気づくと理紗子は車の助手席に座っていた。
顔が火照って頭の中はまだ放心状態のままだった。自分がどうやって車に戻ったのかも覚えていない。
隣を見るとハンドルを握る健吾の逞しい腕が見えた。
ついさっきまでその逞しい腕に抱き締められていたのかと思うと、理紗子の頬がうっすらと赤く染まる。
健吾はどういうつもりでキスをしたのだろう? 『偽装恋人』としてのキスだったのだろうか?
理紗子はその理由が知りたかったが怖くて聞けなかった。
一方、健吾も物思いに耽る。
理紗子に触れたいとずっと思っていた。理紗子を抱き締めたいとずっと思っていた。
しかしまさかそのチャンスが今夜訪れるとは思ってもいなかった。
本当はもっと順を追ってちゃんとしてから行動に移すつもりだった。その時が来るまではきちんと待つつもりでいた。
しかし今夜は健吾の理性が働かなかった。気付くと身体が勝手に動いていた。
理紗子の唇の感触は想像以上に素晴らしかった。
ふっくらとした柔らかな感触に、健吾はそそられっぱなしだった。だからキスをやめようとしてもなかなかやめられずにいた。
そして健吾は理紗子に触れた事により、ますます理紗子を愛おしく思っていた。
車がホテルへと近づくと健吾が言った。
「もうすぐホテルだ。一応例の彼女がいるかもしれないからくれぐれも油断しないように!」
その言葉に理紗子は急に現実に引き戻される。
すっかり忘れていたがホテルにはまだあの女性がいるのだ。
「うん、わかったわ」
今はとにかく『偽装恋人』に集中しようと理紗子は思う。
車がホテルに着き車から降りた二人は手を繋いで歩き出す。
二人が緊張しながらロビーへ入ると、そこに麗奈の姿はなかった。
「部屋の前の廊下が要注意だな」
健吾はそう呟くとある提案を理紗子にする。
「理紗子、一時間くらいバーに寄って行くか? 俺と一緒なら安心だから楽しめるぞ」
その言葉に理紗子の顔がパァッと明るくなる。
結局前回のバーの取材はスピリチュアル島村のせいですっかり台無しになってしまった。
ご機嫌な理紗子は、健吾と手を繋いだままホテルのバーへ向かった。
二人がバーへ入ると、前回いたバーテンダーが二人に声をかける。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーは理紗子を見て「アッ!」と言う顔をした。
そして近づいて来て申し訳なさそうに言う。
「お客様、先日は大変申し訳ございませんでした。私の不注意で…」
「いえとんでもないです。私の方こそ酔いつぶれてご迷惑をおかけしてしまって」
理紗子は気にしていないといった表情でバーテンダーに微笑んだ。
「いえこちらこそ強いお酒を立て続けにお出ししてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
男性は再度申し訳なさそうに深々と頭を下げたので、理紗子は大丈夫ですからと笑顔で答えた。
それから二人はカウンターに並んで座った。
するとバーテンダーは今度は健吾に向かって挨拶を始めた。
「佐倉様、お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです」
どうやら二人は顔見知りのようだ。
「四ヶ月ぶりですね」
健吾はそう言って微笑んだ。
「こちらのお客様が佐倉様のお連れの方とは存じ上げずに、本当に申し訳ございませんでした」
バーテンダーは健吾に対しても頭を下げた。
「大事には至らなかったのでもう気にしないで下さい。今夜は仕切り直しという事で何か彼女に素敵なカクテルをお願いします。ちなみに彼女はパイナップルが好物なんですよ。で、俺はジントニックで」
健吾はバーテンダーにそれとなくヒントを与えたようだったが、理紗子は全く気付いていなかった。
バーテンダーの男性は健吾の言葉を聞いてニッコリ微笑むと、
「かしこまりました」
と言い、早速カクテルを作り始めた。
そこで理紗子が小声で聞く。
「一昨日の夜の事をホテルに言ったの?」
「もちろん! 奴は完全にブラックリストに入ったな」
健吾はそう言うとニヤリと笑った。
「………….」
理紗子は健吾がそこまでしているとは思ってもいなかったので正直驚いていた。
スピリチュアル島村は自業自得とはいえこのホテルにはもう出入り禁止になるのだろう。
「お待たせいたしました」
バーテンダーが理紗子の前に作りたてのカクテルを置いた。
「うわぁかわいい! ピンク色!」
華奢なグラスに入ったカクテルはとても優しいピンク色をしていた。
グラスの縁は砂糖で白く彩られたスノースタイルで、そこに一輪の白い花とレモンの輪切りが添えられていて、見た目もとても美しかった。
「こちらは『フラミンゴ・レディ』というカクテルになります。アルコール度数は抑えめにしてありますので、どうぞ安心してお召し上がり下さい」
バーテンダーは微笑みながら言うと、続けて横に健吾のジントニックを置いた。
「素敵なカクテルをありがとうございます。ちなみにこの『カクテル言葉』は何ですか?」
「そちらは『魅惑』という言葉になります」
バーテンダーはニッコリする。理紗子はその説明に目をキラキラさせて頷いた。
そして健吾に言った。
「乾杯しようよ!」
理紗子がグラスを持ち上げたので二人は乾杯をした。
理紗子は早速その可愛らしいピンクのカクテルを一口飲んでみる。
「うわぁ美味しい! これってもしかしてパイナップルも入っていますか?」
「はい、さすがお客様、鋭いですね。こちらにはパイナップルやピーチ、レモンなどの果汁が入っております」
見事に当てた理紗子はかなりご満悦の様子でニコニコとしている。
喜んでいる理紗子を見つめながら健吾はジントニックをもう一口飲んだ。
その時理紗子が聞いた。
「それはどんな味?」
「普通だよ」
「ちょっと一口頂戴」
理紗子が言ったので健吾はグラスを渡した。
ほんの一口ジントニックを飲んだ理紗子は、渋い表情を浮かべてグラスを返した。
「うへぇ、これは無理。ケンちゃんってお酒強いの?」
「普通だよ」
「私、こういうのって絶対飲めない」
理紗子は眉間に皺を寄せてこれはダメといった顔をしている。
その顔があまりにも愛らしかったので、健吾は声を出して笑った。
「理紗子は弱いんだから別に無理して飲まなくたっていいんだよ。ビールとかワインは普通に飲めるんだろう?」
「うん。洋子と居酒屋に行く時はビールとかサワーとかワインかな。でも洋子とは飲むよりも食べる中心かな? 女同士だとそうなっちゃう」
「今度の小説ではバーのシーンを書くんだろう? カウンターの写真を撮らせてもらえば?」
「いいのかな?」
「大丈夫だろう。すみません、ちょっとカウンターの写真を撮らせてもらってもいいですか?」
「もちろんどうぞ。店内も今日はお客様も少ないので遠慮なく撮っていただいて大丈夫ですよ」
理紗子は「ありがとうございます」とお礼を言ってから、バー店内の写真を撮り始めた。
カウンターの写真を撮る時にはこっそり健吾の姿も入れて撮った。イケメンがカウンターで飲んでいる様子はとても絵になる。
一昨日スピリチュアル島村と飲んだ時は、楽しいとかリラックスといった言葉とは無縁だった。
しかし今夜はとても楽しくて寛げる。同じ場所なのに相手が変わるだけでこうも違うのだ。
健吾との会話は楽しいし、健吾が理沙子の酒量をチェックしてくれるので安心してお酒を楽しめる。
(なんだろう、この居心地の良さは……)
理紗子はとてもリラックスした雰囲気の中で夜のひと時を楽しんでいた。
一杯目を飲み終わった健吾は次にウイスキーを、そして理紗子はまたお任せでカクテルを注文した。
二杯目に出て来たのは、黄色の可愛らしい『ミモザ』というカクテルだった。
ミモザはさらに度数が低いようで安心して美味しく飲む事が出来た。
今の二人は、どこからどう見ても普通のカップルにしか見えなかった。
二人が『偽装恋人』だと言ってもおそらく誰も信じないだろう。
そのくらい二人はいつの間にか自然に接する事が出来るようになっていた。
二人はこの島で一緒に過ごすうちに二人でいる事が当たり前になっていた。
そしてこの島で二人で過ごした時間は、確実に二人の距離を縮めていた。
二杯目を飲み終えた時、健吾が言った。
「そろそろ部屋に戻ろうか」
理紗子は頷くと二人はバーを後にした。
エレベーターまでの廊下を歩きながら、理紗子は一昨日の晩の事を思い出す。
あの時はスピリチュアル島村に抱き抱えられながらここを通り、エレベーター内で尻を触られたのだ。
理紗子は思わずぶるっと身震いする。
「どうした? 酔ったか?」
「ううん大丈夫。凄く楽しかった。ありがとう」
「それなら良かった」
健吾は穏やかに言うと、理紗子と手を繋いで歩き出した。
理紗子は健吾の大きな手の温もりを感じながら安心感に包まれていた。
理紗子はほんのり酔った頭で、いつまでもこうして彼の体温を感じていたい…そんな風に思っていた。
コメント
3件
↓お2人に激しく同意!!! 健吾はもういっぱい🈵に近付いてるような気がするよね。でも自分から偽装と言ってしまった手前どこかチャンスを探し出すと思う〜❗️ 理紗子ちゃんはいつ自分の気持ちに気付くか…ここが最大のポイントになると勝手に思いながら… その日を*:✧˖(ෆ˘͈ ᵕ˘͈)(˘͈ᵕ ˘͈ෆ)˖✧:* 楽しみにしたいと思います。
↓ノルノルさん、本当ですね🤔 二人とも 一緒に居るのが心地良すぎて、好きが溢れちゃっていて....👩❤️👨♥️ 「偽装」がだいぶシンドくなってきていますよね~😓💦 偽装を解除して 本当の恋人になれるのか⁉️.いやいや...、なってほしぃ~💏🙏🥺💖
先に「偽装恋人」って先入観があるから理沙ちゃん自身も健吾の行動も全部それ前提でものを考えちゃうから困ったもんだね🤔😫💧 その🔑を開けないと素の状態に戻れないのかな? でも理沙ちゃんは健吾のことをしっかりと恋⁉️として意識してるよね⁉️ 健吾‼️理沙ちゃんに「もう偽装は終わり」って分からせないとお互い辛いし可哀想だよ😢😿