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桜城
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第二章 小さな光
第八話 青い空の向こう
馬の蹄の音が軽やかに響く。
初夏の風が心地よかった。
ラディスの中央へ伸びる大通りは昼時ということもあり、多くの人々で賑わっている。
商人達の呼び声。
市場の活気。
焼き立てのパンの香り。
街は今日も平和だった。
サフィアンは馬上からその景色を眺めながら、どこか気の抜けたような表情を浮かべていた。
頭に浮かぶのは、さっきまで薬屋にいた黒髪の少年のことばかりだ。
一緒に、街を出ないか?
思い切って口にした言葉。
そして
――行きたい。
ジオはそう答えてくれた。
思い出しただけで口元が緩む。
「……ダメだダメだ」
慌てて顔を引き締める。
けれど頬は勝手に緩んでしまう。
嬉しかった。
本当に。
心の底から
昨夜は満月だった。
先月の魔物襲撃以来、満月の夜になると落ち着かなくなる。
家にいても妙に胸がざわつく。
そして気付けば、ジオのことを考えてしまう。
あの夜のことを。
黒い瘴気。
不思議な力。
倒れ込んだ青白い顔。
街の人々の視線。
噂。
陰口。
平気そうに笑うジオ。
けれど、本当は傷付いていることをサフィアンは知っていた。
窓の外を見る。
満月。
銀色の光が街を照らし、建物や木々に濃い影を落としている。
胸騒ぎがした。
理由は分からない。
ただ、ジオが一人で苦しんでいる気がした。
気付けば外套を羽織り、部屋を飛び出していた。
ベッドの上で膝を抱えていたジオは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
普段のジオなら絶対に見せない顔だった。
ーー怖い。
そう呟いた声は震えていた。
何もしてやれなかった。
ただ話を聞いて。
その苦しみを受け止めて。
思わず抱き締めただけだ。
それくらいしか出来なかった。
それでも少しだけ安心したような顔をしてくれた。
それだけで嬉しかった。
そして今日、一緒に街を出ようと言った。
ジオは頷いてくれた。
やがて見えてきた。
白い石造りの屋敷。
美しく整えられた庭園。
ラディスでも有数の名家だった。
門を抜ける。
馬を預けると、玄関には見慣れた執事が立っていた。
「お帰りなさいませ、サフィアン坊ちゃま」
レオンだった。
白髪混じりの髪を綺麗に整えた初老の執事である。
「ただいま」
「本日は随分ご機嫌でございますね」
「え?」
「いえ」
レオンは微笑んだ。
絶対気付いている。
サフィアンは少しだけ気まずくなった。
「父上は?」
「書斎にいらっしゃいます」
サフィアンは小さく頷く。
ーーコンコン。
「父上。サフィアンです」
僅かに声が震えた。
「入れ」
低い声が返ってくる。
扉を開く。
書斎の奥。
机の上には大量の書類。
そこで仕事をしていたのはコバルト・ソルトだった。
ラディス五大貴族家門の一つ、ソルト家当主。
実業家としても名高く、多くの事業を手掛けている。
厳しい人だ。
だが誰よりも誠実だった。
身分で人を判断せず、街の人々にも分け隔てなく接する。
サフィアンはそんな父を尊敬していた。
コバルトは眼鏡越しに息子を見る。
深い青い瞳。
サフィアンとよく似た瞳だった。
「……どうした?」
サフィアンは深呼吸した。
覚悟を決める。
「俺……ラディスを出ようと思います」
部屋が静まり返る。
コバルトは何も言わない。
ただ息子を見つめている。
その沈黙が妙に長く感じた。
サフィアンは唇を噛む。
「俺は……」
続ける。
「このまま決められた道を進むだけじゃ嫌なんです」
「学校を卒業して、家を継いで、それも大切だと思います」
「でも」
拳を握る。
「今のままじゃ父上みたいな立派な大人にはなれません」
「もっと色んな場所を見たいんです」
「色んな人と出会って、色んな経験をして、自分の意思で歩きたい」
言い終える。
再び沈黙。
コバルトは窓の外へ目を向けた。
しばらく何も言わない。
やがて、眼鏡を外し、小さく息を吐いた。
「お前はまだ子供だ」
低い声だった。
「一時の思いつきや気の迷いで道を踏み外すこともある」
「一歩間違えれば命を落とすこともある」
サフィアンは黙って聞いていた。
「だが」
コバルトは続ける。
「そこでしか得られない経験があるのも事実だ」
遠くを見るような目。
まるで若い頃を思い出しているようだった。
「新しい道を見つけることもある」
「かけがえのない出会いもある」
そして、少しだけ笑った。
「お前は一度決めたことは曲げんからな」
サフィアンの肩が僅かに震える。
「行くなと言っても行くんだろう?」
図星だった。
思わず視線を逸らす。
コバルトは苦笑する。
「それに」
少しだけ優しい顔になる。
「一人ではないのだろう?」
サフィアンが顔を上げる。
「……」
「ジオ君も一緒なんだろう?」
思わず目を見開いた。
なぜ分かったのか。
コバルトは全てお見通しだった。
「彼は今、この街では少々居心地が悪いはずだ」
静かな声だった。
「二人で広い世界を見てくるといい」
サフィアンの胸が熱くなる。
「父上……」
「ただし」
コバルトは青い瞳を真っ直ぐに向ける。
「必ず生きて帰ってこい」
サフィアンは大きく頷いた。
「はい!」
書斎を出る。
胸が軽かった。
自室へ戻る。
すると
ーーコンコン。
「サフィ?」
聞き慣れた声だった。
返事を待たず扉が開く。
「姉ちゃん……」
「ちゃんとノックしたじゃない」
アズールだった。
明るい青髪。
勝気な瞳。
そして抜群の勘の良さ。
「何か企んでるでしょ?」
早速だった。
サフィアンは頭を抱えた。
その後もシアンとマリンに捕まり。
レイラに怒られる双子を見送り。
騒がしい家族との時間を過ごした。
賑やかで温かくて、少しだけ名残惜しかった。
夕方。
ようやく一人になったサフィアンはベッドへ倒れ込む。
「はぁ〜……」
天井を見上げる。
旅の準備。
必要な物。
考えることは山ほどある。
けれど、不思議と不安は少なかった。
頭に浮かぶのは、今日の薬屋でのこと。
ピクニックみたい。
そう言って笑ったジオの顔だった。
思わず笑みが零れる。
窓の外では初夏の風が木々を揺らしていた。
ラディスの空はどこまでも広い。
さらにその向こうには、まだ見たことのない世界が広がっている。
知らない街。
知らない人々。
知らない景色。
そして、ジオと一緒に歩く未来。
サフィアンは目を閉じる。
胸が高鳴った。
その青い瞳には、まだ見ぬ世界が眩しく映っていた。
コメント
1件
サフィアン、ついに決意を固めたんですね。父親相手に「自分の意思で歩きたい」って言い切るところ、すごく良かったです。コバルトが「一人ではないのだろう?」と見抜いてるのも、親子の信頼関係が感じられてぐっときました。「必ず生きて帰ってこい」は重くて温かい言葉だなあ。家族との騒がしい時間も名残惜しくて、旅立ち前の空気が丁寧に描かれていて好きです。ジオと二人で見るまだ見ぬ世界、楽しみですね。