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昼の光が白く廊下に滲んでいた。
日下部は教室の窓際に立ち、遠くを見ていた。
その背に、遥が声をかける。
「……おまえ、また徹夜?」
日下部は少しだけ笑った。
「どうだろ。寝た気がしない」
その笑い方に、遥は何かを思い出して一瞬視線を落とした。
日下部は気づいたように目を細める。
「……なに?」
「別に」
「嘘つくなよ」
「ほんとに、なんでもない」
日下部は机に手をつき、ゆっくりと顔を近づけた。
「颯馬と、なんかあったんだろ」
遥の肩がかすかに動いた。
「……どうして」
「見ればわかる。首、隠しても無駄だ」
遥は指先で制服の襟を握った。そこに残るのは赤黒い影。
掴まれたような、引きずられたような跡。
「痛いの?」
日下部の声は静かだった。怒りでも哀れみでもなく、ただ冷たく沈んでいる。
「……もう、終わった」
「終わってない。そういう跡って、つくるほうは覚えてないんだよ。つけられたほうは、一生忘れないのに」
遥は顔を上げないまま、乾いた笑いを漏らした。
「おまえ、そういうの詳しいな」
「さあな。……俺の話、聞きたい?」
「聞きたくない」
即答だった。
日下部は少しだけ口の端を上げ、「だろうな」と呟いた。
風が吹き抜け、紙が一枚、床に落ちた。
二人の間に、言葉の代わりに沈黙が置かれた。
その沈黙のなかで、遥の首筋の傷だけが、現実の印のように浮かび上がっていた。
放課後の風は少し冷たくなっていた。
日下部と並んで歩くのは、それだけで胸が苦しかった。
何かを隠していることを、悟られたくなかった。
「今日、顔色悪いな」
「……寝てないだけ」
「また、家で何かあった?」
日下部の声は低く、遠慮がない。
けれどそのやさしさが、いちばん刺さる。
「大丈夫。おまえが気にすることじゃない」
そう言って笑ってみせると、日下部は眉を寄せたまま、少し黙った。
「……無理すんなよ」
その一言が、喉に刺さったまま抜けなかった。
駅を出たところで別れ際になり、日下部は軽く手を挙げて去っていく。
その背中が角を曲がって見えなくなるのを見届けた瞬間、空気が変わった。
振り向く前にわかった。
視線が、背中に突き刺さる。
「──楽しそうだったな」
背後から聞こえた声。
笑っているようで、笑っていない。
颯馬が街灯の陰から出てきた。
シャツの袖をまくり、ポケットに片手を突っ込みながら。
「日下部と一緒に帰るなんて、仲いいじゃん」
「……たまたまだ」
「ふうん。たまたまね」
近づいてくる足音。靴底がアスファルトを踏む音が、やけに大きく響く。
颯馬は目を細めて、遥の喉元に視線を落とした。
制服の襟の隙間から覗く薄い痕。
それを見て、ゆっくりと口角を上げた。
「俺がつけたの、ちゃんと見せびらかしてんじゃん」
遥は反射的に首を押さえた。
「……違う」
「違う?なにが?」
颯馬は一歩、二歩と距離を詰めた。
声は穏やかだったが、空気がひどく冷たい。
「触られてねぇって言うけどさ、あいつ、どこまで来てんの?」
「やめろ」
「どうして?気になるだろ。あんな顔で見てくるんだもん。おまえが何を隠してるのか」
手首を掴まれた。
爪が食い込むほどの力。
逃げようとしても、指が食い込む痛みで動けない。
「日下部といるときのおまえ、やけに素直だよな。……俺の前じゃ、そんな顔しねぇのに」
声が耳のすぐ近くで低く響いた。
そのまま颯馬は、遥の首筋の痕を親指でなぞった。
「消えかけてんじゃん。また、つけ直さねぇと」
遥は震えながら、やっと言葉を押し出す。
「颯馬……もう、やめて」
「やめろ?誰に言ってんの」
颯馬の表情は、笑っていた。だがその笑みの奥には、焦げついた怒りが潜んでいる。
「おまえのこと、部外者に見せるなよ。わかった?」
その言葉が落ちた瞬間、風が止まった。
夜の街灯が二人の影を重ね、遥の指先が震えたまま動かない。