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マットを叩く智子の手。その手が三回目にマットへ触れる瞬間、ほんの数センチ――いや、数ミリ手前で、智子は腕を横へと滑らせた。
『か、かかかか返したぁぁーっ! 佐野っ! ダブルタイガーかぐやスペシャルを返しましたぁぁぁぁぁーっ!! この瞬間、ダブルタイガーのピンホール率100%が崩れ去りましたーーっ!』
満員に埋め尽くされた観客達の悲鳴のような歓声と、足踏みから来る地響きが幸楽園を包み込む。
「う、うそ……」
「あ、ああ、ありえねぇだろ……」
そんなの中で、呆然とスクリーンを見上げる二人。いや、この二人だけでは無く、一度でもダブルタイガーを受けた事のあるレスラーなら同じようになっているだろう。
「なあ、お前たち――二人はダブルタイガーを何回受けた事がある?」
「えっ……あ、ああ……わ、わたしは一回だけです……」
「アタイは三回だ。アレを出されたら、それで全部ピンフォール負けしてる」
「そうか……ちなみに佐野は、その何十倍も受けているぞ」
「「なっ!?」」
その衝撃のセリフに、佳華の方へ振り返る絵梨奈と詩織。その二人の視線を受けながらも、佳華はジッとスクリーンを見上げていた。
ダブルタイガーを返されたのは、かぐやとしても予想外だったのであろう。
呆然と座り込むかぐや……そして佐野は、転げ落ちるように青コーナ付近の場外へとエスケープして行った。
そんな光景を見つめながら、佳華は言葉を|紡《つむ》いでいく。
「元々、ダブルタイガーは佐野が考案した技でな。かぐやがプロ入りする時にくれてやった技なんだよ。そして、かぐやがダブルタイガーをモノにするまで、練習相手をしていたのも佐野だ。リングよりも柔らかいセーフティマットの上ではあったけど、佐野は何十回ってダブルタイガーを受けていた。だから自然と、その受け身のとり方が身についていただろうし――何より考案者だからな。ポイントの外し方は一番分かっているだろうよ」
佳華の言葉を聞いて、再びスクリーンへと視線を戻す絵梨奈と詩織。
「本当に……とんだけ器用なんですか、あの男の娘は……」
「てゆうか、あのニィちゃんをプロのリングに上げねぇとか、どんだけバカなんだよ、男子プロはっ!」
リング下で、なんとか立ち上がろうともがく佐野。その周りには、セコンドのルーキー達が集まり、必死に声をかけていた。
「とはいえ、佐野もリングでダブルタイガーを食らったのは初めてだろう……あの様子じゃ、脳震盪を起こしてるし、意識も落ちる寸前だ。まだかぐやが有利な事には変わらんさ」
※※ ※※ ※※
マズイ……
頭がフラつく。視界もボヤけて、思考も繋がらない。大きな耳鳴りの向こう……遠くから舞華たちの声が聞こえるような気がする……
少しでも気を抜くと、意識が落ちてしまいそうだ……
天井からの降り注ぐ照明の光に顔を背けながら、無意識に何かを掴もうと動いた腕が、リング下に掛るシートを持ち上げた。
あれ……は……?
ボヤける視界の先。リング下の鉄柱裏へ隠れるように置かれたカゴ。セコンドが応急処置に使う小物入れだ。その中で、頭一つ飛び抜けた大きさ物――水を入れたビール瓶が見えた。
選手がうがいをしたり、怪我をした時に傷口を洗うための水が入っている瓶だ。
「ぐっ……」
オレは言うことを聞かない身体にカツを入れ、右手を伸ばしてビール瓶を逆さに掴むと、うつ伏せに転がった。そして空いている左手を懸命に伸ばし、エプロンを掴んで右足を立て、片膝を着く。
徐々に耳鳴りが小さくなり、段々と周囲の声が耳に入ってくるようなる……
「ちょっと、お兄さ……いえ、優月さん! そのような物を持って、どうするおつもりですのっ!?」
どうするって……
右手に持ったビール瓶に目を落す。落下しても簡単には割れないように、ビニールのテープが巻かれたビール瓶。確かに落としたくらいでは割れはしないだろうけど……
オレは瓶を持った右手を振り上げて、それを鉄柱へと叩き付けた。
ガシャンッ! という大きな音と共に瓶の底が砕けガラス片が飛び散り、中の水がオレの腕を濡らす。
「おにっ! じゃなくて優月さんっ!? それはマズイですよ!」
「そ、そうだよアニッ……じゃなくて、アネゴッ! 俺ッチはヒール志望だから凶器をダメとは言わんけど、それはヤバいって!」
オレの行為に、集まっていたセコンドのルーキーたちが後ずさった。
手の中に残る瓶の残骸。不規則に幾つも突起した破断面が照明の光を受け妖しく反射する。
「ちょっ……ゆ、優人……バカなマネは止めなさいよ……」
オレを追ってリングを降りて来たのであろう。いつの間にか目の前に立っていたかぐやが、怯えるような瞳でオレの右手を見下ろしていた。
バカなマネか……
バカな事なのは、分かっているさ……それでもっ!
右手に握られる、割れた瓶の破断面。その中で、ひときわ大きく突起した尖端部分へとボヤける視線を落とす。
そして……
「ぐうっ!」
瓶を持つ手に伝わって来る、皮膚を貫き肉に突き刺さるイヤな感触……
「いゃぁぁーーーっ!?」
舞華の悲鳴が響き、そしてその悲鳴は会場中へと|伝播《でんぱ》して行った。
「ゆう……と……?」
かすれる声を漏らし、瓶の尖端が突き刺さる箇所を力ない瞳で呆然と見つめるかぐや。
「ぐっ…………うっ……」
オレは声を噛み殺し、かぐやの視線の先を追ってそこに目を向けた。
そう、深々とガラスの尖端が突き刺さる、自分の右太腿を……
って! マジで痛てぇ!!
太腿に走る激痛――それは薄れていた意識を覚醒させ、思考を鈍らせていた首にかかる鈍い痛みを吹き飛ばすほどの鋭い痛みだった。
オレは太ももに刺さった瓶を引き抜いて、ゆっくりと立ち上がる。
「ふう~っ……でも、おかげで頭がスッキリしたぜ。それと痺れてた足の感覚も、これで少しは戻ってきた――メチャクチャ痛てぇけど」
そう言って、傍らにいる舞華へと割れた瓶を手渡した。
「悪いけど、破片を片付けといて――指とか切らないように気を付けてな」
「え、ええ……は、はい……」
オロオロしながらも、首を縦に振る舞華。
「ちょっと! なにを言っておりますのっ!? 片付けなどよりも、手当が先ですわっ! 舞華さん、直ぐにガーゼと包帯をっ! 美幸さんは、傷口を洗う水を汲んで――」
「待て待て待て待て――」
テキパキと指示を出す愛理沙を制止するオレ。
「手当はあとだ。まだ試合中だろ?」
「そんな事を言っている場合ではないですわっ! そんなキズで――」
「そんな事を言っている場合なんだよっ!!」
声を荒らげる愛理沙の言葉を、更に大きな声で遮った。
怯むように言葉を詰まらせる愛理沙の瞳を、睨むように見据えるオレ。
「プロレスやってればケガは付き物だ。流血戦だって珍しくない――血が出るたびに中断なんてしてたら、試合にならないんだよ」
「し、しかし、その深いキズでは……」
愛理沙は、心配そうにオレのキズ口へと視線を向ける。確かに流れ落ちる血の生暖かい感触は、正直気持ち悪い……
オレは襟のスカーフを引き抜くと、それを傷口へキツく巻き付けた。
「取りあえずは、これでOKだ」
まあ、こんなのは気休めだけど……すでに血が溢れ始めてるし。
それでも虚勢を張り、新人達へ向け無理矢理に笑って見せるオレ。
しかし、そんなオレの強がりを見て、愛理沙は大きくため息を吐いた。
「まったく……昔、お母様が仰っていた通りですわ――本当に殿方と言うのは、馬鹿な生き物なのですわね」
「ハハハ……まっ、褒め言葉として受け取っておくよ」
苦笑いを浮かべる愛理沙に、同じく苦笑いで返したオレは、ロープに手を掛けてエプロンへと上がった。
「行ってらっしゃいまし、お兄様。お早いお帰りを――」
「お兄ちゃん……本音を言えば、ずっと一緒に選手としてやって行きたいんだけど――」
「でも、ここまで来たら絶対に勝ってくれよ、アニキッ!」
新人達の声援を背中に受け、自然と笑みが浮かんで来た。
「ありがとう……行ってくるよ」
オレは、足の感覚を確かめるように、トップロープを飛び越えた。そして、リングに着地すると同時に右足へ鋭い痛みが走る――
でも、我慢出来ないほどの痛みじゃない……まだやれるっ!
右手側のエプロンから、同じようにトップロープを飛び越えてリングへと戻って来たかぐや。
「さあ、かぐや――早いとこ試合を終わらせて手当を始めないと、新人達に怒られそうだからな。とっとと寝むってもらうぞ」
「ふ、ふんっ! 手当の最中に痛くて泣き出されても敵わないから、麻酔代わりにわたしが寝むらせてあげるわ。泣き虫ゆうくん」
「誰が泣き虫だっ! このお漏らしかぐちゃ――」
「それを言うなっ! バカーーッ!!」
お互いに軽口を叩き合ってから、同時に間合いを詰めて、リング中央でガッシリと組合った。