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夜も深まり、周囲には誰もいない。
怜と奏の二人だけだ。
肌を刺すような冬の夜風が二人を包み、鉛のように重い空気が漂う中、奏が戸惑いつつも徐に口を開いた。
「先ほどの話…………全部聞いていたんです……よね……?」
顔を下に向けたまま、奏は怜に問いかけると、彼は落ち着き払った声色で『ああ』と答える。
全てを聞かれてしまったのなら、もう自分の口から正直に言うしかない、と思った奏は、ため息を震わせながら吐くと、ポツリ、ポツリと怜に話し始めた。
「今から十年前、私が高二の頃……音楽そのものが嫌になった時期があったんです。部活の練習と並行して、ピアノで音大受験のために月二回、響美の先生にレッスンしてもらって…………自分で決めた事とはいえ、毎日音楽漬けの日々に……精神的に病みそうになってしまって……」
奏の手を握る筋張った手に視線をやりながら、彼女は話を続けた。
「部活もピアノの練習もサボり、何もかも投げやりになっている時に……先ほどの男、OBの中野先輩と出会ったんです。彼は卒業後も、部活に顔を出して後輩に指導して、同じラッパパートというのもあって、彼からアプローチされて付き合う事になったんです……」
話しながら、自分の顔が歪んでいきそうになるのを感じるが、堪えながら怜に話す。
「付き合い始めてから、そういうエロい雰囲気になりそうになったけど……私がまだ未経験で、セックスに対する恐怖心というのもあって、ごまかしてきたけど…………付き合って三ヶ月経った時、デートと称して彼のアパートで会った時に……無理矢理……処女を奪われて…………避妊しないで……外出しされて……」
奏は、ここで大きくハァっと息をつくと、彼女の頭上から息を呑むような音が聞こえた気がした。
「それから、あの男から連絡が来なくなり、強引に処女を奪われてから二ヶ月経っても生理が来なくて、親に内緒で妊娠検査薬の二回用を購入して…………二回とも陰性だったけど…………更にそこから一ヶ月過ぎても生理が来なくて。それで私、不安になって……あの男に電話したんです」
怜は何も言わずに、奏の言葉を聞いてくれていた。
(こんな事を話して、葉山さん、私の事……軽蔑するかな……いや、してるだろうな……)
そんな不安が奏の胸中を過るが、もう最後まで話すしかなかった。
「そしたら、明らかに不機嫌そうな声で『何の用だ?』って聞かれて、生理が来ない事を伝えると、『ちょっと待ってろ』って言われて……数分後に電話に出たのが女の人でした。『あなたが中野の浮気相手ね? 中野とは何回ヤッたの? 生理が来ないんだったら、早く産婦人科に行って検査してもらってきて』って言われて。ここで私は初めて…………あの男には正式な彼女がいる事を知ったんです……」
怜は目を見張った。
彼が想像していた以上に、奏の心と身体の傷が深かった事に。
ふと、以前彼女が言っていた言葉を思い出す。
『信じる者は救われる、なんて言葉があるけど、あんなの嘘! 信じるだけ無駄だし、信じる者はバカを見る!! これが私の中の定説……!』
それともう一つ。
彼が奏に告白した時、彼女は『人を好きになるのが怖い』とも言っていた。
人を好きになり、また傷付けられて同じような目に遭うのではないか、と考えているのだろう。
勇気を出して恐怖心から抜け出したいが、もしかしたら、その一歩を踏み出す事が、奏にとっては怖い事なのかもしれない。
恋人だと信じて疑わなかった男に裏切られた事が、奏をこのような思考にさせたのだと、怜は考えた。
「本命の彼女に、どこの産婦人科に行くか聞かれて、駅前の立川産婦人科に行く、と伝えました。電話した翌日、学校を休んで立川産婦人科で妊娠してるかどうか、検査しに行きました。診察台で脚を開いて、エコーの検査でアソコにプローブを入れられて…………それが苦痛で堪らなくて。結果、妊娠していなかったんですが、医師からお叱りを受けた後、『検査結果を、これからあなたのお姉さんにも伝えるから』と言われて……」
奏が、またも大きく息を吐き切る。
「私は一人っ子なので、兄弟姉妹はいない。なので医師の言葉を疑いました。でも、よく考えたら、あの男の本命の彼女が、どこの産婦人科に行くか、聞いてきたなって思い出して……。私の姉のフリをして、検査結果を聞こうとしてたんです。『そこまでやるのか』と思ったら、恐怖すら感じて……」
怜が大きくため息を吐くのが、奏の頭上から聞こえた。
「その事があって、私は『男なんて……結局ただヤリたいだけなんだ。こんな思いをするなら、もう彼氏なんかいらない……』って思うようになって。男性に対して心を頑なに閉ざすようになって…………今に至る感じ……です……」
怜は奏の話を聞き終えると、彼の中でずっと疑問に思っていた事がやっと理解できたのか、前髪を無造作に掴み、掻き上げる。
「君が男を寄せ付けないように冷たく振る舞っていた理由…………そういう事だったのか……」
怜は、やり切れない表情を見せ、掠れた声で独りごちた。
「どうせ、あなたも私の事を、『男に騙されたバカな女』程度にしか思ってないんでしょうけど」
奏は自嘲しながら、嫌味混じりに怜に向けて吐き捨てた。
彼が眉根を寄せながら険しい表情を映し出し、『ハァ……』とあからさまにため息を吐いた後、奏の手を握る力が更に強まった。
怜に全てを話し終えた奏。
先ほど言われた中野の言葉も思い出し、瞳の奥が異様なほど熱い。
「葉山さん」
奏は、彼の苦痛に歪んだような奥二重の瞳に眼差しを送る。思い返せばまだ、怜に告白の返事をしていない。
(いくら彼から告白されて、私も密やかに想っていたとしても、こんな私に葉山さんは釣り合うわけがない……)
彼女は決断すると、自分に言い聞かせながら怜に返答する。
「私は、心も身体も穢れたバカな女です。葉山さんには私よりも、もっとふさわしい女性がいると思います。なので、あなたとは付き合えま——」
「自分で自身を抉るような事を言うのは……もう止めろ!」
奏が言葉を言い切る前に、感情を捻じ曲げたような声で怜は言葉を遮ると、彼女を射抜いたまま、空いている方の腕をすかさず伸ばした。