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第1話▶︎フェルマータと保健室 / side柔太郎
高校生設定です
放課後。
俺は親友の曽野舜太に学校近くのスタバで勉強を教えてもらっていた。
ガラス越しの夕方は少しだけ傾いていて、机の上のシャーペンの影がやけに長い。
反面、ノートの上の文字だけがやけに現実的で、外の世界だけが少し遠い。
一通り宿題と小テストの範囲をさらったところで、舜太が意気揚々と口を開いた。
「なあなあ、柔聞いた?」
「ん?」
「佐野勇斗って人おるやん?」
「生徒会長の?」
その名前を口にした瞬間、なぜか空気が少しだけ変わった気がした。別に特別な意味なんてないはずなのに、舜太の顔だけが妙に楽しそうで、それが余計に引っかかる。
「せやで。その人な…実は“番長”って呼ばれとるらしいで」
「番長って…」
生徒会長の顔を思い描けば、あながちわからなくもないなと思う。
「マジよ、一年のやつが言っとったもん。」
「いや…確かに、顔が強い感じはするけどね…」
「顔が強いってなんやねん!まぁわかるけど。」
「なんかこう…まゆげがキリリって」
「わかるわ〜。常に“何見とんねん”って顔しとるもん」
「なにそれ。」
舜太の軽快なトークに俺はついつい笑ってしまう。
「いや〜でも、確かにちょっと怖ない?」
「でもまあ、俺たちは普段関わる機会ないから」
「ほやで。怖い人とは関わらんのが一番!」
「でもちょっとだけ気になるよね、“番長”って」
「ほら来た!そうやって距離バグるんよお前!」
笑いながら舜太が指をさす。
その軽い調子に引っ張られるように、俺もつい笑ってしまう。
“近づいたらあかんで”と念押しされたのは、つい昨日のことなのに、なぜかそのやり取りが、今は少し遠く感じる。
気づけば。
保健室の静けさの中で、俺は一人、小さく笑っていた
俺は保健委員として、週に何度かここで雑用をしている。備品の補充、ポスターの張り替え、保健だよりの印刷、緊急を要する生徒がいる場合は職員室まで先生を呼びに行ったり。
ただ“ここにいる役割”をこなしているだけの時間。
換気も充分だろうと、窓を閉めようとした、その時
「ベッドって空いてる?」
その一言で、空気が変わった。
振り返ると、そこにいたのは
生徒会長の佐野勇斗。
一瞬、現実感が薄れる。
なのに、彼の存在だけがやけに鮮明で、視界に焼きつく。
「あ…はい。」
心臓が、ほんの少し遅れて跳ねた。
まさか、という言葉が頭の中を何度も行き来する。現実感が薄いまま、ただ相手の存在だけが妙に鮮明だった。
「山中、先生って今いる?」
なぜ名前を知られているんだろう。
何の迷いもなく名前を呼ばれて、変なところで現実に引き戻される。
30分ぐらいで会議から戻ってくるはずだと言うと
「じゃあ、30分だけ借りるわ」
と、当たり前みたいに言って、ベッドに横になった。 間仕切りのカーテンが引かれる音が、思った以上に大きく響く。
それだけで、この部屋の密度が変わった気がした。
さっきまで自分ひとりだった空間に、誰かの体温だけが静かに重なる。
「具合、悪いんですか」
一応、保健委員として聞いてみる。
「んー、どうだろ。サボり半分」
軽く笑う声が、布越しに落ちる。
「のこりの半分は?」
「ちゃんとしんどい」
その言い方が、妙に人間的でふっと笑ってしまう。
とりあえず、と机の上を片付けるふりをしながら、プリントを揃える。
紙の擦れる音だけがやけに大きい。
インクの匂いと消毒液の匂い。そのどれもが、いつも通りのはずなのに、今日は少しだけ違っていた。
「山中」
「はい…あれ?なんで、苗字」
「チェストから聞いた」
“チェスト”とは保健室の養護教諭である、吉田仁人先生のあだ名だ。
それは先生の口癖で、一部の生徒からはそう呼ばれていた。
「下の名前は?」
「柔太郎です」
「柔太郎はそれ、毎週やってんの」
「はい。保健委員なんで」
「えら」
その一言が、やけに素直に落ちてきて、少しだけ戸惑う。
保健室にゆるやかに静けさが戻り、 時計の秒針だけが、ゆっくり時間を刻んでいた。
「…なあ」
「はい」
「そこ、座れば?」
くすっと笑う気配。
カーテンの隙間から、ほんの少しだけ手が見える。
先輩のゆびが指し示したのはベッドから一番近い椅子だった。
じゃあ、と言われるまま、その丸椅子に座る。
ただそれだけなのに、「そこにいていい」と言われた気がして、少しだけ息が楽になる。
「柔太郎ってさ」
「はい」
「真面目だな」
「そうですか?」
「うん。」
一瞬間が空いて
「 俺、番長ってよばれてるんだろ?」
と、冗談のようで、少しだけ本気が混じった声色で言われた。
「あ…」
言いかけて、言葉が詰まる。
「お前、困るなよ」
「…いじってますよね」
「ちょっとだけ」
「やめてください」
「ごめんごめん」
あまりに早い謝罪に、逆に力が抜ける。
そのとき、カーテンの向こうで体が動く気配がした。
「なあ、山中」
「え?」
「顔、見て」
カーテンが、少しだけ開く。
言葉の意味がわからずカーテンに近寄ると佐野先輩が顔を持ち上げて、こちらを見ていた。
思っていたよりずっと近くて、思っていたよりずっと優しい表情だった。
「俺、そんな怖い顔してる?」
「…ちょっとだけ」
言ってから、ふと考える。
端正な顔立ちに、前髪を左右に分けてなくしているヘアスタイルが彼を強面にみせてはいるが、 前髪をおろしたら、優しい印象になるかもしれない。
けれど彼は一瞬だけ目を細めて
「素直〜」
と笑った。
その笑い方は、生徒会長としての彼を見かけた時に感じていた“怖さ”とはまるで違っていた。
「番長ってなんだよな。俺、真面目なのにさ。」
肩をすくめるような声。
「まあ、楽だからいいけど」
「楽?」
「むやみやたらと話しかけられないし」
そこで一瞬、言葉が落ちる。
「変に近づいてこられるよりは、ずっといい」
その一言だけ、温度が低かった。
理由は聞かなくても、なんとなくわかる気がして、言葉が出てこない。
「…でも」
気づけば口が動いていた。
「今は、怖いとは思ってないです」
一瞬、空気が止まる。
「へえ〜」
「ここに来た時は、ちょっと怖かったですけど」
「それはさっき見た顔でわかる」
くすっと笑う声が、少しだけ距離を縮めてくれる。
「柔太郎」
呼ばれて顔を上げる。
その声は、なぜかやけに柔らかかった。
「なあ」
「はい」
「今日、ここ来た理由」
少しだけ迷う沈黙。
「…ちょっとだけ、静かなとこ行きたくてさ。
保健室って、人が少ないじゃん?」
「ですね」
「で、ここにいるのがさ」
視線がこちらに向く。
「お前だけなら、いいなって思った」
意味を理解するのに、少し時間がかかった。
胸の奥が、遅れて熱を持つ。
「え…」
「お前もウワサだよ。保健室の王子様」
逃げ場のない距離で、その言葉だけが落ちる。
「俺まであだ名あるのか…」
「今さら?」
少し意地悪に笑われる。
そのあと、ふいに視線が外れる。
「柔太郎はここが男子校じゃなかったら、モテたんだろーな」
その一言が、やけに静かに響いた。
「柔太郎」
もう一度、名前が呼ばれる。
「はい」
「もうちょい、ここ、ここにいてよ」
ベッドの端が軽く叩かれる。
「…少しだけ、なら」
「十分。」
即答される。
ベッドの端に腰をかけると、距離が一気に曖昧になる。
「近いな」
「…そっちが呼んだんじゃないですか」
「まあな」
その言葉のあとに、少しだけ苦笑が混じる。
笑い声が近い。
沈黙が落ちる。
カーテン越しの光が、ゆっくり揺れている。
「柔太郎」
「はい」
振り向いた瞬間、息が触れそうな距離だった。
「俺って怖い?」
「怖いって言った方ががいいですか」
「どーかなぁ」
そのまま、指先が制服の袖口に触れる。
掴むでもなく、離すでもなく、ただそこにあるだけの感触。
なんだか、呼吸がうまくできない。
そのときだった。
カーテンの向こう側で、ドアの開く音がした。
空気が一気に現実に戻る。
「先生――」
ベッドから腰を浮かせて反射的に離れようとした瞬間、袖がほんの少しだけ引かれる。
一瞬だけ。ほんの一瞬。
「またな柔太郎。あと、敬語禁止な。」
低い声だけが残る。
カーテンが閉じる音。
いつもの保健室。
何も変わっていないはずなのに、全部が違って見える。
「あれ?山中まだいたの」
びっくりした顔の吉田先生はメガネを直しながら
「あれ?誰かいる?」
と、聞いてきた。
「あ、ひとり、寝てます。具合悪いみたいで」
「はー…どうせ佐野だろ。」
「あ、はい」
「オーケィ、当番お疲れ様!帰ってイイぞ」
笑顔の吉田先生に
「失礼します」
と、返して
鞄を持ち、保健室を後にした
その間にも、袖に残った感触だけが、やけに消えなかった。
廊下に出た瞬間、空気が少しだけ冷たく感じた。
袖に触れられた感覚も、声の低さも、全部がまだ消えないまま、現実だけが先に歩いていく。
「敬語禁止な。」
その言葉だけが、やけに遅れて追いかけてくる。
意味を考えようとして、考えないふりをした。
昇降口を出たところで、ようやく呼吸が少し深くなった。
校門までの道
夕方の風が、 制服の袖を軽く揺らす。
さっきまでそこに残っていた感触が、ふっと薄くなる気がして、逆にそれが少しだけ惜しいと思ってしまう。
「何やってんだろ」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
そのときだった。
「おーい」
背後から声がした。
振り返ると、少し離れたところに舜太が立っていた。長い手をぶんぶん振りながら、いつもの調子で近づいてくる。
「柔、遅ない?」
「保健室当番」
「また地味なことしとやん」
軽く笑いながら横に並ぶ。
いつも通りの舜太がいまはやけにありがたい。
「なんかあった顔しとるやん」
「…別に」
即答したつもりだったのに、少し間が空いた。
舜太が、あー、とだけ言ってニヤッとする。
「それ、“別に”の顔じゃないやつやん」
「うるさいな」
「”別に”にも2種類あんねん。当てたろか?」
「2種類しかないのかよ」
「保健室やろ」
その一言で、心臓が一回だけ変な音を立てた。
「…なんで」
「いやわかりやすいねん、柔。お前そこしか行くとこないしな」
軽く笑う名探偵舜太の声が、やけに現実的で、救いみたいでもあった。
「で?まさか“番長”おったん?」
その瞬間、言葉に詰まる。
否定できるのに、なぜかできなかった。
「…ん」
小さく言うと、舜太が一瞬だけ目を丸くして、それから爆笑した。
「は!?マジか!?遭遇率バグってるやん!」
「うるさいって」
「で、どうやった?怖かったん?」
その質問だけが、少しだけ重い。
一拍置いてから、口を開く。
「怖くは、なかった」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
舜太の笑いが止まる。
「いや、ちょっとはびっくりしたけど」
慌てるみたいにつけたす。
「いやそこやなくて」
舜太が顔を覗き込む。
「お前、それ、普通に話してええやつなん?」
「何が」
「いや、ええならええけど」
言いながらも、舜太の顔は完全にニヤけている。
「柔さぁ」
「何」
「距離バグるん、ほんま自分やん」
夕方の風の中で、その言葉だけが少しだけ遅れて落ちる。 俺は何も言い返せなかった。
ただ、さっきの保健室の静けさだけが、まだ胸に残っていた。
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