テラーノベル
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レモンの皮をすりおろす音が、静かな厨房に細く落ちていく。イドゥレは祖母のレシピ帳を開いたまま、手を止めなかった。バターを混ぜ、卵を落とし、焼き上げた台へやわらかなクリームを流す。昔、祖母が「大事な話は空腹のままするものじゃないよ」と笑っていたのを思い出す。
白いポストの前では、モリネロが足を止めていた。役所へ向かう道はまっすぐ先にあるのに、どうしても進めない。封筒の角が掌に刺さる。ふと視線を落とすと、履き慣れた鈍い革靴のつま先が見えた。叔父が最後まで直しきれなかった靴。大事に履いてきたが、この一歩を叔父の続きにしてはいけない気がした。
彼はゆっくりしゃがみ、靴紐を解いた。脇に抱えていた包みから、新しい靴を出す。飾り気はないが、今の自分の足に合わせて自分で仕立てた一足だった。
「……行く場所は、自分で決める」
そう小さく言って履き替える。封筒はまだ破っていない。
店へ戻ると、表の灯りがついていた。閉店後のはずの白いポストから、バターとレモンの匂いが流れてくる。扉を開けたモリネロを待っていたのは、飾り皿の上のデザートと、カウンターの向こうで腕を組むイドゥレだった。
「座ってください」
「はい」
「その封筒は、まだ開けないで」
「はい」
やけに素直な返事に、イドゥレは少しだけ笑いそうになる。こんなときまで、と思う。
皿の上には、薄いビスケット台にレモンクリームをのせた祖母の看板デザートがあった。モリネロは甘いものが得意ではない。それでもフォークを入れ、一口、二口と食べ進める。
「おいしいです」
「最後まで食べてから言ってください」
「命令ですか」
「お願いです」
彼は最後の一口まできちんと食べきった。皿に残った黄色い線を見た瞬間、イドゥレの中で何かが決壊した。
「契約で始めたのは事実です」
声が震える。けれど止めない。
「でも途中から、店を守るためだけじゃなくなった。椅子を直す音がすると安心して、階段の足音で今日の疲れ方がわかって、冷蔵庫の名前つきの瓶を見ると、帰ってきたって思うんです」
モリネロはフォークを置いたまま、じっと聞いている。
「だから、終了って紙の上で書けても、私の中では書けません」
ようやく目を上げると、彼の表情もきれいに崩れていた。
「僕も」
モリネロはゆっくり言った。
「白いポストを残したかった。でも今は、それだけじゃない。あなたが帳簿を閉じる音も、クッキーの匂いも、忙しい日に眉間へ寄るしわも、全部ひっくるめて帰る場所になっている」
彼は胸ポケットから封筒を取り出し、まだ未提出の離婚届をそっとテーブルへ置いた。
「だから、これは出しません」
イドゥレはそこで初めて泣いた。大きな声ではなく、息がほどけるみたいな涙だった。
少し遅れて、ラウシャンたちが奥から顔を出す。どうやら最初から気配を殺していたらしい。
「え、終わった? 今どこまで?」
サムソが小声で聞き、タニアに肘で黙らされる。ハリクレイアは配信機材を持ちながらも、今日は電源を入れていなかった。
「撮らないんですか」
イドゥレが涙声で言うと、彼女は肩をすくめる。
「これは、町の gossip にするより先に、あんたたちのものだから」
翌朝、白いポストの表に新しい札が掛かった。
『夫婦で営む店』
共同経営、ではない。契約でもない。少し照れくさいのに、見上げると妙にしっくりくる。通りすがりのヴウォデクはその札を見上げ、何も言わずに一度だけ頷いた。たぶん、祖母と叔父に代わって受け取ってくれたのだと思う。
白いポストの投函口には、その日のうちに新しい手紙が一通入った。『おめでとう。今度は宛名を書いておく 商店街一同』。裏にはやたらと多くの名前が詰め込まれ、最後に小さくハリクレイアの絵文字まで添えてある。イドゥレは呆れ、モリネロは笑いをこらえきれず肩を揺らした。
次の週末、ワンワンピクニックの準備で店はまた大騒ぎだった。サムソは大鍋を今度こそ落とすなと叫ばれ、ラウシャンは犬用の水皿を抱えて走り、ヴァタゼルは怪我をした子犬の足を見ている。モリネロは新しい靴で芝生を踏み、イドゥレは塩タルトを守るように持ち上げた。
「本当に夫婦なの?」
前にも来た男の子が聞く。
イドゥレとモリネロは顔を見合わせる。
「はい」
今度は二人とも、ためらわずに言えた。
白いポストの白は、春のようにまぶしい色ではない。もう少し静かで、何度でも塗り直せる色だ。
それでも、帰ってきた人を迎えるには、十分だった。
#ワンナイトラブ
#一途な思い
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