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「いや…………全く逆だ」
廉は手首を振り解くと、優子の頭を胸に抱え込む。
「掲示板の近くで君に会った時、昇進辞令を確認しに、一階へ向かったんだ。君と最後に取材を受ける直前、社長から呼び出され、新年度は専務取締役として、業務に当たってもらう、と言われてな」
(だから最後に松山部長と仕事した時…………寂しそうな顔をしてたの……?)
厚みのある胸に引き寄せられていた優子が、おずおずと廉を見上げる。
「あの時……俺は、まだまだ広報部で仕事がしたいと思っていた。いや…………優子と…………もっともっと仕事がしたいと思っていたんだ。ひたむきに仕事に向き合う姿勢と……仕事で失敗しても、前向きな君に…………俺は……いつしか想いを寄せるようになったんだ」
節くれだった指先が、アッシュブラウンの艶髪を梳かしていきながら、廉は言葉を紡いでいく。
「専務に昇進は、まだ数年先の事だろうと思っていたから、寝耳に水だった。君も知っていると思うが、社長である父に腹立たしく思った。俺は、秘書を引き連れる器ではないし、現場で仕事をするのが好きだったからな。だが……」
彼は、繊麗な両肩を掴み、優子にまっすぐな眼差しを送る。
「君には…………不快な思いをさせてしまってたんだな。今さらだが……すまなかった……」
抱きしめていた腕を緩ませた廉は、優子に会釈する。
彼が再び抱擁しようとするけれど、彼女が腕を伸ばして止めた。
「松山専務」
優子は、努めて明るい声音で、廉の苗字と役職名を口にした。
「専務とは……これで本当に…………さよなら……です……」
その声から滲む何かを、廉は感じ取ったのか、眉尻を下げながら表情を困惑させている。
「いつまでも…………私が尊敬する上司で…………いて下さいね」
廉に会うのは、これが最後、という思いが込み上げていき、彼女は気持ちを封印するように、精一杯の笑顔の花を咲き誇らせた。
今になって在職中の事を思い返すと、廉が専務に昇進してからの彼女は、胸の内が虚無に覆われていた。
仕事に身が入らず、思い出すのは、一年間のメディア取材を、廉と一緒に担当していた時の事。
仕事でミスした時も励ましてくれて、人生で初めて、彼女に褒め言葉を与えてくれた彼に、優子は、仄かな好意を寄せていたのかもしれない。
彼女の視界に映るのは、やるせない面持ちで、唇を小刻みに震わせている廉。
それは、淡々と仕事を熟す、かつての上司の表情ではなく、優子に哀願するような眼差しを向けている、一人の男だった。
「優──」
「お願いです……。もう優子って…………呼ばな──」
「優子……!」
彼女に触れている廉の指先に、力が込められると、声にならないような声色で呟く。
「最後に……一つだけ…………頼みを聞いてくれ……」