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#貴種漂流譚
wadaken1
67
雨が降っていた。
細く。
静かに。
夜の森を濡らしている。
エレナは肩を震わせた。
冷たい。
数日間、 二人はほとんど眠れていなかった。
町を避け。
村を避け。
人目につかない森ばかりを歩く。
まともな食事も取れていない。
「寒いか。」
ルシアンが聞いた。
エレナは少し笑った。
「少しだけ。」
ルシアンは黙る。
自分の外套を外した。
「着ろ。」
「え?」
「俺は平気だ。」
「でも。」
「平気。」
有無を言わせない。
エレナは苦笑した。
「頑固。」
「よく言われる。」
外套を羽織る。
ほんの少し。
ルシアンの匂いがした。
雨。
森。
そして。
どこか甘い夜の香り。
「ありがとう。」
ルシアンは何も言わず、 前を歩き始めた。
森を抜けると、 小さな村が見えた。
煙突から煙が上がっている。
「人がいる。」
エレナが呟く。
ルシアンは立ち止まった。
「……食料がいる。」
「入る?」
「できれば避けたい。」
だが。
エレナの顔色は悪い。
数日間の疲労。
空腹。
限界が近い。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「俺が行く。」
「一人で?」
「すぐ戻る。」
「私も。」
「駄目だ。」
即答だった。
「見つかったら。」
「二人とも終わる。」
エレナは少し考えて。
頷いた。
「……わかった。」
ルシアンは笑った。
「いい子だ。」
「子ども扱いしないで。」
「してない。」
「した。」
少しだけ笑い合う。
その時間が、 二人には貴重だった。
ルシアンは村へ向かった。
エレナは森で待った。
静かだった。
雨も止み始めている。
大丈夫。
きっと。
そう思っていた。
その時。
背後で枝が折れた。
振り返る。
誰かいる。
黒い外套。
長い剣。
赤い瞳。
追撃隊。
「……見つけた。」
低い声。
エレナの身体が強張る。
男は剣を抜いた。
「人間。」
逃げなきゃ。
そう思う。
足が動かない。
「おとなしく来い。」
男が近づく。
「抵抗するな。」
エレナは一歩下がる。
「来ないで。」
男は止まらない。
「命だけは助けてやる。」
嘘だ。
わかる。
本能が叫ぶ。
逃げろ。
だが。
身体が動かない。
男が手を伸ばした。
その瞬間。
黒い影が飛び込んだ。
鈍い音。
追撃隊の男が吹き飛ぶ。
「ッ!!」
地面を転がる。
エレナが目を見開く。
「ルシアン!」
ルシアンだった。
瞳は真紅。
牙が覗いている。
手には、 奪ったばかりの短剣。
男が立ち上がる。
「裏切り者……!」
ルシアンはエレナを背に庇った。
「下がれ。」
「でも!」
「下がれ!」
その声に、 エレナは息を呑んだ。
初めてだった。
こんな声を聞くのは。
追撃隊の男が笑う。
「人間を守るためか。」
「堕ちたな。」
ルシアンは答えない。
男が剣を振る。
速い。
だが。
ルシアンは避けた。
そして。
一瞬で間合いを詰める。
短剣が閃く。
火花が散る。
男が距離を取る。
「本気か!」
「本気だ。」
ルシアンは静かに言った。
「通してもらう。」
「断る!」
再び剣がぶつかる。
エレナは息を呑む。
速すぎる。
見えない。
金属音だけが響く。
男が叫ぶ。
「たかが人間一人!」
「何故だ!」
「何故そこまで!」
ルシアンは答えた。
「知らない。」
剣を弾く。
「でも。」
また一歩。
「守りたい。」
男が目を見開く。
「そんな理由で!」
「十分だ。」
ルシアンが踏み込む。
短剣が、 男の剣を弾いた。
高い音。
剣が宙を舞う。
男が後ずさる。
ルシアンは短剣を向けた。
喉元。
あと少し。
殺せる。
男が笑った。
「やれ。」
雨が降る。
「人間のために。」
「仲間を殺せ。」
ルシアンの手が止まる。
男は笑う。
「できないか?」
エレナが震えた。
ルシアンの背中が、 小さく揺れている。
男はさらに笑った。
「甘い。」
その瞬間。
懐から短刀を抜く。
エレナへ投げた。
「ッ!」
避けられない。
エレナが目を閉じる。
その前に。
ルシアンが立った。
短刀が肩を貫く。
「ルシアン!」
血が落ちる。
赤い。
雨に溶ける。
男が笑った。
「だから甘い!」
ルシアンは肩を押さえた。
そして。
ゆっくり顔を上げる。
エレナは息を呑んだ。
瞳が。
今までより深く、 赤く染まっている。
牙が伸びていた。
男が一歩下がる。
「おまえ……。」
ルシアンが言った。
静かに。
感情を押し殺すように。
「……二度。」
一歩。
「彼女を。」
また一歩。
「狙うな。」
男は剣を探した。
落ちている。
遠い。
間に合わない。
ルシアンは短剣を投げた。
銀の光。
男の肩を貫く。
悲鳴。
その隙に。
エレナの手を掴む。
「走るぞ!」
「え?」
「今!」
二人は駆け出した。
男の怒鳴り声が聞こえる。
「逃がすな!」
遠くで。
追撃隊の角笛が鳴った。
仲間を呼んでいる。
ルシアンは止まらない。
森を抜ける。
川を越える。
雨に濡れながら。
エレナは気づいた。
ルシアンの手。
震えている。
「……痛い?」
聞く。
ルシアンは首を振る。
「違う。」
「じゃあ。」
長い沈黙。
やがて。
小さく言った。
「怖かった。」
エレナは驚いた。
「え?」
「殺しそうだった。」
雨が落ちる。
「おまえを傷つけられて。」
「本当に。」
「殺しそうだった。」
エレナは何も言えなかった。
ルシアンは俯く。
「……そんな自分が。」
「少しだけ。」
苦しそうに笑う。
「怖い。」
エレナは立ち止まった。
ルシアンも止まる。
エレナは、 そっと彼の傷ついた肩へ触れた。
「ルシアン。」
「なんだ。」
「ありがとう。」
雨音だけが響く。
「守ってくれて。」
ルシアンは困ったように笑った。
「……当たり前だ。」
「どうして?」
その問いに。
彼は少し考えて。
そして。
静かに答えた。
「おまえを失う方が。」
雨の向こうを見つめる。
「俺が俺じゃなくなる気がする。」
エレナの胸が熱くなる。
彼女は、 そっとルシアンの手を取った。
その指先には、 まだ雨と血が残っている。
冷たいはずなのに。
不思議なくらい、 安心できた。
二人は、 再び歩き出す。
夜の果てへ。
追撃隊の刃から逃れるため。
そして。
互いを守るため。
知らぬ間に。
逃亡者だった二人は。
もう、 ただ逃げるだけではいられなくなっていた。
誰かがその手を奪おうとするなら。
誰かがその命を狙うなら。
牙を剥く。
刃を向ける。
たとえ、 世界そのものを敵に回したとしても。
月は雲間から姿を現し、 寄り添う二つの影を静かに照らしていた。
――
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