夜の家は、妙に静かだった。
時計の針の音だけが、壁に反響している。
リビングの灯りの下、颯馬が椅子に腰をかけていた。
腕を組んだまま、俯いて笑っている。
その前に、遥が立っていた。立っている、というより“立たされていた”。
「……楽しかった?」
低い声。
その一言で、空気が一瞬で凍る。
「誰といた?」
「……日下部と」
「へぇ」
颯馬の指先がテーブルを軽く叩く。
それだけで、遥の背筋がびくりと跳ねた。
「首元の跡、どうした? 消えかけてるな」
「……っ」
「新しいの、つけ直してやろうか?」
声の奥に、笑いが滲む。
優しさのかけらもない、獣のような笑みだった。
「俺がずっと黙ってたのはな、別にお前のためじゃねぇよ」
颯馬が立ち上がる。
「俺が楽しめるからだ。お前が震えるの、見てるのが一番気持ちいい」
足音が近づく。
逃げようとしても、背中が壁にぶつかる。
逃げ場なんて、最初からなかった。
「でも、今日のはさすがにムカついた」
颯馬の手が、遥の頬を掴んだ。
爪が食い込み、皮膚が軋む。
「俺の玩具が、他人に触られてるの見たら──普通、壊したくなるだろ」
遥は息を詰めた。
痛みと恐怖で、思考が白く濁る。
「黙ってろよ。抵抗すんな。そうやって、俺にしか従えなくなってくのが一番いい」
もう何度も聞いた言葉。
支配のための、呪文みたいな。
「なぁ、遥。お前、俺に殴られるの、ほんとは嫌じゃねぇだろ?」
そう囁きながら、颯馬は拳を振り上げた。
乾いた音が、部屋に弾ける。
一発、二発──それ以上、数えられなかった。
遥の視界は滲み、呼吸が乱れる。
痛みよりも、屈辱の方が深く刺さる。
「泣けよ」
「……やめ、て……」
「そうだ、それでいい。声出せ」
拳を振るうたび、颯馬の呼吸が荒くなっていく。
まるで、遥の苦しみでしか自分を確かめられないように。
「俺が壊す。俺以外に壊されるな」
その言葉に、遥の胸がずきりと痛んだ。
“守る”じゃない。“壊す”が颯馬の愛情表現だった。
床に膝をついた遥の髪を掴み、顔を無理やり上げさせながら、颯馬は静かに笑う。
「なぁ、これで分かったろ。俺のいないとこで勝手に喋んな。あいつの顔、二度と見るな」
遥の唇が震える。声にならない。
颯馬はゆっくりとその手を離し、背を向けた。
「今度見かけたら……あいつごと壊す」
ドアの閉まる音。
残された部屋の空気が、重く沈む。
遥はその場に崩れ落ちた。
泣くこともできず、呼吸を殺す。
胸の奥で、何かが確かに“折れる音”がした。
──壊されることが、愛の証のように教え込まれながら。







