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椅子が軋む音だけが、部屋に落ちた。

少女は、腕を組んで座っていた。制服の袖は引き裂かれ、手首には爪を立てたような痕。目元に涙はない。


「……お母さんがね、笑うの。誰かの前では」


遥は無言だった。いつものように、足を組んだまま、視線を伏せている。


「わたしの前では、笑わない。笑わないどころか、存在しないみたいな顔をするの。

料理だけ置いて、会話なし。目も合わさない」


彼女は、苦笑した。声が微かに震える。


「それでも、虐待じゃないって言うんだよ? 殴られてもないし、怪我もないし、病院にも行ってない。

それが“普通の家庭”なんだって」


遥は、わずかに顎を上げる。だが、何も言わない。


「でも、わたし、わかってる。

あの人、わたしが死んでも、たぶん泣かない。むしろホッとするかも。

……だから、考えたの。殺してしまえばいいんじゃないかって」


言葉は静かだった。感情は削がれ、言葉だけが淡々と転がる。


遥は、短く息を吐いた。


「――で、殺したか?」


少女は顔を上げ、遥を見る。


「……してない。できなかった。

台所で包丁持って、でも、手が震えて、足がすくんで、涙が止まらなくなった。

“この人のために涙流すの?”って思ったら、もっと腹が立って――」


遥は、ゆっくりと姿勢を正した。

その声は低く、だが決して冷たくなかった。


「俺は、お前を否定しねえよ。

殺したいって思ったこと自体は、責められる筋合いねぇ。

それだけ、お前は追い詰められてたんだろ」


少女の瞳が、わずかに揺れた。

遥の声は、さらに深く落ち着いていく。


「ただな――殺すってのは、“誰にも助けてもらえない”って自分で決めたときの、最後の選択だ」


遥は、拳を膝に置く。


「それを選ばなかったお前は、臆病なんじゃねぇ。

まだ、どこかで誰かに気づいてほしいと思ってる。誰かに“間違ってる”って止めてほしかったんだろ」


少女は目を伏せた。だが、口元がかすかに歪む。泣き笑いのような、言葉にできない感情が漏れた。


「なあ、お前。――そんなに間違ってねぇよ」


遥の声は、壁のように静かで、重かった。


「親を殺したいって思った。

それが、どれだけ人に言えないことか、どれだけ自分を責めたか、俺はわかる。

だけどな――誰もお前の代わりに怒っちゃくれねぇなら、自分くらいは、自分の怒りを認めてやれよ」


少女は、肩を震わせた。声は出ない。ただ、呼吸だけが荒くなる。


遥はそれを見て、ゆっくりと背を預けた。


「……ここでは、思っていい。

殺したいでも、壊したいでも、逃げたいでも、泣きたいでも。

全部、お前が生きてた証拠だ」


沈黙が、ふたたび降りた。

けれどその空気は、最初の重さとは少し違っていた。


少女の目に、わずかな赤みが差す。言葉にならない何かが、喉の奥で震えていた。


遥はそれを責めなかった。見つめるだけだった。

一言も、慰めずに。





人を殺したいと思う夜がある。

それを思ってしまった自分を、殺したくなる朝もある。


けれど、遥の「相談室」は、そんな感情をそのまま置いていっていい場所だった。





次は、誰が来るだろうか。

遥はまた、黙って座っている。誰かの壊れかけた心が、そっと傾いてくるのを待ちながら。


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