わたしたちはそれぞれ自分の持つ羽を矯めつ眇めつして、けれどどこにも変わった点のないただの羽にしか見えず、途方に暮れた。
「……これ、どうやって使うんだろ」
シモハライ先輩が言って、わたしも榎先輩も首を傾げた。
「アリスさんは、すぐにイノクチ先生やアリスさんが駆けつけられるよう、報せの魔法をかけておいたって言ってましたけど、先輩たちには?」
訊ねると、榎先輩は、
「わたしも、学校の帰り道に、念のためにって渡されただけだから――シモハライくんは?」
「僕は、イノクチ先生から受け取ったんだ。アリスさんの魔法がかかっているから、絶対に枕元に置いておけって。だけど、この羽の使い方とかは、全然聞いていないんだ」
ごめん、と口にするシモハライ先輩に、わたしも榎先輩も小さく首を横に振る。
それからわたしたちは深い深いため息を吐いてから、
「とにかく、これが何かの役に立つかもしれない。とりあえずこのまま持っておくとして」
とシモハライ先輩はその羽をズボンのポケットに収めて、
「このまま何か変化があるまでここで待ってる? それとも、先へ進むか戻るかする?」
「……あたしは、戻ってみた方が良いと思う」
蒸し返すように榎先輩が口にするので、わたしも負けじと、
「わたしはこのまま道を進みたいです」
言って、シモハライ先輩に顔を向けた。
ずるいかも知れないけど、ここで榎先輩と喧嘩するより、シモハライ先輩の判断に従おうと思ったのだ。もちろん、それが正解である保証なんて、どこにもないのだけれど。
するとシモハライ先輩は「なるほど」と腕組みをして、
「カネツキさんには悪いけど、この先にも何もなかったよ。何せ、僕はあっち側から来たんだから。少なくとも、あっち側には何もなかった」
「じゃぁ、やっぱり引き返して――」
踵を返そうとする榎先輩に、けれどシモハライ先輩は、
「あ、待ってください、榎先輩」
「……なによ」
明らかに不機嫌そうな返事。
それを無視するように、シモハライ先輩は窓の方へ歩み寄ると、
「らちが明かないから、こっちから行ってみましょう」
「えっ」
「はぁ?」
驚くわたしたちには目もくれず、シモハライ先輩は窓枠に手をかけて、
「よっ!」
そんな掛け声とともに、一気に窓を開け放った。
開け放たれた窓の向こう側には黒い闇が広がっていて、もわもわと霧のような煙のような、得体の知れない気体が充満している。
シモハライ先輩はその黒い闇に向かって、何のためらいもなく右腕を突っ込んで。
「ちょ、ちょっとシモハライくん!」
慌てたように榎先輩が駆け寄った。
わたしもつられてその後を追い、
「だ、大丈夫なんですか?」
「さぁ?」
首を傾げるシモハライ先輩。
彼はニヤリと口元に笑みを浮かべると、
「――でも、真帆ならきっと、こうするんじゃないかなって」
「確かにそうだけど、なに、その理由」
「理由になってませんよ! 危ないかも知れないじゃないですか!」
絶対、辞めた方が良いと思う。何かあってからじゃ遅いんだ。
ただでさえこんな訳の解らない世界に閉じ込められて、いつこの闇の中から夢魔が襲い掛かってくるとも知れないのに、あえて危ないことをする必要なんてないじゃない!
でも、シモハライ先輩は首を横に振って、
「まぁ、やるだけやってみよう」
そんな何の根拠もない、前向きな発言をしてから、
「それ!」
意を決したように、闇の中に飛び込んでいったのだ。
「シモハライくん!」
「先輩!」
思わず声を上げ、わたしと榎先輩は、シモハライ先輩の消えた窓の外、その闇をじっと見つめた。
どうしてあんなことができるのか、わたしには理解できなかった。
そんな危険なことをして、いったいどうするつもりなんだろうか。
何が起こるか解らないのに、こんな、こんな危ないこと――
変な汗が全身から吹き出してきて、一瞬にして呼吸が荒くなった。
見れば、榎先輩も目を大きく見開き、固唾を飲んで窓の外を凝視している。
闇の向こう側からは何の音も聞こえてはこなかった。
何も変わることはなかった。
ただ、その中にシモハライ先輩が消えてしまったことを除いては。
「し、シモハライ、先輩……」
思わず口にした時だった。
「ふたりとも! こっちに!」
闇の向こう側から、シモハライ先輩の叫ぶ声がした。
どうやら無事らしい、とわたしも榎先輩も、ほっと胸を撫でおろす。
榎先輩は闇に向かって、
「なに? 何があるの?」
声を掛けると、
「外に出てみてください!」
再びシモハライ先輩の声がする。
わたしと榎先輩は顔を見合わせ、しばし逡巡する。
果たしてこの声は、本当にシモハライ先輩のモノなのだろうか。
確か、イノクチ先生が言ってなかっただろうか。
夢魔は、擬態すると。
もしかしたら、この闇の向こう側にいるのが、その擬態した夢魔である可能性だって無いわけじゃない。だとしたら、これは相当に危険なのではないだろうか。声だけがして、当の本人の姿が見えない。そもそも、本当にアレはシモハライ先輩だったんだろうか。唐突に現れて、窓の外に誘い出して、わたしや、榎先輩を――
そう思いながら榎先輩に視線をやって、わたしの中に疑念が過る。
なら、榎先輩は? この榎先輩も、本当に、本物の榎先輩なのだろうか? もしかしたら、この榎先輩だって夢魔の擬態した姿である可能性があるのだ。絶対にそうではないと言い切れない。或いはシモハライ先輩も榎先輩も、二人とも夢魔の擬態した姿で、わたしを、
「――ちょっと、大丈夫? アオイ」
榎先輩がわたしに振り向き、眉間に皺を寄せながら訊ねてきた。
「顔色悪いけど、平気……なわけないよね」
「あ、いえ、わたしは」
言いかけて、けれど何も言えなくて。
今、自分の心に過った不安を口に出すことすら恐ろしくて、わたしは首を横に振った。
「……大丈夫です」
「まぁ、不安だよね。こんな明らかに危なそうなこと、できるわけないもの」
「そう、ですね」
「これはホント、シモハライくんも真帆みたいになってきたね」
「そうなんですか?」
うん、と榎先輩は頷いて、
「前はここまで思いっきりのいい性格じゃなかったと思うよ。逆に真帆はなんでもやってみよう、試してみようって、何の根拠もないのにアレコレ強引にやっちゃう性格だからさ。あんなのと付き合ってるうちに、影響されちゃったんだろうね」
「……はぁ」
よく解らないまま返事して、もう一度、わたしは窓の外の闇に目を向けた。
「さぁ、どうする? あたしらも行ってみる?」
「えっ」
榎先輩に声を掛けられ、わたしは迷う。
どうしよう、どうしよう。本当にこの中に飛び込んで大丈夫なのか、危険はないのか。
いや、危険なのはこの夢に居る間、ずっと変わりないはずだ。この夢から抜け出さない限り、夢魔に襲われるかもしれない。それによって魔力を吸い取られて、命を落としてしまうかも知れないことには変わりないのだ。
なら――と決意を固めようとしたところで、
「もう! なにやってんだよ!」
闇の中から当のシモハライ先輩が顔を覗かせ、
「大丈夫だから、早くおいでよ!」
急かすように、ふんっと鼻を鳴らしたのだった。
そこにいるのは、間違いなく、何の害もなさそうな、ただのシモハライ先輩で。
その様子に、わたしも榎先輩も思わず笑みを漏らす。
……たぶん、大丈夫。
あの夢魔に出くわした時の嫌な感じなんて、全然しなかった。
「行こう、アオイ」
榎先輩がわたしに右手を差し出してきて、
「はい!」
わたしは頷くと榎先輩と固く手を結び、
「「えいっ!」」
二人一緒に、闇の中に飛び込んだ。