夜の住宅街は、街灯の下だけがわずかに白く浮かんでいた。
その光の境を踏むように、颯馬はゆっくりと歩いていた。
スマホの画面には、既読のつかないメッセージが並んでいる。
“起きてる?”
“なあ、日下部”
指先が冷えきっていたが、心の奥は奇妙な熱を帯びていた。
角を曲がったとき、見慣れた背中があった。
制服の上からパーカーを羽織り、手をポケットに突っ込んだまま歩く。
日下部だ。
颯馬は口の端をゆっくりと上げた。
「……よう、日下部」
低く呼びかけると、相手の肩がわずかに動いた。
振り返った目が一瞬、鋭く光る。
「颯馬……何してんだ」
「別に。散歩。お前こそ、夜遅くに」
言葉の調子は軽いのに、どこか底が冷たい。
日下部は一歩だけ距離を取った。
「遥んとこ、また行ってたのか」
「……なんで知ってる」
颯馬は笑った。
「知ってるよ、なんでも。怜央菜が言ってた。“まだ付き合ってるみたい”だってさ」
その声は、笑っているのに、まるで刃物を舐めるような湿った響きを持っていた。
日下部の表情がわずかに強張る。
「……お前ら、何がしたいんだ」
「何がしたいって?」
颯馬が首を傾ける。
街灯の光がその頬の線を斜めに照らした。
「“家族のこと”は家族でやってるだけ。お前は部外者だろ」
「……遥の“家族”って、それで済むことか?」
「済むさ。お前が思ってるほど、俺たち悪くない」
颯馬の笑いが静かに崩れる。
「だってな、あいつ――気づくと“戻って”くるんだよ。どんなに逃げても、結局俺たちの方に。お前には、あれの何が見えてんの?」
言葉が刺のように胸を突く。
日下部は口を開きかけ、しかし何も出てこなかった。
颯馬が一歩、近づく。
「なあ、日下部。あんた、あいつの傷、見たことある?」
息を呑む音が、夜に響く。
「俺は、全部見てるよ」
囁くように言い、にやりと笑う。
「肌の下に残った跡も、息を止めるときの目も、声も。あれ、すげぇ綺麗だよな」
日下部の拳が無意識に握られる。
「やめろ」
「何を?」
「……その言い方」
「言い方じゃなくて、事実だよ。お前、ほんとはわかってるだろ? あいつ、俺たちから離れられねぇんだよ。壊されることしか、生き方知らねぇ」
息が詰まる。
颯馬の声は低く、しかしどこか楽しんでいた。
「だからさ。あんたが守ってるつもりでも、あいつ、いつか自分で戻る。俺らのとこに」
「……お前ら、ほんとに――」
言葉が詰まり、喉の奥で空気が震えた。
「お前らのしてること、間違ってる」
颯馬はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「“正しい”とか“間違ってる”とか……そういうの、あいつの世界にはもうないよ」
風が吹き抜け、街灯の光がゆらいだ。
颯馬の目がほんの一瞬、何か深い闇を映す。
「――次に会ったら、教えてやるよ。
お前の“好き”がどれだけ薄っぺらいか」
その言葉を残して、颯馬は背を向けた。
足音が遠ざかる。
夜の闇に溶けていく影を見送りながら、日下部は拳を開けなかった。
爪が掌に食い込み、血の匂いがほんのかすかに立ち上る。
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