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せんたくのり
第2話▶︎おはようのスフォルツァンド/side柔太郎
翌日。
朝の廊下は、やけにざわついていた。
上履きの音が重なり、笑い声が弾ける。窓から差し込む光さえもどこか落ち着かないほどにぎやかだ。
今日は1時間目が教室移動。
俺は教科書を抱えたまま、緩慢な動きで音楽室へと向かう。なんだか、騒々しい流れの中にいるのに、俺だけがワンテンポ遅れているみたいだ。
昨日のことが、頭から離れない。
思い出そうとすると、どうでもいいほど細かいところばかりが鮮明になる。
袖を引かれた指先の強さとか、息がかかりそうだった距離とか、低く落ちた声の温度とか。
寝ても覚めてもそればかりで。
『敬語禁止な。』
その一言が、不意に蘇る。
同時に、指先に力が入る。
自分でも気づかないうちに、少しだけ強く教科書を抱きしめていた。
廊下の角を曲がる、 その瞬間だった。
視界の先に、人影が見えた。
生徒会長、佐野勇斗。
こちらに向かってまっすぐ進んでくる。
足音と、鼓動が、妙に重なる。
距離が近づき、 目が合う。
ほんの一瞬のはずなのに、時間が引き伸ばされたみたいに長く感じる。
すれ違いざま
「おはよ」
低い声が、すぐ耳元に落ちる。
一拍遅れて、心臓が跳ねた。
「おはよう…ございます」
言葉を交わしたその一瞬、ほんのわずかに彼の目が細められた気がした。
それだけ。 本当に、それだけなのに。
足が、ほんのわずか止まりかける。
胸の奥で、絶え間なく大きな音が鳴る。
「おーい」
現実に引き戻したのは背後からの声だった。
「柔ー‼︎」
振り返るまでもない舜太の声。
きっといつも通りの明るい笑顔。
だけど今日は、それがやけに懐かしい。
「見たで見たで〜」
隣に並んで、わざとらしいくらいに
満面の笑みで言う
「何が」
「いや今のやん!」
「どれ」
「生徒会長やってぇ!!」
舜太のただでさえ大きな声が、いつもよりよけいに大きく響いて、周りの視線が少しだけ集まる。
それがやけに恥ずかしくて、小さく制する。
「普通にすれ違っただけ」
小声で答えながらシーッと、人差し指をたてるジェスチャーをする。
「いやいやいやいや」
舜太が手のひらをヒラヒラさせながら
どんどん詰めてくる。
「絶対なんかあったやん今の!」
「ないよ」
「一瞬止まったやん!」
「止まってない」
「止まった止まった!」
「止まってないって」
「止まった止まった止まった!」
「うるさ…」
否定しながらも、自分でもそこに自信はない。
むしろ足取りは止まっていなかったはずなのに
時間だけが一瞬伸びた気さえしている。
それを見透かされたのか、 舜太の顔が確信に満ちていく。
「柔それ、無自覚なん?」
「は?」
「昨日から思っとったけど、絶対おかしいって」
「何が」
「距離」
「距離って何」
「近いねんな、全部」
「近くないよ、別に」
舜太はもう笑っているというより、楽しんでいる。
「あの人が自分から“おはよ”って言うの、まずレアやろ? で、お前返してたやん」
「返すだろ普通」
「その“普通”がもう普通じゃないねん」
「いやいやいや…」
なにか言い返したいのに、言葉が出ない。
さっきの一瞬が、頭にずっと残っているせいだ。
ただの挨拶
ただのすれ違い
それだけのはずなのに
「ほんまに何もない?」
一瞬だけ言葉が詰まる。
その沈黙から、舜太は勝手に結論を出す。
「はい出た」
「出てない」
「出とる出とる、出さんといてください〜」
やらしぃわぁと、笑いながら、肩を軽く叩かれる。
その軽さがやけに肩に重く残る。
廊下のざわつきはもう遠い。
舜太のニヤけた顔を無視して、足早に音楽室へ向かう。
それでも
さっきの『おはよ』だけが、やっぱりずっと、耳に残って離れなかった。
午後の授業はほとんど頭に入ってこなかった。
ノートは取っているのに、文字が目を滑っていく。 黒板の音も、教師の声も、どこか遠い。
気づけば、同じ一行を何度もなぞっていた。
『柔それ、無自覚なん?』
舜太の問いを、何度も頭の中で繰り返す。
自覚があるかないかなんて…
ぐるぐる回る 煩悩をかき消すかのように
授業終了のチャイムが鳴り、その音に少しだけ救われる。
「柔」
授業終了と同時に横から舜太の大きな小声。
「なに」
「今日、放課後って保健室当番ちゃうん?」
「…そうだけど」
一瞬だけ、間が空く。
舜太が、にやっと笑う。
その時点で、もう負けている気がした。
舜太はそれ以上何も言わない。
ただ、最後にぽつっとだけ落とす。
「生徒会長によろしく言うといてね」
言葉が一瞬詰まる
「別に…くるかわかんないよ」
「来るやろ」
即答だった。
何も言い返せないまま、席を立ち、背を向ける。
背中に痛いほど舜太の視線を感じる。
振り返らない。
振り返ったら、舜太にこんどこそ全部見抜かれる気がしたから。
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