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翌朝から、屋敷総出で、紗奈《さな》の祝いの宴へ向かって動いた。
徳子《なりこ》の体を思い、陣頭指揮は、守近がとると、大層な事を皆に宣言した為、まるで、お上から使者が遣わされるかのような、大仰な騒ぎになってしまっている。
「さあ、紗奈《さな》や、着付けてご覧なさい」
手直しするところはないか、寸法合わせの為、母から届けられた衣装に、紗奈は手を通す。
「まあ、それにしても、立派な、しつらえで、ございますねぇ」
「ほんに、金糸の刺繍が、さりげなく入っていて、何とも、上品なこと」
女房達は、口々に、衣装を褒め称えた。
得意げなのは、紗奈で、
「そうですよ!かか様は、衣装合わせが、お得なのです!」
と、分かったような口を利いた。
「ほんに、そうね。紗奈や」
徳子の相槌に、「あい!」と、紗奈は、胸を張って答える。
そんな、喜ぶ紗奈の様子に、皆、頬を緩ませた。
一方、裏方──、屋敷の炊事を担当する厨《くりや》では、下女達が、沈痛な面持ちをしていた。
「大丈夫だろうかねぇ?」
「今の時期は、どこの屋敷も、観月の宴だろ?」
「急だったからねぇ、芋《さといも》が、品切れとは、うかつだったよ」
「髭モジャ殿は、ああは言っていたけど……。戻りが遅いと言うことは……」
「やっぱり、手に入らなかったのかねぇ」
月観の宴といえば、芋《さといも》を蒸した、衣被《きぬかずき》を、お供えするのが習わし。もちろん、酒の肴としても、無くてはならない品だった。
「只今、戻った!!」
耳をつんざくような、ダミ声に、皆、一斉に振り向いた。
「すまんのぉ、嵯峨野まで、足を伸ばしておったもので、遅くなった」
「皆様、ご無沙汰しております。この度は、妹の為に、このような盛大な宴の準備をして頂きまして……」
ペコリと頭を頭を下げる少年がいる。
「あーー!長良《ながら》!!」
「何、他人行儀な事を言ってんだい、この子は!」
武蔵野の共として、嵯峨野に移っていた紗奈の兄、長良の登場に、皆、驚きの声を挙げた。
これぐらい、なんでもないさ、よく、帰って来た、と、皆は、長良を囲んだ。
「あ、それがしは、どうすれば、良いのじゃ?」
芋《さといも》満載の、背負い籠を、前と後ろにしょった、髭モジャは、下女達のかしましい勢いに押され、立ちすくんでいる。
「すまないねぇー髭モジャ殿」
「なあーに、いいってことよ、それに、ワシも、皆と同じ、下働きじゃ、何でもするぞ!」
「だけど、元は、検非違使《けびいし》の長《おさ》まで、やってた人にだよ、芋《さといも》掘りに、芋洗いまで、お願いしていいもんかね?」
「でもさぁ、髭モジャ殿。よく、これだけの芋、見つけて来たよ」
仕事《けびいし》を首になってしまった後、手伝い事で出入りしていた農家を周って分けてもらい、河原の土手で暮らしていた時見つけていた、自生の芋を掘ってきたのだと言う髭モジャの告白に、下女達は大笑いした。
「髭モジャ殿、苦労人なんだ」
「いや、苦労人というなら、そこは、笑う所ではなかろうぞ?!」
ははは、そりゃそうだ、と、下女達が、再び大笑いしている所へ、
「お前様っっ!!!」
今や、文字通り、髭モジャの女房になっている、徳子《なりこ》付きの女房だった橘《たちばな》が、走り込んで来た。
「ど、どうされた?」
「守近様とお方様が、お呼びです!早ようっ!」
「髭モジャ殿が何かしでかしたかね?」
「さあ、わかりませぬが、髭モジャを早よう呼んでこいと……」
「安心おしよ、何かやらかしててもさ、また、河原で暮らしゃーいいんだから」
「それも、そうですね!」
ははは、と、またもや、女達は、大笑いした。
同じ頃、守近は、徳子の言い分に、成る程と感じ入っていた。
「確かに、徳子姫の言う通りですね。紗奈《さな》にとっては、宴よりも嬉しい事でしょう」
「ええ、衣装を合わせている時の紗奈の様子を見ていると、大がかりな宴よりも、意味があるのではないかと思いまして」
「ああして池に舟を浮かべても、何の意味もないと言うことでしょうかねぇ」
母屋にあたる正殿の縁から伸びる階《かいだん》に、守近、徳子は腰掛け、前に広がる池を眺めていた。
池では、観月の宴ということで、至急用意された二艘の舟の漕ぎ手の練習が行われていた。
漕ぎ手の手配が間に合わず、屋敷の若衆から、牛車《くるま》の牛引き──、牛飼い童《わらわ》まで、駆り出され、漕ぎ方に慣れようとしていた。
宴は、明日の夜。戻って来た長良《ながら》が、月の動きに、吉日にと、暦を調べた結果、明日が、一番良い日取りであると結果付いたのだった。
「舟は、まあ、見る限り、大丈夫そうですね。食材も、揃ったそうだし、うん、後は、雅楽……。明日ならば……仕方ない、仲間内で行いますか」
「そして……守近様」
「徳子姫。髭モジャに頼めば、なんとか、なりますよ。嵯峨野よりは、遠いですが、今からならおそらく大丈夫でしょう……」
「お方様!連れて参りました!」
橘《たちばな》と、髭モジャが、駆け込んで来た。
「まあ、橘に、髭モジャ、ご苦労様です」
鈴を転がす様な、徳子《なりこ》の声に、髭モジャは、つい、顔を赤らめ、その場に平伏した。
「そう、固くならなくてもいい。実は、橘、髭モジャを暫く、貸してもらえまいか?」
「……守近様?それは?このような、無作法者ではありますが、お役に立てますのなら、いくらでも……なあ?お前様?」
「お、おう、ワシで役に立つのならば!」
守近夫婦の気品に、押されたのか、髭モジャの目は泳ぎきっている。
「うん、今から、近江国《おうみのくに》まで、行って欲しいのだ」
「近江?!」
橘と、髭モジャは、叫ぶ。なぜ、近江国へ、行かねばならないのだろう。屋敷は準備に、猫の手も借りたいほど目まぐるしく動いている。それなのに──。
「紗奈《さな》の母君を、お連れして欲しいのだよ」
「守近様、それは!!」
橘が、意図を察したのか、声を挙げると平伏する髭モジャを立たせ、
「お前様、この命は、お前様にしか出来ない事です!」
「えーと、どうゆうことじゃろうか?今から、近江国までと言われても……」
橘の顔つきが、変わった。
「髭モジャ!私《わたくし》の目を見なさい!」
「は、はいっ!!!」
髭モジャは、姿勢をしゃきっと、正して橘を見た。
「よろしいですか?近江国とは、紗奈の里なのです。守近様も、母君様をお連れしろとおっしゃったではないですか!」
あっ!と、髭モジャが息を飲む。
「成る程!分かったぞ!よし!すぐに、近江国へ、迎おうぞ!そうして、女童子《めどうじ》の、母君をお連れいたす!確かに、これは、かなりの荒行!!ワシにしか出来ない仕事じゃ!!女房殿、ワシに任せろ!必ずや、宴に母君をお連れいたす!」
「わかってくだされば、けっこう」
橘は、満載そうに頷いている。
「守近様、なんだか、変わった、夫婦《めおと》ですわね」
「変わった、と、徳子姫には映りますか。下々の夫婦は、概ねあのような感じなのですよ」
「はい、お方様、女房の言うことを聞いておれば、何事も安泰なのですじゃ」
ハハハハと、髭モジャは笑った。
「笑っておる場合ですかっ!早うお行きなさいまし!!」
「おお!そうじゃ!急がねば!」
馬をお借りする!と、言い捨て走り去ろうとする髭モジャを止める声がした。
「髭モジャ様!これを!あちらのお方様へお渡し願います!」
長良《ながら》が、髭モジャを追いかけ、書状を渡した。
「紗奈がしたためたものです。拙いですが、お方様への礼を……これがあれば、髭モジャ様が、紗奈の、いえ、守近様のお役目で馳せ参じた事が伝わりましょう!」
「成る程、ワシのこの髭モジャ顔では、怪しまれるからのぉ、長良殿、かたじけない!」
髭モジャは、書状を懐にしまいこむと、疾風のように駆け出して行った。