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「何かあったと思うか」
バトウが低い声で尋ねた。
「なんとも申せませぬ」
スブタイも、すぐには答えなかった。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
やがてバトウが顔を上げた。
「お前、何か知らぬか」
その問いに、スブタイは傍らに控えていた男へ目を向けた。
「ウリヤン・カダイ」
「はっ」
「何か聞いておらぬか」
息子はしばらく考えたあと、首を振った。
「いえ。私が知っているのは――」
言葉を選ぶように、一度口を閉じる。
「例の三路侵攻策を、総司令官であるバトウ様の意向を無視して、」
「皇族方が押し切って決めたこと」
「それについて、大カーンが激怒されたということだけです」
「それだけか」
「はっ」
「分かった。下がってよいぞ」
「失礼いたします」
ウリヤン・カダイが天幕を出ていく。
その背を見送ってから、バトウは呟いた。
「単なる帰還命令なのか」
「それとも――」
スブタイが目を細める。
「ドラゲネあたりの策謀か」
「あり得るか」
「分かりませぬ」
スブタイは静かに首を振った。
「ただ一つ、確かなことがございます」
「なんだ」
「我らには、帰還命令が出ておりませぬ」
バトウの目が動いた。
「皇族方は、ほぼ全員呼び戻されているというのにな」
「はい」
「ふむ……」
バトウは腕を組んだ。
何かを考えるように、しばらく黙り込む。
やがてスブタイが口を開いた。
「もし仮に――」
「うむ」
「大カーンに万が一のことがあり、クリルタイが開かれることになれば……」
そこで言葉を切る。
「バトウ様がおられぬことなど、あり得ませぬ」
葉音/ペア画中
43
#異世界転生
上野文
8,960
征西軍総司令官。
そして何より、ジュチ家の長。
次の大カーンを決める場に、バトウが呼ばれぬはずがない。
だが――。
バトウは答えなかった。
「バトウ様?」
しばらくして。
「スブタイ」
「はっ」
「お前にだけ、話しておこうと思うことがある」
スブタイは黙って、その顔を見た。
バトウはゆっくりと立ち上がると、天幕の外へ目を向けた。
遥か西。
彼らが馬で踏み越えてきた、果てしない大地がそこにある。
「儂は、父上の書をむさぼるように読んだ」
静かな声だった。
「そして思った」
スブタイは黙って聞いている。
「父上は、この地に理想の国を築きたかったのではないかとな」
「書がそれを示しておる」
スブタイの眉が、わずかに動いた。
「儂は戻らぬ」
「……バトウ様」
「カラコルムへ戻り、また叔父どもや従兄弟どもと、誰が上だ下だと争う」
バトウは鼻で笑った。
「くだらぬ」
スブタイは何も言わない。
「父上も、そうだった」
ジュチ。
チンギス・カーンの長男。
だが、その出生を疑われ続けた男。
「生涯、チャガタイ叔父上に蔑まれた」
バトウの声から、笑みが消えた。
「大カーンの息子でありながら、最後まで一族の中に居場所を持てなかった」
「……」
「ならば、儂は」
バトウは西の空を見た。
「サライに都を置き――」
その声に、迷いはなかった。
「父の名を冠した国を建てる」
一拍置く。
「儂は、そこの王となる」
スブタイは何も言わなかった。
ただ、目の前の若き主を見つめている。
「だが――」
バトウが振り返った。
「その前に、やり残したことがある」
「やり残したこと……?」
「ああ」
バトウの目から、王の色が消えた。
そこにいたのは、草原に生まれた一人の男だった。
「草原の男として」
スブタイの目が、わずかに見開かれる。
「父を殺した男に」
バトウは静かに言った。
「仇を討たねばならぬ」
天幕の外から、風が吹き込んだ。
遠い西から吹く風だった。
「軍がついて来ぬというなら、それでもよい」
バトウはその風の向こうを見つめた。
「儂だけでも行く」
そして――。
「西の地の果てを、見に行く」
「そうですなあ」
スブタイは、しばらく考えるように顎を撫でた。
「まずは、敗退した二路の後始末をいたしましょう」
「うむ」
「そのあとは――」
スブタイは地図へ目を落とした。
「三万の軍をもって、中央路から攻め入りましょう」
バトウが口元を緩める。
「中央路か」
「はい」
スブタイも笑った。
「私も、ジュチ様を破った男に――」
そこで、わずかに目を細める。
「一度、会うてみたくなりました」
「ほう」
バトウは愉快そうに笑った。
そして、ふと思い出したように言う。
「ときに、スブタイ」
「はい」
「知っておるか」
「何をでございます」
バトウは少し得意げに胸を張った。
「奴らは、儂を――」
一拍置く。
「恐怖の王、と呼んでおるそうじゃ」
スブタイが眉を上げた。
「ほう」
「そして、そなたは」
バトウは笑った。
「悪魔の軍師、だそうじゃ」
スブタイは一瞬黙り――。
やがて、声を立てて笑った。
「それはまた、たいそうな名を頂いたものですな」
「そうであろう」
バトウも笑う。
二人の笑い声が、天幕の中に響いた。
だが、その名を口にした者たちにとって――。
それは決して、笑い話ではなかった。
「ユンナ、どうだった」
物見から戻ったユンナに、サイラスが尋ねた。
「モンゴリア軍は、各地で撤退を始めています」
「原因は」
「分かりません」
「ふむ……」
サイラスは腕を組んだ。
しばらく考え込んでから、傍らのガイロへ振り返る。
「何かあったな」
「追うか?」
ガイロが尋ねる。
だが、サイラスはすぐには答えなかった。
「……いや」
「罠かもかな」
「深読みしすぎでは」
ガイロが苦笑する。
「勝ったんだぞ、俺たちは」
「ああ」
サイラスは静かに答えた。
「今まで奴らは、退くふりをして何度も敵を殺してきた」
サイラスは地図へ目を落とした。
「一度勝ったからといって、急に奴らが弱くなったわけじゃない」
ガイロは黙った。
「追えば、待っているかもしれない」
「追わなければ?」
「本当に逃げるかもしれない」
「面倒くせえな」
「そういう相手かもね」
サイラスは小さく息を吐いた。
勝った。
確かに勝った。
だが――。
その勝利が、かえってサイラスを慎重にさせていた。
いや。
慎重というより、過敏になっていた。
モンゴリア軍が動けば、何かある。
退けば、罠を疑う。
止まれば、別働隊を疑う。
何もしなくても、何かを企んでいるのではないかと思ってしまう。
それほどまでに――。
サイラスは、彼らの戦い方を知ってしまっていた。
コメント
1件
第38話読みました〜!😭✨もうね、バトウ様の決意がかっこよすぎて胸熱です…!「儂は戻らぬ」「父の名を冠した国を建てる」ってセリフ、エモすぎて何度も反芻しちゃった。そしてラストの「恐怖の王」と「悪魔の軍師」の呼び名に笑い合う二人、最高のバディ感じゃないですか!?サイラス側の慎重さも対比になっててグッと来ました。次が待ち遠しいです、眠狂四郎先生!!🔥