出会って間もない頃、初めてお姉さんのことを教えてくれた聡一朗さんの心を想って、私は身勝手にも泣いてしまった。
彼は、お姉さんを想って泣くことも許さないほどに、自分を責めている――。
そう気付いて涙を堪えることができなかった私に、彼は優しい笑顔をくれた。
俺の代わりに泣いてくれて、ありがとう。
そう思ってくれたように、今なら思える。
でも、それではだめなんだ。
大切な人のために涙を流せないなんて、そんなことあってはならないんだ。
だって私は、大切な家族を失って知っている。
泣いて泣いて、一生分泣いて、身体中の水分がすべて枯れ果ててしまうほどに涙を流せばいい。
そうすれば人は、ほんの少しでも必ず前に進むことができるということを。
だから私は、聡一朗さんに出会えた。
『あいつをお姉さんの死から解放してあげられるのは、君しかいないんだ』
柳瀬さんの言葉が脳裏をかすめた。
居ても立ってもいられず立ち上がり、聡一朗さんの仕事部屋に向かった。
そして、写真の中のお姉さんと向き合った。
今初めてお姉さんにお会いしたかのように、どういう人なのか感じ取れるような気がした。
悲しげな笑顔。
それでも、優しさが伝わってくる。
お姉さんは少しも聡一朗さんを恨んではいない。
大切に想っていた。
きっと、こと切れる最期の瞬間まで。
そのことが伝わるなにかがあれば――
ふと、本棚に目が行った。
学術書ばかりが並ぶ中に紛れるように外国語の絵本があった。お姉さんの遺品だ。
「これは……」
見覚えのある背表紙を見つけて、思わず手に取った。
子どもの頃から私が持っている数少ない絵本の中の一冊と、同じものだった。
魔法の鍵を開けて、不思議な世界に行くおはなし。
ストーリーだけで魅力的なのに、さらに子ども心を鷲掴みにしたのは、実際に鍵が付いているところだった。
仕掛け絵本になっていて、各ページにある鍵穴にその鍵を差し込むと、絵が飛び出してくる仕組みになっていた。
そう、背表紙に綺麗な色の紐糸が付いていて、鍵はその先に――。
「あら……?」
付いていたのは銀色の鍵だった。
たしか絵本のは銅色だったはず。
作りも銀色の方が精巧で、本物の鍵みたい――。
「もしかして」
はっとなり、私は絵本の隣に置いてある物に視線を向けた。
アンティークの木箱。
以前、手に取っていたら厳しい口調で制止された。
『その箱は鍵が無いから開かない』
聡一朗さんはそう言っていたけれども……。
思い切って、箱を手に取った。
からん、と乾いた音が中から聞こえた。なにか入っている。
私は銀の鍵を手に取り、おそるおそる、箱の鍵穴に差し込んでみた。
なんの違和感もなく、すっと鍵が奥まで入る。
そっと回すと、カチャと音がした。
一呼吸おき、私はゆっくりと木箱の蓋を上げた。
※
「タクシー!」
マンションの入口から出て、幸運にもタクシーを止めることができた。
現在、時刻は十三時。
式典は十四時開始だった。
木箱の中身に夢中になっていたらつい時間が過ぎてしまって、準備に追われてしまった。
十四時までにはどうにか間に合いそうだけれど、余裕を持って着こうと思っていた時間より、だいぶ遅れてしまうことになる。
『ごめんなさい、少し遅れます』
車内で聡一朗さんにラインを打った。
それからしばらく考えて続きを打つ。
『お話したいことがあります。式の後、お時間をいただいてもいいですか?』
しばらく様子を見ていたけれども、既読は付かない。
間際で聡一朗さんも忙しくしているんだろう。
私は昂る胸を抑えるように、ほおと息を吐いた。
早く聡一朗さんに会いたい。
そしてあの木箱の中身を見てもらいたい。
そわそわしていたら、タクシーはあっという間に会場である大学講堂前に着いた。
と言っても、少し道が混んでいて予想していたよりも遅い時間になってしまった。
急いで降車し、講堂入口に駆け込む。
私は一応関係者ということだから、一般の参列者とは違う動きをしなくてはならず、いったん控室に入ることになっている。
そこで聡一朗さんとも待ち合わせしていた。
ええと……一般参列者の経路表示は貼ってあるんだけれど、関係者控室へはどう行けばいいんだろう。
と、焦りながらきょろきょろしていると、
「あら、お早いお越しね」
紗英子さんが近付いてきた。
ちょっと警戒感が芽生えるものの、一方でほっとする。
彼女なら控室の場所を知っているかもしれない。
「あの、関係者控室ってどこに行けばいいかご存知ですか?」
「ああ、それなら分かるわ。私も今までそこにいたの」
紗英子さんはにっこりと笑って、
「案内してあげるわ。着いてきて」
「わぁ、助かります」
ほっとしながら私は彼女の後をついて行った。
あたりには、まだ談笑している人たちが立っているけれども、歩きすがら見える講堂内では、すでに大勢の人が着席していて開始を待っている。
数百人……は来ているようだ。
ああ、今回の受賞ってすごいことなんだな、といまさら聡一朗さんの快挙に感激する。
私はただ関係者席で座っていればいいだけなんだけれど、なんだか緊張してきた。
聡一朗さん、どんなスピーチをするんだろう……。
なんていろいろ考えて歩いていて気に留めていなかったけれども、もう一、二分近く歩いていた。
講堂からもだいぶ離れてしまっている。
関係者控室って、こんなにはずれにあるものなのかな……?
「あの、ずいぶん遠いんですね」
「……」
おずおずと紗英子さんに話しかけるけれども、彼女は黙って歩き続ける。
少しした人気のない所で、ようやく立ち止まった。
「ここよ」
と指さしたのは重々しそうな扉だった。
こんなところ?
訝しく思って、入る気がしない。
「さぁもう時間がないわ。先生もお待ちかねよ」
けれどもそう言われ、なかば強引に手を引かれれば抵抗のしようがない。
取り合えず、覗くだけしてみよう。
そう思って、そっと扉を開けた瞬間――どん、と背中を乱暴に押されて、私は床に崩れた。
中は暗かった。
控室なんかじゃない。
騙された――!?
そう思って扉に飛びつこうとした時には遅かった。
意地の悪い笑みを浮かべた紗英子さんに閉められ、押しても引いても扉はびくともしなかった。
外から鍵が掛けられたのだ。
「出して! どうしてこんなことするの!?」
「あなたって、ほんとバカで世間知らずのお子様ね」
嘲笑うような声が聞こえた。
「言ってあげてたでしょ、あなたみたいな小娘は先生に相応しくないって。そこで自分のバカさ加減を思い知るといいわ」
「待って、開けて! お願いだから!」
けれどももう声は無かった。
ヒールのコツコツという冷たい音だけが遠ざかっていくのが聞こえた。
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