「すみっませんでしたぁーーー!!」
辺りに謝罪の声が響く。怪我をしていた主婦を救急車に送り届けた後、道に置かれたベンチに座る少女の前で、詠心は綺麗な土下座を決めていた。
「ちょっとビックリはしたけど、悪気はなかったみたいだし、気にしなくていいわ」
その場所に先程まであった筈の大きな亀裂は、ゴリラの化物が少女によって倒されたと同時に綺麗さっぱりと姿を消している。亀裂があった宙を眺めながら少年が話し始めた。
「それ以外にも何より…」
心底安心した表情で詠心が言葉を続ける。
「お二人…? には本当に助けられました!ありがとうございます!」
少女とその隣に浮かぶ小さな侍を見ながら再び頭を下げる詠心。そんな彼を見て、老人のような見た目の小さな侍がうんうんと頷く。
「ふむ。今時礼節を重んじるとは、感心な童じゃ」
「わらべ!?僕そんなに幼く見えます?」
小さな侍の言葉に驚いた表情を浮かべる詠心。
「儂から見れば童も童よ。暇があるなら、今から野を一緒に駆け回っても構わんぞ?」
「いつの時代の童なんですか…!やるなら1人でお願いします」
「相分かった! 見ておいてやるから、そこの道を走れ」
「僕が1人で走るの!?微塵も伝わってない…」
「…ふふっ!あなた面白いわね」
片手で口を押さえながら微かに笑う少女。
「そ、そうですか?」
照れくさそうに頬をかく少年。
「あ、あの…僕は一野瀬詠心といいます。良かったらお二人のお名前を…」
「名前? 別に構わないけど…こっちはカンベエ」
彼女は小さな侍をぬいぐるみのように両手で抱えながら紹介する。
「私は……」
「……?」
時間が止まったかのように固まる彼女を見て、不思議そうな表情を浮かべる詠心。
「…コホン。私は乙辺サファイア」
(おとべ…?)
少年が目を一瞬見開く。詠心のその表情を見て、何故か目を伏せるサファイア。詠心の脳裏に今朝も雑巾となりながら見ていた動画がよぎった。彼の瞳がキラキラと輝き始める。
「乙辺……乙辺セレナ」
「っ!」
その言葉を聞いたサファイアが急いでベンチから立ち上がる。逃げるように彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間……。
「もしかして…あの乙辺セレナと同じ名字なんですか!?」
「は、はい?」
呆気に取られたような表情をするサファイアに向け、子どものように目を輝かせながら詠心が続ける。
「僕、乙辺セレナが大好きなんです!!」
◆
「乙辺セレナを知ってるなんて……神子に詳しいのね」
サファイアが再びベンチに腰を下ろし、微笑みながらそう話す。
「勿論ですよ! 5年前の東京指揮者事件やその他にも多くの事件を解決に導いた伝説の神子…乙辺セレナ!」
「彼女は数多くの神子を語る上で絶対に外せない存在なんですよ!」
「ふふっ…。私もその気持ち分かるかも」
「え?もしかして乙辺さんもセレナさんの事を知って?」
「まぁ…多少はね」
「あの透き通るような真っ直ぐな歌声、最高ですよね!」
「うん、分かる。それだけじゃなくて、1つ1つの所作すら美しいわよね」
「分かります!優雅な上にカッコいいんですよね!それに…」
気付けば詠心とサファイアは乙辺セレナの話で大きく盛り上がっていた。その後も2人は時間を忘れて喋り続け、いつの間にか日が傾き始めている。
「いやーまさかセレナさんについてこんなに話が出来るなんて…」
「私もこんなに詳しい人に出会ったのは初めてかも」
詠心はキラキラとした目をサファイアの制服に向ける。
「その上、乙辺さんは神威学園の生徒でもあるなんて…」
少年は嬉しそうな表情で符尾のように垂れ下げた髪をピョコピョコと動かしながら、サファイアの着る特徴的な制服を見つつ話を続けていく。
「各地にある神子を育て、不協和音ノ獣と戦う学校…その中でも名門と呼ばれている神威学園っ!!」
「まさか助けてくれた方が、セレナさんも在籍していた神威学園に通う人だったなんて!」
いつの間にかサファイアの隣に座り、幸せそうなつい先程化物に殺されかけたとは思えない顔をしながら拝むように両手を合わせる詠心。
「あなた本当に神子が好きなのね」
「勿論です!!」
少年は食い気味にサファイアに顔を近付ける。スマホを取り出した彼は、そこに保存された色とりどりの装束を着た男女の写真を見せ始めた。
「僕、『神子』が好き…いや愛してるんです!!」
彼の真っ直ぐな神子という言葉に眉をぴくりとさせるサファイア。しかし目をキラキラさせながら語る詠心はそれには気付いていない。
「特に神子が異次元から召喚した伴奏者と連携したり、その力を身体に宿して不協和音ノ獣を倒す姿なんて、それだけで大盛りご飯が何杯でも食べられますよ!」
「変わったおかずね…」
お茶碗で米をかきこむような仕草をする詠心に思わず笑うサファイア。
「だから、僕にとってはそんな神子を育てる神威学園は憧れで、そこに通うサファイアさん達や皆さんは漏れ無く凄いんです!!」
「そうなの?」
真っ直ぐな言葉をぶつける詠心に微笑むサファイアだったが、その表情が一瞬で変わる。
「……でも、そんなにいいものでもないわ」
「えっ?」
サファイアの顔に浮かんだのは一見して笑顔のようだった。だがそれは誰かに向けた明るいものではなく、まるで自分自身に向けられているようなそんな表情だ。サファイアのその笑顔に何故か胸の奥がきゅっとなるような感覚を抱く詠心。
(この表情…、何処かで…)
その既視感を思い出そうとする少年だったが、彼女がベンチから立ち上がった事でそれは遮られる。
「私は今回の件を神威学園に報告しなくちゃいけないから」
「あっ…」
「それじゃあね」
軽く手を振って去っていくサファイアとカンベエに思わず手を伸ばす詠心。しかし、彼は途中で手を引っ込め、その場に留まる事を選んだ…。
◆
深夜、刀と音符が合わさった特徴的な校章が入り口に刻まれた道場。そこでサファイアが歌っていた。いつからその場所にいたのか、彼女の額には大量の汗が浮かび、服にも大きな染みが出来ている。
サファイアの隣にはカンベエが静かに浮かんでいた。ふらつき倒れそうなる足を叩き、目を見開いて歌い続けるサファイア。安全な場所にいるにも関わらず、何故かその表情は不協和音ノ獣に襲われた詠心のようであった。
「お姉ちゃん」
いつの間にか彼女の傍らには別の少女が立っている。瑞々しく生い茂る草木のような…長い緑の髪を持った少女は、サファイアの逆側、左のサイドをポニーテールにしていた。彼女もサファイアと同じ制服を着ていた。
少女はサファイアに向けてタオルと水の入ったボトルを差し出すが、彼女は受け取らない。仕方なく近くの机にそれを置く緑髪の少女。まるで彼女が見えていないかのようにサファイアは再び歌い始める。
「お姉ちゃん…いくら何でも頑張り過ぎじゃない?」
「……」
何も答えないサファイア。そんな彼女を見て、緑髪の少女が続ける。
「お母さんの事があるとはいっても、少しぐらい休憩し…」
「私はお母さんの為にも強くならないといけないの」
緑髪の少女の言葉を遮るように話すサファイア。彼女はヒスイと呼んだ少女に背中を向けた。
「それは、お母さんがお姉ちゃんを庇って怪我をしたから?」
「違う!そうじゃ…!」
サファイアが突然声を荒らげる。言ってから何故かハッとしたような表情になった彼女は、首を横に振って話を続けた。
「……いや、ごめん。でも私の事は放って置いて」
ヒスイに背を向けるサファイア。
「…分かったよ。でもお姉ちゃん……無理はし過ぎないでね」
その言葉を残し、去っていくヒスイ。背後に遠ざかっていく音に耳を傾け、その音が聞こえなくなったと同時に座り込むサファイア。
(私は何をやってるの?)
サファイアは妹の持ってきたタオルとボトルを大事そうに掴む。
(でも……)
サファイアの脳裏に、母セレナに向けて手を伸ばす自分の姿がよぎった。その光景を振り払うかのように頭を振った後、彼女は再びその場に立ち上がる。
(……誰の力も借りられない。私は)
「自分の力だけで、お母さんのようになるんだ…」
その日、明け方まで道場からは歌声が響き続けていた…。
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