力が抜けた状態で顎を押さえられ、無抵抗に唇が開く。
目を開けようにも、瞼が重いし、涙で睫毛が張り付いているようだ。
だが、唐突に口の中に冷たい液体が溢れ、私は飛び起きた。
ゴンッと鈍い音と同時に口の中の液体が喉の奥に下がっていき、むせかえる。
「いって……」
「ごほっ、ごほっっ――!」
おでこは痛いし、咳き込んで息苦しいしで、私は思わずベッドに突っ伏す。
「千恵、大丈夫か?」
背中に大きくて温かな手が添えられる。
もう、わけがわからない。
離婚して、階段から落ち、元カレと再会し、ホテルに連れ込まれ、イカされ、おでこを強打し、水にむせる。
激しく咳き込みながらも、笑えてきた。
なんなの、もう……。
「千恵?」
ゆっくり呼吸を整えたいのに、今度はおかしくて苦しい。
「げほっ……けほっ…………。はっ、くくくっ……」
「千恵? イキすぎておかしくなった?」
「そんなわけないでしょ!」
勢いよく身体を起こすと、匡が少し身体を仰け反らせた。
「あっぶね……」
二度目の激突は回避した。
ようやく、まともな頭で匡と向き合う。
いや、まともではない。
ラブホテルのベッドの上で、私は半裸。
私はめくれ上がったシャツの裾を伸ばして、今更ながら秘部を隠した。
その時、私の足先を跨ぐ匡のスラックスの股間が大きく膨らんでいるのが見えた。
そこから目を逸らし、彼の目を見る。
「何やってんのよ、匡」
「え、セックス」
「じゃなくて! 酔った元カノこんなトコに連れ込むなんて、悪趣味! ふざけすぎ!」
「お互いフリーなんだし、いくね?」
「いくない! てか、さっきからなんなの、その口調。曲がりなりにも経営者でしょ? いい年して――」
「――経営者じゃないもーん」
「もーん、って――え?」
経営者じゃない?
「だって、実家継ぐって……」
「いーじゃん、そんなこと。今はさ? 再会を楽しもうぜ」
おどけた口調でそう言うと、匡は左手を私の太腿に這わせ、右手で肩を押した。
私の身体は簡単にベッドに沈み、隠した秘部も露わになる。
「楽しむ意味がわからない!」
ギュッと足を閉じ、膝を立てて、防御の姿勢をとる。
匡は私の膝を割ろうと、両手を膝頭に置く。
「なんで今更あんたと――」
「――焼けぼっくり?」
「焼け木杭《ぼっくい》!」
「それそれ」
「それじゃない!」
「いーじゃん。二人で燃えちゃおうぜ」
「何言って――っ」
力を込めた膝頭を指先でくすぐられ、思わず力が抜ける。
匡がニヤリと笑い、隙を見逃さず膝を割った。
「匡!」
「相変わらずくすぐられるとチョロいな」
「あんたっ――」
「――俺は千恵と燃え尽きたいよ」
一瞬だけ見えた寂し気な笑みは気のせいだろうか。
ガバッと抱き締められ、苦しい。
「きょ……」
「会いたかった」
首筋に熱い吐息が触れる。
「千恵……」
どうしてそんなに甘い声で呼ぶの……。
昔は、こんな風に耳元で名前を呼ばれると、心も身体も悦んだ。
だが、今はもうあの頃の私たちではない。
こうして抱き合う理由がない。
「適当なこと、言わないで。別れてから何年経ってると思ってんの!」
匡の脇腹を思いっきり掴む。つねる、ともいえるほど。
「痛ぇよ!」
私の顔の横に肘を立て、毛穴が見えるんじゃないかと思えるほど近くで見下ろされる。
私は唇を結び、目に力を入れて彼を見上げた。自分では、睨んでいるつもりだ。
「どれだけ欲求不満か知らないけど、私にだけは手を出しちゃいけないでしょ」
「それがさ? お前にしか手が出なくて」
「はぁ? 普通に恋人作んなさいよ」
「千恵がなる?」
「ならない!」
「間違った。なって、か」
「は?」
噛みつく形相で吐き捨てる私に、匡は穏やかな笑みを浮かべた。
「もう一度、俺の恋人になってほしい」
一瞬、気後れして言葉が詰まる。
「もう、間違えない」
「なに……を」
「もう、絶対、離さないから」
苦しそうに表情を歪めた匡に、忘れたフリを決め込んでいた過去を思い出す。
『お前には、俺じゃなきゃダメだろう?』
最後にそう言った彼が、今と同じ表情をしていた。
私はそれを見ないフリをした。
そして、笑ったのだ。
彼が、お調子者の彼が、本当は私についてきて欲しいと縋りたかったとわかっていたのに、それを見ないフリをして、気づかなかったフリをして、笑って別れを告げた。
匡は何か、隠していた。迷っていた。怯えていた。
別れを切り出してから別れるまでの一週間、さすがにセックスを拒否した私が眠ると、匡はそっと抱き締め、キスをした。
気づいていたけれど、私は寝たフリをし続けた。
だって、私に彼の望みは叶えられない。
頑張って頑張って就職が決まり、入社前研修は目前だ。
これから働いて、東京に出してくれた親を安心させたいと思っているのに、恋人が帰るから帰ってきた、なんて言えるはずがない。
仮にそう言って帰ったとして、別れたら?
あのまま東京で就職していれば良かったと思うだろう。
そして、匡を恨む。
それは嫌だった。
今なら、勝手な男に振り回されたと、自棄酒を飲んで、ひとりの部屋でひと晩泣くくらいだ。恨んだりしない。
だって、匡と過ごした日々は楽しかった。
後悔なんてない。
でも、それと、再会した今、わけもわからず唐突に求められて受け入れるのは、話が別だ。
私は彼の胸を両手で押し離した。
「匡、私たち何年離れてた? その間、結婚して子供も産んで、離婚して再会したからって、昔の続きなんて――」
「――続きじゃなくて、もう一度始めるなら?」
「え?」
「もっかい、最初から、ヤリ直そう」
匡が、真顔でぐっと顎を引いた。
他の人にわかるかはわからない。
だが、悲しいかな、私にはわかる。
この顔は、キメ顔のつもりの顔だ!
「ほら。最初から、な?」
「匡! 私は――」
何を言おうとしたのか、忘れた。
匡の唇が私の唇に触れたから。
下唇が湿っていて生温かい、柔らかな彼の唇に食まれ、わずかに吸われる。
「ん……」
無意識に甘い声が鼻から漏れた。
吸われた下唇を、彼の舌先が這う。
ゆっくりと、何度も。
いつの間にか匡の手は私の太腿に戻っていて、さわさわと撫でられる。
気持ちいい……。
匡のキスが好きだった。
優しくて、いたずらするようにくすぐられて、だけど、段々熱く激しくなっていく。
私を求めて余裕をなくしていくようで、嬉しかった。
考え過ぎる私に、我を忘れさせてくれるキスが、好きだった。
息苦しさに唇を開くと、待ち構えていたように舌が差し込まれた。
本気で嫌なら、噛みついてやればいい。
なのに、私はそうしない。
きっと、それが答えだ。
忘れたい。
忘れさせてほしい。
バカになるほど感じさせて……。
歯列をなぞる彼の舌に自分の舌を絡ませると、包み込むように舐められた。
「ふうっ……ん」
くちゅくちゅと舌が抱き合って奏でる水音が脳に響く。
甘い媚薬のようで、思考が遮断される。
こうなって、抗えたことなどない。
私は匡の首に腕を回す。
匡の思うつぼなのは腹立たしいが、そんなこともどうでもよくなるほど、キスに酔わされていく。
既に一度達している身体は、すぐに熱く、汗ばんでいく。
匡もそれがわかっているはずだ。
ベッドに立てて身体を支えていた肘を外し、その手で私の後頭部を掴むと、唇を重ねたまま私を抱き起す。
私は匡の太腿を跨ぐ体勢になった。
後頭部の手が外されても、私は彼の首に抱きつき、唇を離さない。
カチャ、と金属音がした。
下腹部に冷たい感触。
カチャカチャとベルトを外す音。バックルが肌に触れて冷たい。なのに、唇は熱い。
もう、どうでもいい。
元カレとか、バツイチとか、子持ちとか。
過去とか、抱き合う理由とか、倫理とか。
金属音が止むと、また抱き合ったまま押し倒された。
それから、匡だけが身体を起こす。
彼のその先の行動がわかる私は、あっさり腕を解いた。
私の足元で、匡が裸になる。
再び私に圧し掛かってきた彼の素肌を指先でなぞる。
チュッとリップ音をさせてキスを落としながら、匡はヘッドボードの上のコンドームに手を伸ばした。
彼がそれを装着する様子が、天井の鏡で見える。
硬く勃ち上がったモノに、慎重に被せ、ゆっくり下ろす。
そして、はぁっと肩で息を吐くと、自分のモノをギュッと握り締めた。
なぜか、その行動に違和感をもった。
迷っているのだろうか。
ふと気になったから、聞いた。
「いいの?」
「え?」
鏡ではなく、目の前の匡と視線がぶつかる。
「若い頃の記憶のままが良かったって後悔するかもよ?」
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