度は子供。
旅僧の顔が強張った。
「……人の声を」
「喰った奴の声だろう」
佐衛門は答えた。
一匹が飛び掛かる。
速い。
だが、佐衛門は動かなかった。
牙が届く寸前、身体を僅かに沈める。
目だけが狼の腹を追った。
何かがいる。
「そこか」
抜刀。
音はなかった。
狼が佐衛門の横を通り過ぎる。
着地した瞬間、腹に一本の線が走った。
狼が崩れる。
血は出ない。
身体そのものが灰のように崩れ、その中から小さな光が転がり出た。
子供の姿をしている。
裸足。
痩せた身体。
怯えた顔。
旅僧が息を呑んだ。
「核……」
「違う」
佐衛門は光を見た。
「狼じゃない」
「では?」
「喰われた奴だ」
子供は何か言おうとした。
だが、声にはならない。
やがて淡い光となって、森の奥へ消えていった。
狼たちが唸る。
仲間が一匹消えたことなど、どうでもいいらしい。
むしろ、飢えが増したように牙を剥いた。
その時。
森の奥で地面が盛り上がった。
*
木々を押し倒し、それが立ち上がった。
巨大な狼。
六つの目。
異様に膨れ上がった腹。
身体のあちこちから、人間の指や髪が覗いている。
旅僧が身構える。
だが佐衛門は刀を収めた。
「葛城殿?」
「まだだ」
六つの目が佐衛門を見る。
口が裂けた。
「いっぱい」
女の声。
「いっぱい」
老人の声。
「いっぱい」
子供の声。
いくつもの声が重なる。
佐衛門は狼を見上げた。
「お前」
六つの目が動く。
「何を喰った」
「いっぱい」
狼が笑う。
「いっぱい」
「いっぱい」
佐衛門は首を振った。
「違う」
笑い声が止まった。
「何を喰ったかじゃない」
一歩。
「何を喰われた」
六つの目が揺れる。
狼が黙った。
初めてだった。
怯えたのは。
「お前自身は、何だ」
長い沈黙。
やがて狼の口が震えた。
「わからない」
六つの目から涙が落ちる。
「おなかがすいた」
腹を抱えるように身体を丸める。
「ずっと」
嗚咽が混じった。
「おなかがすいた」
*
三百年前。
この山には、飢饉があった。
畑は枯れた。
獣も減った。
子供から死んでいった。
村には、食べるものがなかった。
そんな時、一人の村長が山奥で食料を見つけた。
背負えるだけ持ち帰った。
村人は救われた。
ほんの少しの間だけ。
食料には限りがあった。
「もっと」
誰かが言った。
「もっとくれ」
別の誰かが言った。
分け合うには足りない。
ならば、奪う。
食料を巡って争いが始まった。
兄が弟を殴った。
隣人が隣人から袋を奪った。
親が、自分の子供へ食べ物を回すため、他の子供を押し退けた。
村長は止めようとした。
だが、止まらない。
誰かを生かせば、誰かが死ぬ。
誰かに渡せば、誰かの分がなくなる。
最後には、村長自身が選ぶしかなかった。
誰に食わせるか。
誰を諦めるか。
その選択だけが、村長の手に残った。
*
「……俺が決めた」
狼の腹から、声がした。
肉の奥から、一人の男が這い出してくる。
骨と皮ばかりの身体。
ぼろぼろの着物。
旅僧が息を呑む。
「……村長」
男は膝をついた。
「誰を生かすか」
自分の両手を見る。
「誰を、切り捨てるか」
握る。
「救うためだった」
顔を上げる。
「村を救うためだった」
「だから……俺は間違っていない」
その言葉に、誰かが笑った。
男の胸。
そこに黒い石が埋まっている。
心臓のように脈打っていた。
「そうだ」
石が喋った。
「お前は正しかった」
「もっと苦しめ」
「もっと悔やめ」
「もっと恨め」
狼たちが一斉に苦しみ始める。
「やめろ!」
村長が叫ぶ。
「もう、やめてくれ!」
石が笑う。
「まだ足りない」
「お前は罪人だ」
「罪を忘れるな」
狼の身体から、無数の声が溢れた。
助けて。
痛い。
腹が減った。
返して。
殺して。
佐衛門は黙って聞いていた。
やがて、黒い石を見る。
鬼哭村で見たものを思い出す。
あれは執着だった。
では、これは。
飢えか。
違う。
飢えだけなら、腹が満たされれば終わる。
これは違う。
喰らっても、喰らっても満たされない。
佐衛門の目が細くなる。
「違うな」
黒い石の脈動が止まった。
「……何?」
佐衛門は刀の柄へ手を置いた。
「お前は飢えじゃない」
石に亀裂が入った。
ぱき。
「後悔に寄生した」
ぱき。
「罪に寄生した」
ぱき。
「欲に寄生した」
黒い石が震える。
「黙れ」
ぱき。
「黙れ!」
ぱき。
「黙れぇぇぇ!」
森中に声が響く。
佐衛門は動かない。
「鬼でもない」
一歩。
「神でもない」
また一歩。
「災厄ですらない」
黒い石の中心。
そこに、小さな核があった。
佐衛門は目を細める。
「……ダニと変わらんな」
森が静まった。
黒い石が震えた。
「黙れェェェッ!」
闇が膨れ上がる。
無数の魂が押し出された。
子供。
老人。
女。
男。
喰われた者たちが、壁となって佐衛門の前へ立ちはだかる。
斬れば、彼らも斬れる。
それでも。
佐衛門は目を逸らさなかった。
斬るのは、人ではない。
魂でもない。
その奥。
黒い石の中心にある、小さな核。
「形があるなら」
風が止まった。
「斬れるな」
抜刀。
音はなかった。
「あの世で」
刃が核を捉える。
「その欲」
一閃。
「絞り取られるといい」
ぱきり。
黒い核が割れた。
石が崩れる。
黒い灰となり、さらに細かな塵へ変わっていく。
風が吹いた。
何も残らない。
*
狼たちが止まった。
唸り声が消える。
一匹。
また一匹。
身体が崩れていく。
灰の中から、光が現れた。
子供。
老人。
女。
男。
何百もの魂が、長い眠りから抜け出すように空へ昇っていく。
村長は膝をついた。
「俺は……見捨てた」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「俺が選んだ」
「俺が、切り捨てた」
三百年。
同じ言葉を、何度繰り返したのだろう。
佐衛門は村長を見る。
「誰も、アンタを恨んではいないよ」
村長が顔を上げる。
「……そんなことが」
「アンタの選択で救われた命もある」
村長の目が揺れた。
「少なくは、なかったんだろう」
村長は何も言えない。
その時、光の中から人影が現れた。
子供。
老婆。
若者。
皆、村長を見ている。
恨んでいる顔ではなかった。
ただ、昔を懐かしむように。
「ありがとう」
子供が言った。
「生きられた」
老婆が笑う。
「少しだけだったけど」
若者が続ける。
「生きられた」
村長の顔が歪んだ。
声を殺そうとして、失敗した。
肩が震える。
涙が落ちる。
「……そうか」
何度も頷く。
「そうか……」
光が村長を包む。
最後に、男は深く頭を下げた。
「ありがとう」
その顔には、もう言い訳がなかった。
村長は魂たちとともに光へ溶けていった。
*
静かになった森で、封印札が一枚、宙へ浮かんだ。
文字が浮かぶ。
――弐 滅。
旅僧が札を見上げた。
「第二の封印が……」
「消えたな」
佐衛門が札を受け取る。
壱と弐。
二枚の封印が滅した。
だが、札はまだ二十四枚。
その意味を、二人は知らない。
佐衛門は札を懐へ戻した。
その足元に、もう一枚の木札が落ちていた。
拾い上げる。
表には、
――拾われし者。
裏には、
――妖に育てられし者。
佐衛門の指が止まった。
「葛城殿?」
返事がない。
佐衛門は札を見ている。
文字ではない。
その向こうにあるものを見ていた。
雪。
白い山。
凍えた手。
腹の底まで染みる寒さ。
そして――一つだけ光る目。
昔の声がした。
『死ぬな』
しゃがれた声。
『死ぬなら飯食ってから死ね』
佐衛門の指が、札を強く握る。
「……お師さん」
それだけだった。
旅僧は何も尋ねなかった。
聞いてはいけない。
なぜか、そう思った。
佐衛門は札を裏返す。
最後に刻まれていた文字を見た。
――参 開。
風が止まった。
佐衛門の目から、わずかに光が消える。
第三の封印。
すでに開いている。
*
山道を下り始めた。
しばらく二人とも黙っていた。
旅僧は先ほどの札のことを考えていた。
佐衛門が「お師さん」と呼んだ相手。
鬼哭村で聞いた、あの一つ目の妖怪。
それ以上のことは、尋ねなかった。
佐衛門も語らない。
ただ歩いている。
いつものように。
だが、懐の札だけが熱を持っていた。
――参 開。
その文字が、頭から離れない。
ふいに、山の奥から風が吹いた。
木々がざわめく。
佐衛門は足を止めた。
遠い記憶が、また一つ浮かんだ。
雪。
焚き火。
大きな岩。
そこに胡坐をかく老人。
片目しかない顔。
酒臭い息。
そして。
『刀を振るう前に見ろ』
『人を見ろ』
『妖を見ろ』
『見極めてから斬れ』
佐衛門は目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
開く。
「……まだ、斬る時じゃない」
旅僧が振り向く。
「何か?」
「いや」
佐衛門は歩き出した。
「何でもない」
山の向こうで、何かが笑った。
今度は、聞き間違いではなかった。
佐衛門は振り返らない。
ただ歩く。
師から教わった。
まず見る。
見極める。
それから斬る。
だが。
今回だけは――。
見極める相手が、自分自身なのかもしれなかった。
懐の札が、また熱を持つ。
――参 開。
佐衛門は、その札を握りしめた。
山の奥で、何かが目を開けた。
コメント
1件
ああ、これ良かったわ…。最初の「たすけて」って声を真似る狼の設定、ゾッとしたし、村長の三百年の後悔に寄生する石って発想がエグい。佐衛門が「ダニと変わらんな」って一刀両断するところ、めっちゃ好き。で、村長が最後に「ありがとう」って救われる流れ、泣いたわ…。それにしても三枚目の札が佐衛門自身に向けられてるって、次回が怖すぎるんですけど!続きマジで待ってます🔥