コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
朝の空気は、冷たく乾いていた。
玄関を出た瞬間、頬を刺す風が痛い。眠れなかった夜の名残が、体の奥にまだ残っている。
制服の袖口を握り、遥は玄関の鍵を閉めた。
扉が金属音を立てた瞬間、首筋の下がひりつく。昨夜の感触が、まだ消えない。
階段を下りる足音が、妙に響いた。
まるで誰かが後ろをついてきているように。
それでも振り返らず、早足で角を曲がる。
──“日下部に顔を見せるな”。
颯馬の声が、頭の中で蘇る。
守るためじゃない。縋らないために、離れなければならない。
そう言い聞かせながら、視線を下げたまま歩く。
通学路の先、校門が見えた。
生徒の声、朝のざわめき。いつもと同じ、はずだった。
でも──そこに立っていた。
制服の襟を緩め、ポケットに手を突っ込んだまま、じっとこちらを見ている。
日下部。
足が止まる。
その瞬間、何も聞こえなくなった。
風の音も、遠くのチャイムも。
ただ、胸の奥で何かが鈍く鳴った。
日下部は歩み寄らない。
ただ、見ていた。
その視線が痛かった。
「大丈夫か」とも、「何かあったか」とも言わない。
言葉がないぶん、全部が見透かされているようで、息ができない。
遥は、顔を逸らした。
ポケットの中の指先が、冷たく湿っている。
通り過ぎようとした瞬間、日下部の声が落ちた。
「……目、見て話せよ」
静かで、それでも揺るがない声だった。
足が止まる。
けれど振り向けない。
「昨日、颯馬に何された」
心臓が一瞬止まったように感じた。
何も答えられない。
その沈黙が、すべての答えになってしまうことを分かっているのに。
日下部が一歩、近づく。
その距離が怖かった。
頬を撫でる風の中に、昨夜の痛みがまだ残っている気がする。
「……頼むから、隠すなよ」
その声が優しすぎて、胸が痛む。
優しさに触れたら、きっとまた壊れる。
怜央菜の声が、頭の奥で笑ったように響いた。
「離れろ、遥」
反射的に息を吸って、遥は一歩下がった。
その動きが、まるで拒絶のように見えたのだろう。
日下部の表情が、わずかに凍る。
それでも何も言わず、彼はただ立ち尽くしていた。
──沈黙のまま、二人の間に風が吹き抜ける。
遠くで始業のチャイムが鳴った。
朝の光が、校舎の窓を斜めに照らす。
遥は、その光に背を向けて歩き出した。
背中に、まだ視線が刺さっていた。
けれど振り返れない。
振り返った瞬間、何かが崩れてしまう気がした。