テラーノベル
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縫季は答えない。
答えたら、嘘になる。
楽にはならない。ただ、次の渇きまでを先送りするだけだ。
男の手が落ちる。壁に頭を打ちつけそうになったのを、縫季が支えた。
周囲の空気が、薄く冷えていた。
配給は止まった。だが、止まったあとに残るものがある。
(遅い)
縫季は立ち上がった。もっと早く見つけるべきだった。もっと早く切るべきだった。
そう思う資格が自分にあるのかは、考えない。
市場を抜け、医官府の裏手へ回る。
朝の荷車が二台。片方は薬草。もう片方は、空のように見える。
だが縫季の嗅覚は知っている。空の匂いではない。
乾いた麻袋の奥。木箱の継ぎ目。わずかに甘い。
まだ残っている。
縫季は壁際の陰へ身を寄せ、荷役の動きを見る。
帳を持つ若い役人が一人。箱を受け取る男が二人。そのうち一人の袖口に、見覚えのある印があった。
医官府の正式印ではない。清朗の印でもない。さらにその裏を流れる、仮印だ。
(黒闢の手だ)
露骨ではない。だが雑になっている。清朗が抜けたことで、表を繕う者がいなくなった。
縫季は荷車が中へ入るのを待ち、裏の記録棚へ回った。
古い木戸。鍵は掛かっていない。掛けていないのではなく、掛け忘れている。綻びはいつも、そういう形で出る。
中は暗い。木簡と乾草の匂い。そして、甘い香の残り火。
帳を開く。
「民生安定」「鎮静補助」「夜間臨時」
名目だけが整っている。量は減っている。だが消えていない。
その横に、別の木簡が挟まっていた。
東境。小集落。追加搬送。
縫季の目が止まる。
東。
やはり繋がっている。狂楽香は、ただ民を静めるためだけではない。東方への流れを隠す、緩衝材だ。
街を鈍らせ、視線を逸らし、その間に別の線を動かす。
(黒闢)
名を口にはしない。だが輪郭はもう十分だ。
縫季は帳を伏せた。持ち出さない。破らない。消せば、追えなくなる。代わりに、一本だけ位置をずらした。
帝辛が必ず朝議前に確認する、通常配給の帳の束の上に。東境の搬送記録の木簡を、束の上に一本だけ載せた。
偶然、目に入る。だが見落としにくい。
縫季ができるのは、ここまでだ。
直接言えば、帝辛は止める。止めれば、自分は去れない。
去れなければ、歪みは残る。
外へ出ると、陽が少し高くなっていた。
その瞬間。
薄く、任務照合の香波が触れた。
言葉ではない。圧だ。
重さとして、背に乗る。
線は戻りつつある。余計な痕跡を残すな。
そういう意味の重さだった。
縫季は立ち止まった。
(……分かってる)
だが、帳はもう置いた後だ。
気配は答えない。ただ、少しだけ重さが増した。
縫季は歩き出した。
裏庭の端で、女が一人うずくまっている。腕の中の子は眠っているのではなく、ぐったりしていた。女の唇はひび割れ、視線が合わない。
「……配給は、もう……?」
縫季はしゃがんだ。子の額に触れる。
熱い。
香の禁断だけではない。水も足りていない。食も落ちている。身体が耐えきれなくなっている。
縫季は袖から小さな袋を出した。乾燥した薬草だ。本来は自分用の携帯薬。水に煎じれば熱を少しだけ落とせる。
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409
「これを煮ろ。一度に飲ませるな、少しずつだ」
女は袋を受け取る。何かを言おうとして、言葉にならない。
その瞬間。
背の圧が、また強くなった。
さっきより重い。
余計な手を加えるな。
縫季は、その重さを感じながら立ち上がった。
引っ込めなかった。引っ込められなかった。
どちらが正しいのか、もう分からない。
縫季は歩き出す。
王太子府へ戻る道すがら、縫季は空を見た。
白い。高い。何も書いていないみたいな空だ。
帝辛はいま、朝議に出ているだろう。子嘉の顔色を見て、臣の配置を見て、東境の報告に目を留めるかもしれない。
そこまで想像して、胸が痛んだ。
王太子府の外れに着いたところで、縫季は立ち止まった。
背の圧が、もう一度触れた。
今度は言葉に近い形で。
――線は戻りつつある。
――お前の仕事は、終わりに近い。
縫季は答えなかった。
答える資格が、自分にあるのか分からなかった。
ただ、掌だけを見ていた。
微かな冷え。
帝辛との線は、まだ残っている。
仕事を片づけても。民に手を出しても。
線は、まだここにある。
縫季は掌を閉じた。
王太子府の屋根越しに、朝の陽がさらに上がる。
帝辛の国は、今日も動いている。自分がいても、いなくても。
その当たり前が、何より痛かった。
縫季は歩き出した。
残務は、まだ終わらない。
終わっていないふりをしているだけかもしれない。
それでも、前へ進むしかなかった。
コメント
1件
ああ〜もう、第50話…!! ここまで来て「終わりに近い仕事」ってタイトルが重すぎるよ…😭💔 縫季、ずっと答えを出せなくて、でもちゃんと動いてて…子に薬草渡すシーン、背中の圧が強くなっても引っ込めなかったところ、本当に心抉られたよ…。帝辛との線がまだあるって、掌を閉じるところ、切なすぎて息止まった。 Hp2さんの言葉の重みと空気感、毎回痺れるんですけど…!! この細かい伏線の張り方、マジで天才すぎる😭🌸