テラーノベル
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彼女が亡くなってから十五年が経った。
金満は、あの騒動の後に離婚したらしい。
職と家族とイチモツを失い、どこかでひっそりと暮らしていると風の噂で聞いた。
あれから、あの宝飾店は僕の前に現れる事はなかった。
当時に比べれば、あの店の事も、昔の彼女の事も、思い出す頻度が薄れてきているのは確かだった。
一昨年の春に出会った歳上の女性、A子と付き合っている。
数合わせで連れていかれた合コンで連絡先を交換したのだが、明るく、何事にも一生懸命なA子にいつの間か惹かれている自分がいた。
告白をしたのは僕からだ。
ずっと忘れられなかった昔の彼女。
もしも彼女が生きていたら、今も僕の隣にいたのだろうか?
それともまだ高校生だった僕らは、別々の道を歩んでいた?
今となっては考えても仕方がない事だ。
過去を振り返ってばかりでは前に進めない。
A子と付き合って二年、そろそろプロポーズをしようと考えている。
以前、何気なくA子の指のサイズを聞き出し、この前に宝飾店でリングを購入したところだ。
もちろん、あの不思議な宝飾店で、ではない。
ネットでいろいろと調べ、店員にアドバイスを受けながら、時間を掛けて選んだリング。
A子は受け取ってくれるだろうか?
+
「今日はなんか雰囲気が違うね」
A子の言葉にギクリとする。
今日は気合いを入れて、夜景の見える有名な店を予約した。
A子も何かを感じ取っているようだ。
食事のデザートも運ばれてきたし、そろそろだな。
僕は背広の内ポケットに忍ばせておいたリングケースを取り出し、それを開いた。
A子の瞳が僅かに揺らいだのが分かった。
「……僕と結婚してください!」
声が裏返ってしまった。
何週間も前からシミュレーションしてきたたはずなのに!
「はい、よろしくお願いします」
A子ははにかみながら、頬を赤らめている。
やった!オッケーだ!
僕はケースからリングを取り出し、A子の左手薬指にはめた。
「……ありがとう。嬉しい」
A子は満面の笑みを浮かべている。
こんなにも喜んでくれるなんて、選んだ甲斐があったな。
+
プロポーズから二日が経った月曜の朝、僕は有頂天のまま出勤した。
昼休みになり、職員室の横にある休憩室に入った時、年配の女性教師がいつものように他の教師達相手にマシンガントークを繰り広げていた。
空いている席に着き、食事を取り始めようとした時、年配の女性教師が、僕に「ねえ、あなたはどう思う?」と聞いてきた。
「どう……って、何の話をされてたんですか?」
「これよこれ!」
鼻息を荒くした年配の女性教師が、スマホ画面を|印籠《いんろう》のように突き出してきた。
【プレゼント貰ったけど、まさかの|futten《フッテン》!センス悪すぎて草生えるwww】
画面に表示されていたTwitterの呟きらしき文章を目で追う。
「プレゼントのブランドがまさかのfuttenなのよ!」
女性教師が小馬鹿にしたような言い方で、呟きの下にあった画像を拡大した。
ん?これって……?
「こんな物を成人した彼女に送るなんて、センスを疑うわね」
女性教師の言葉も、もちろん気にはなったが、それよりも僕の心をざわつかせたのは、思い切り見覚えのある画像と、投稿された日付け。
ツイートが投稿されたのは、僕がA子にプロポーズしたのと同じ、二日前の土曜日だった。
「……futtenって、プレゼントに不向きなんですか?」
僕は平静を装いながら訊ねた。
「そうですよぉ!futtenってダサいってイメージがありますからね……。プレゼントする人のセンスをとわれるっていうか。まずプロポーズでは間違いなくNGですね!」
近くにいた同僚の女性教師が言い放った。
だ、ダサい……?
ネットの口コミでも好評価が圧倒的に多かったのに?
「ネットショップの口コミとか、購入してなくても評価が付けられますからね。社員達が星5つとか付けてるんじゃないですか?口コミよりも、SNSの意見の方がリアルですよ!」
そんな……。
A子は喜んでくれていたはずだけど、投稿されたのがプロポーズした日と同じだなんて。
リングはA子にプレゼントしたのと全く同じデザインで、画像の中で見切れている料理も、あのレストランで食べたコース料理に間違いない。
A子にリングを渡した後、緊張が解けた僕はトイレに向かった。
もしかして、その間に写真を撮った。
+
「あんなに緊張しなくてもよかったのに」
休日にA子の実家に結婚の挨拶に行った帰り、僕の隣を歩くA子は笑いながらそう言った。
「そりゃ緊張するよ。でもよかった。すんなり受け入れてもらえて」
「ドラマに出てくるような厳格な頑固親父とかだったら緊張もするだろうけど、そうでもなかったでしょ?」
「ああ、そうだね」
会話が一区切り付いたところで、僕はA子に聞いてみた。
「あ、あのさ。今まで聞いた事なかったけど、SNSとかやってる?」
「SNS?LINEくらいかな。
あ、LINEってSNSの区切りには入らないんだっけ。でも、どうして?」
A子が僕の顔を見上げながら不思議そうに応えた。
「いや、何となく。生徒に話を振られる事がたまにあってさ」
「そうなんだ。先生も大変だね!」
あの投稿は、A子じゃないのか?
そうだ、偶然に決まっている。
あの日、レストランには僕ら以外にもたくさんのカップルが食事をしていた。
他にfuuttenの同じデザインのリングをプレゼントした人がいたって、何も不思議じゃ……、……いいや、やはり違和感が|拭《ぬぐ》えない。
だけどA子に直接聞く勇気もない。
投稿したのが本当にA子だったとしたら、その真意を確かめたい。
もしも気に入らなかったのなら、『今度は一緒に選びに行こう』って言えるから。
「きゃっ……!」
僕は曲がり角から急に出てきた女性とぶつかってしまい、鞄を落としてしまった。
「ごめんなさい!」
ぶつかった女性の鞄も落ちたらしく、目薬やら何やら、色々と中身が地面に散乱している。
「いえ、こちらこそすいません。怪我とかしてませんか?」
僕はそう言いながら落ちた荷物をいくつか拾い、女性の方に顔を向けた。
「……え?……美織君?」
「あ、やっぱり!若井先生だ!」
在学中、金満からのスクールセクハラに悩まされていた高木美織君だった。
あの頃よりも垢抜けていたので一瞬分からなかった。
「僕の学校の卒業生だよ」
最後に地面に残っていたヘアアイロンを拾い上げながら立ち上がったA子に、美織君を紹介した。
「この|女性《ひと》が、僕の婚約者 」
『婚約者』という言葉に照れたのか、ヘアアイロンを持ったままのA子の頬が少し赤らんでいる。
「わぁ、そうなんですか?おめでとうございます!」
「ありがとう。これ、どうぞ」
A子はヘアアイロンを手渡すと、美織君は素早く鞄の中に仕舞い、「デートのお邪魔してごめんなさい。じゃあ、私はこれで!」とペコリと頭を下げ、いそいそとその場を立ち去っていった。
「明るい子だね」 赤らめた頬をそのままに、A子は言った。
「ああ、そうだね」
でも彼女、在学中は大変だったんだ。
「じゃあ、行こうか」
だけど、あの事をA子に説明する機会はないだろう。
美織君も、あの宝飾店の男性に金満への依頼したのが僕だとは知らない。
これから人生を共に歩んでいくA子にも、昔の恋人を母校の教師のせいで失った過去を話すつもりもない。
誰だって、知らない方がいい事だってあるんだ。
+
高木美織は、心療内科の受け付けの女性に診察券と保険証を渡し、軽く溜め息を吐きながら席に着いた。
この病院の椅子は綺麗で座り心地がいい。
最近流行りののJ-POP音楽が、オルゴール調の優しい音色で流れている。
若井先生、結婚するのかぁ……。
まあ、私には縁遠い話だよね。
+
中、高を卒業してから短大に進学、卒業したが、不眠症は一向に改善していない。
被害に遭っていた時の事を鮮明に思い出して苦しくなる『フラッシュバック』が現在も続いている。
病院は現在で三つ目になる。
初めて通院した心療内科も、医師が男性で抵抗はあった。
中学時代の事を打ち明けると、「へぇ、どういう風に触られてたの?」 とニヤニヤしながら聞かれたので二度と行かなかった。
女性の医者がいる病院をネットで探し、薬物治療をする事になったが、当時の私は『薬』という物にかなりの抵抗があった。
もしも将来、子供を産む時に何かしらの影響があるのではと、とても心配だった。
医師にその事を質問すると「妊娠してる時に飲まなきゃ大丈夫だよ。薬を飲まなければ夜も眠れないままだけど?」と言われた。
最初に処方されたアモキサンという薬は私には強かったらしく背中に酷い発疹ができ、皮膚科での治療が必要になった。
医師に伝えると、違う薬を処方された。
そして薬の数は段々と増えていった。
短大卒業後は電車とバスで通勤していたが、車内、そして勤務先のスーツ姿の中年男性の社員達を見る度に、担任の姿が重なってしまった。
二年で限界を迎え、退職。
退職してからは地元のスーパーの惣菜売り場のバックヤードで働くようになり、症状は少しマシになった。
チーフは男性だけど、作業場で仕事をしているのは皆女性なので気が楽だった。
だけど完治はしていない。
あの店の男性のお陰で担任の事は|公《おおやけ》になったけれど、担任が職と家族とイチモツを失ったからといって、心に負った傷が消えるわけではなかった。
+
五分にも満たない診察を終えた後、会計を済ませてから処方箋を持って病院を出る。
病院と薬局は隣接している場合が多いが、土地が空いていなかったのか、|人気《ひとけ》のない路地を三分ほど歩かないと薬局に着かない。
毎回、この路地を通るのが苦痛だ。
一番最初に通った心療内科の薬局は、すぐ隣にあった。
たしか、娘が父親である医者を殺すという事件が起こり閉業、取り壊されて更地になったんだっけ。
男性が背後から歩いてきた時は、元来た道を急いで戻り、前から男性が歩いてきた時も一旦引き返すようにしている。
男性が後ろを歩いている時が一番怖い。
歩いている男性が、いい人なのか悪い人なのか、見た目だけでは分からないから。
「ねえ、どこ行くの?」
その声に振り向くと、髪がボサボサの男性がすぐ後ろに立っていた。
人が付いてきている気配なんて全くなかったのに、どこから出てきたの!?
鞄の中に忍ばせた防犯ブザーを取り出す術もなく、男性に右腕を掴まれた。
ボサボサの髪に隠れていて顔は見えないが、無精髭を生やした口元がニヤリと笑った。
「……あ……っ!」
怖くて声が出せない。
「病院から来た?病気?」
逃げなきゃ。
「僕が相手になってあげるよ?病気にはスキンシップが大事なんだって。ハグしようか、ハグ」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
腕を振りほどこうにも力で敵いそうにない。
だったら大声を出さないと。
だけど出ない。
足も震えて動かない。
「ねえねえ……」
男性が更に何か言いかけたと同時に、女性の声が聞こえてきた。
「もしもし、警察ですか?今、目の前に痴漢がいるんですけど。あ、違います。私じゃなくて、もっと若い女の子が被害に……」
四十代前後の女性はスマホで110番通報してくれているらしい。
「……なんだよおっ!」という声と共に、中年男性は私から手を離し、走り去っていった。
はぁ……、はぁ……。
呼吸が荒くなる。
左手で拳を作って心臓に強く押し当てるが、頭の中でぐるぐるとさっきの光景が目まぐるしく再生され、動悸も治まらない。
『減るもんじゃないだろ!!これだから女は!!』
担任の言葉が頭の中で響き渡る。
「ちょっと……、あなた大丈夫!?」
女性のその声を聞いた直後、私はその場で気を失った。
+
「目が覚めた?」
ぼんやりと浮かぶ輪郭が、徐々にはっきりとしてきた。
さっきの女性が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
……私、布団に寝かされてる?
「ここは……?」
「あ、起き上がらなくていいから。ここは私の家なの。私、A田B子」
「あ、高木美織です……」
家の中まで運んでくれたの?
「さっきの男ね、この家の|斜向《はすむ》かいに住んでるの。女の子が通りかかるのを毎日毎日庭から眺めてて。声を掛ける事もあるから、知り合いの若い子達には近付かないように注意してるんだけど。腕掴むくらいじゃここらの警察は動いてくれないしね」
私は今までそんな危ない場所を何度も通ってたっていうの?
「これ、さっき落としてたわよ」
B子さんは、中年男性に腕を捕まれた時に落とした処方箋を渡してくれた。
「貰ってから四日以内なら違う薬局でも処方してくれるから、違う所を探しなさい。もうあの薬局には行かない方がいいわよ」
「……あ、ご迷惑をお掛けして……、私、もうこれで」
「まだ顔色が悪いわよ? もう少し休んでいった方がいいわ」
体を起こそうとする私の肩と背中に軽く触れながら、私が起こしかけた体を再び布団の方へ戻してくれた。
「本当は救急車を呼ぼうかと思ったんだけど、脈も呼吸もしっかりしてたから」
右腕に鈍い痛みを感じ、そちらに視線を向けると包帯が巻かれていた。
「……あの」
「ああ。私、看護師だから、応急処置程度なら。
そこまで酷い怪我じゃなかったけど、一応ね」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そう言いながら、B子さんはにこりと微笑んだ。
+
「ただいまー。え、誰……?」
一体、どれくらい眠ったのだろう
|襖《ふすま》が開く音とほぼ同時に声とが聞こえ、目が覚めた。
私が寝かされている和室に、三十代くらいの女性が入ってきた。
「……あ、お邪魔しています……」
たくさんのピアスに、触覚と襟足以外は刈り上げられた髪に派手な洋服。
何というかこの人、随分パンクなファッションをしているな。
私は再び体を起こそうとしたが、 「あー、駄目駄目!」とB子さんに動きを制御された。
「家の前の道で具合悪そうにしてたのよ。
詳しい事情は後で話す。
もう少し休んでいってもらうから。
……って言っても、もう十一時半ね」
十一時半!?夜の!?
掛け布団を跳ね飛ばし、私は飛び起きた。
「びっくりしたぁ!」
B子さんは目を真ん丸にし、大きく口を開けて、驚きという言葉をそのまま表現している。
「ごめんなさい!私、実家暮らしで。 親に連絡しないと……!」
「あー、そっか。私、今から夜勤行かなきゃだから、C子、お願いできる?」
「……ん、分かった」
C子さんと呼ばれた女性は興味がないように返事をしたが、それを確認したB子さんは 「じゃあ、お願いね」 と言い、玄関を施錠して仕事に向かった。
C子さんは、「家に連絡してくれる? 私からも親御さんに説明するから」 と言いながら、私の枕元に置いてある鞄を指差した。
「はい」
私は布団から出て中腰で畳の上に移動し、鞄から急いでスマホを取り出した。
着信履歴が三十件
全て自宅からだ。
通話ボタンをタップし、四コール目で自宅に繋がった。
『今までどこに行ってたの!?何度も掛けたのよ!?』
怒っているような、呆れているような母親の声。
私は簡潔に今日の出来事を話した。
私からスマホを受け取ったC子さんも、母親に説明をしてくれていた。
あ。C子さん、左手の薬指に指輪をしている。
結婚しているのかな?
でも、B子さんと一緒に暮らしているんだよね?
じゃあ付き合っている人からのプレゼントを着けているのかな。
「はい、最後に代わってって」
母親に説明を終えたC子さんが、スマホを渡してきた。
「……もしもし」
『終電ないなら仕方ないけど!もうこんなの、これっきりにしてよ!?明日の午前中には帰ってくるのよ!?』
「……分かった」
通話終了ボタンをタップし、深いため息を吐く。
私、何をやっているんだろう。
治療の為に通院しているのに、またトラウマになるような事に|出会《でくわ》して。
「食べる?コンビニのだけど」
C子さんが、おにぎり二つとペットボトルのお茶を畳の上に置いてくれた。
そういえば、お昼前から何も食べていなかった。
「ありがとうございます」 おにぎりの一つを手に取り、ビニールを剥がしてそれに噛りついた。
エビマヨだ。美味しい。
「さて、私もご飯食べてシャワー浴びて寝るかな。ってか今日は来客が多いな」
そう言いながらC子さんはキッチンの方に向かった。
私はその後ろ姿をぼんやりと目で追いながら、バッグの中に入っている若井先生のストラップの事を考えていた。
++
無い。
鞄に入れていたストラップが、ない。
A子と付き合い出してからも手放す事ができなかった思い出のストラップがない。
どこかで落とした?
そうだ、あの日、美織君にぶつかった時に?
道に落ちてしまったままなのだろうか。
今日の勤務が終わったら、あの日の場所に行って確認してみよう。
その時、A子からのLINEが届いた。
【今日は早く帰れそう? 一緒に晩ご飯食べに行かない?】
いつもなら嬉しいはずのA子の誘いよりも、無くしてしまったストラップの方に天秤が大きく傾いている。
【今日は遅くなりそうなんだ。埋め合わせは今度するからごめん!】
迷う事なくそう返信している自分がいた。
+
部活指導が終わり、校舎の時計を見ると、午後六時を回っていた。
電車を乗り継いで一時間半もあれば昨日のあの場所に着くし、終電にも余裕で間に合う。
そこにストラップがあるのかないのか、一秒でも早く確認したい。
僕は急いで帰り支度をし、駅に向かった。
+
電車の中、彼女達の隣で腕を組んで寝ていたサラリーマンが怪訝そうな顔をしながら横目で女子高生達を睨みつけている。
彼女達の声と、はしゃぐ度に訪れる座席の振動のせいで落ち着いて眠れないのだろう。
「Twitterでfuttenのリングの画像をアップした女の人いるじゃん?どう思う?」
キャッキャッとはしゃぐ彼女達の言葉に顔を上げると、その内の一人と目が合ってしまったので急いで逸らした。
「いや、最低でしょ!futtenあげる方もどうかしてるけど!あ、もう着いたよ」
電車が停車し、女子高生二人は足早に降りていく。
僕は彼女の事を信じていたし、あまりネットにも詳しくないので、深く触れないようにしていた。
だけど、身近で見知らぬ人物達が話題にしているのを|目《ま》の|当《あ》たりにすると、疑念と、知りたいという欲求が沸いてくる。
僕は鞄からスマホを取り出し、検索エンジンに「futten リング 炎上」と打ち込んだ。
……何だ?スマホの画面がおかしい。
文字化けとかそんなレベルではなく、文字かが|渦《うず》を巻くようにぐにゃりと歪んでいる。
スマホが故障したのか?
その時、目的の駅に着くというアナウンスが聞こえてきた。
え?もう着いた?
さっき女子高生が降りた時点で、僕の目的地はあと数駅も先にあったはずなのに。
しかしたしかに目的の駅に到着したようなので、一旦スマホを仕舞い、降車した。
改札にカードをかざして数歩進んだ所で、うるさいほどに賑やかだった周りの雑音が消えた。
「お久し振りですね、若井様」
懐かしいような感覚が全身を駆け巡った。
そこには、店の男性が笑みを浮かべながら立っていた。
「ストラップを無くされたのですね?」
やはり何でもお見通しって訳か。
「そうです。僕は婚約中の彼女からの食事の誘いを断って、昔の彼女との思い出のストラップを捜しに来ました。……別に昔の彼女に未練がある訳じゃなく、いつも肌身離さずに持ち歩いていた物が急になくなった事にモヤモヤして、一刻も早く確認したかっただけなんです」
別にムキになっている訳ではない。
「ストラップはもうあの場所にはありませんよ」
店の男性は無表情でそう言った。
そして、「現在は高木美織様が所持しておられます」と続けた。
やっぱり、あの時に間違って美織君が鞄に入れたのか。
「間違って美織様の鞄に入った訳ではありません」
店の男性はそう言いながら微笑を浮かべた。
「美織様に教えて差し上げたのですよ。身代わりストラップの今の持ち主はあなただと」
意味が分からなかった。
あの日、美織君と再会したのは偶然じゃなかったのか?
「『ぶつかってあなたの荷物を落とし、拾う振りをしてストラップを奪うといい』とアドバイスしたのも私です」
「……美織君も、またあなたの店に呼んだんですか?」
平穏に暮らしているはずの美織君を、何故?
そして美織君もどうしてそんな事を?
「私が呼んだ訳ではありません。 いつだって、お客様が求めた時に私の店が|呼ばれる《・・・・》のです。今、この瞬間も……。ああ、失礼。お掛けになってください。紅茶を用意致しますので」
「紅茶はいりません。教えてください。どうして美織君と僕はまたこの店に|来た《・・》んですか?そして、どうして美織君は僕のストラップを?」
「今の美織様には『恨みの念』が激しく渦巻いています。金満先生が辞職された後も、いろいろ辛い思いをされたようですね」辛い思い……って、彼女は開放されたじゃないか。|公《おおやけ》になって、金満の悪事が暴かれたじゃないか。何より、僕の昔の彼女のように、自ら命を落とさずに済んだじゃないか。
「本当にそうお思いですか?」
店の男性の眼が鋭く光った。
「どういう意味ですか」
僕も負けじと睨み返す。
「過去の傷を薄くする事は可能ですが、完全に背し去る事はできません。壊れて|蝕《むしば》まれた心に生じた歪みからは、とんでもない思想が産まれる場合があるのです」
何を言っているんだ、この店の男は。
「彼女は、金満先生を|殺《あや》めようとしておられます」
……美織君が!?
「金満先生は退職後、しばらくして奥様と離婚されていますが、どうやら偽装離婚だったようですね」
「偽装!?どうして!?」
「奥様はとてもお優しい性格なのか、金満先生に対して情があったようですね。形だけ離婚して、息子達の子供……つまり孫達とも未だに接触させているようです」
「な……!?刑には問われなかったけど、金満がやってた事は立派な性犯罪だぞ?」
「性犯罪を犯した元伴侶と接触するかどうかは奥様の問題で、あなたが決める事ではありません」
それはそうかもしれないけど。
人一人を自殺に追いやった人間が、誰かにそこまで優しくされるなんて、死んでしまった彼女が報われないじゃないか。
「若井様も、私生活でいろいろとお悩みのようですね。交際している女性が、婚約指輪をSNSに悪意のあるコメントと共にアップしたのではないかと疑われているようで?」
店の男性が急に話題を変えたので、すぐに頭の切り替えができなかった。
「……ええ。気にはなっていますよ。すごく」
「彼女に確かめればいいではないですか。 婚約者を疑ったままでは|靄《もや》が晴れないでしょう?」
「怖いんですよ。A子がもしそんな事をする人間だったら……って。これから人生を共にしようっていうのに」
店の男性は、カップに紅茶を注ぎ、ソーサーを添えて僕の前に差し出した。
そして、紅茶を受け取った僕の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「|事実《・・》は一つしかありません。『昔の彼女は金満先生にスクールセクハラを受けていた』し、『昔の彼女はもうこの世にいない』のです」
僕はカップの縁に唇を添えた。
紅茶を飲み干して男性の顔を見上げると、どこか寂しげな表情を浮かべているようにも見えた。
「僕は美織くんの事を分かってあげられてなかったのかな。今も金満の事で苦しんでるなんて思わなかった」
「あの文化祭の時にとどめをさしておくべきでしたね」
僕は店の男性を再び睨み付けた。
「僕が悪いと言いたいんですか?」
「そんな事は申しておりません」
店の男性の口角が僅かに上がっている。
やはり何を考えているのかさっぱり分からない。
……僕に美織君の話を聞いてあげられる権利はあるのかな。
僕は、店の男性の瞳の奥を見つめた。
「それは若井様が決める事です」
美織君と直接合って、僕が金満への復讐を依頼したと打ち明ければ、心を開いてくれるだろうか。
「ご自身で決断されれば良いではないですか。間違えても、どこを間違えたのかをしっかりと考え、同じ過ちを繰り返さないようにして生きていく。それが真っ当な人間というものです。どんな結果になろうと、後悔されぬよう……」
+
目眩を覚えたと思うと、先ほどとは違う駅のホームの椅子に僕は座っていた。
「ちょっと、どうしたの?今日は用事があるって言ってたのに」
声の方に目をやると、電車から降り、僕に気が付いたA子がこちらに近付いてきた。
駅の名前を確認する。
……ここはA子の自宅の最寄り駅か。
「話があるんだ。急で悪いんだけど、時間あるかな?」
まずはA子とあのSNSの投稿が関係しているのかどうかを確かめてみよう。
美織の事も気になるけれど、今は、僕とA子の問題にしっかりと向き合いたいんだ。
+
駅から二十分ほど歩き、人気のない路地に入ると、A子が家族と暮らす一軒家がある。
「どうぞ、上がって」
来客用のスリッパを履き、リビングに通された。
「あら若井君。いらっしゃい」
ソファーにはA子の姉が座っていて、テレビを観ていた。
「来るって言ってくれてたら夕飯用意したのに。今お茶入れるわね」
A子の姉は立ち上がり、キッチンの方に向かった。
「いえ、おかまいなく。夜分にすいません。僕が急にA子さんに会いに来たものですから……」
「あら、ラブラブね」
そう笑いながらヤカンに火を掛けるA子の姉。
「部屋行こうか。私、後でお茶取りにいくから」
二階に続く階段を彼女に続き、上る。
いつも家デートは一人暮らしの僕の部屋だったので、A子の家に来るのは結婚の挨拶に来た以来、二回目。
部屋に入るのは初めてだ。
「お姉ちゃん、今日も夜勤なの。もう遅いし、泊まっていく?」
「いや、それは流石に悪いよ……。僕が確かめたい事があるだけだから」
「うん。じゃあ、確かめたい事って?」
ミニテーブルを挟んで彼女と向き合って座り、僕は切り出した。
Twitterで話題になっているfuttenの指輪の事、 それが彼女の投稿ではないかと心配している事、 もし気に入らなかったのなら一緒に買い直しに行きたいと思っている事を正直に伝えた。
話を聞き終えた彼女は、豆鉄砲をくらった鳩のような顔をしていた。
しばらく放心状態にあっかと思うと、「……この画像を撮ったのは、間違いなく私だよ」と呟いた。
A子に被せるように「じゃあ、気に入らなかったって言うのも?」と続けた。
「ううん、Twitterにその文章をアップしたのは私じゃない」
「え、どういう事?」
じゃあ誰が?
「それ、私だよ」
少し開いていた部屋の隙間から、女性の声が聞こえた。
A子が立ち上がってドアを大きく開けると、彼女の妹のC子が立っていた。
そしてその横には……。
「美織くん!?」
高木美織の姿あった。
+
「つまり、姉が私に『彼氏からプロポーズされた』って送ってきたfuttenのリングの画像を、私がTwitterに勝手にアップしたんです」
無愛想な表情で説明文を読むように語る彼女の妹のC子は、結婚の挨拶で初めて会った時から感情が読み取りにくい。
服装も派手だし、三姉妹の内、何故一人だけがグレてしまったのだろうか。
「どうしてそんな事をしたの?」
僕の代わりに彼女が問いただした。
「なんか面白くなかったから。私は彼氏もいないのにって。あんなに炎上するとは思ってなかったの。ごめん」
目の前で頭を下げる彼女の妹に謝罪の念があるのかどうかは分からないが、SNSへの投稿が彼女のものではなかったという安堵から、C子への怒りはわいてこなかった。
「もうアカウントは削除してあるし、私は気にしないけど。特定まで至らなかったから本当に良かった……。次はないからね!」
そう釘をさす彼女に、妹は無言で頷いた。
「あの、高木美織君……、僕の学校の卒業生なんですけど、妹さんのお友達なんですか?」
美織君はC子の部屋で待っているように言われたので、この部屋にはいない。
「以前にうちの前で発作を起こして倒れてたのを、上の姉が運んだのが切っ掛けで。今は知り合いのカウンセリングに通っています。今日はその付き添いの帰りに寄ってもらっただけで」
「いつも美織君の付き添いを?」
「通りかかった船なんで。美織は一人で外出するのが怖いみたいだから」
この無愛想な妹にそんな人間らしい感情があるのか。
「うちに運ばれた子がいるとは聞いてたけど、まさかあの時ぶつかった時に会った生徒さんだったなんて、すごい偶然だね!」
彼女が僕の方に視線を向ける。
「う、うん」
本当に、出来すぎたような偶然だ。
一連の騒動に納得し、そろそろ帰ろうとタイミングを見計らっている時、開いたドアの外に美織君が立っていた。
「あの、私そろそろ帰らなきゃ……」
「だね。じゃあ、送っていくよ」
C子がそう言いながら腰を上げようとした時、「若井先生は同じ方向ですか?」と美織君が聞いてきた。
「Y駅からU方面?そうだよ」
「私、若井先生と一緒に帰ってもいいですか?」
「久々で積もる話もあるかもしれないもんね。送ってあげて?」
A子が僕達を送り出し、僕は美織君と帰路に着く事になった。
+
美織君は駅まで無言で、ホームに到着すると少しだけほっとしたような表情を見せた。
「座らないの?」
ホームの椅子はガラガラなのに、美織君は座ろうとしない。
「担任の事があってから強迫性障害にもなっちゃって、ホームの椅子とか、公共の物にあまり触れたくないんです」
「そうなんだ……」
「あ。電車の座席には座りますよ。気を張って外を歩いて、電車の中でもずっと立ってるのしんどいし」
「……僕にできる事があったら言ってほしい。力になるから」
命を無くしてしまってからでは遅いから。
人気のないホーム。
次の電車が来るまでまだ十数分ある。
「私、先生にこれを渡したくて」
美織くんが鞄から出したのは、あのストラップだった。
よかった。
美織くんは、まだこのストラップを誰かに渡していなかった。
僕は美織君の嘘を|咎《とが》めたりはしない。
ストラップを受け取り、「そうだったんだ。わざわざありがとう」と言いながら、自分の鞄の底に仕舞った。
もう絶対に無くさないように、部屋の机の引き出しの奥に仕舞っておこう。
「……あの時笑ってたのに、どうして今さら『力になりたい』とか言うんですか?」
「え?何?」
あの時って何だ?
「私が美術室で担任に触られてるのを見て、若井先生、扉の向こうで笑ってたじゃないですか。その後に若井先生が扉を開けたから担任は私から離れたけど、先生、担任が私を触ってるのを黙って見てましたよね?」
「………………」
もしかしたら、笑っていたのかもしれない。
金満に復讐できる理由と証拠を見つけて。
自然と顔がゆるんで、ニヤけてしまったのかもしれない。
「……理由があるんだ」
一から説明するべきだろうか。
あの宝飾店との出会いから。
いや、僕と、死んでしまった彼女との出会いから?
……そうだ!
ストラップを床に叩き付けているの金満の姿を教室の外から見た時、我慢できなくなった僕は教室の扉を開けようとしたじゃないか!
だけど扉の先は教室ではなく廊下で、教室から走ってきた美織君とぶつかりそうになったんだった。
あの店の男性が邪魔しなければ、僕は……。
「ちゃんと説明するよ。気付いてないだろうけど、僕は君を助けようとしたんだ」
「聞きたくありません。若井先生は『助けてくれなかった』、それだけです」
減速した電車がホームにゆっくりと入ってきた。
「そのストラップ、若井先生はもう|使った《・・・》んですか?」
僕に背中を向けた美織君が、電車の方を見ながら呟いた。
『使う』とは、本来のストラップのようにケータイに着けるという意味ではなく、『不思議な宝飾店が目の前に現れ、誰かに復讐をした事があるのか』という意味だろう。
「……あるよ。僕もあの宝飾店に行った事があるんだ。だから聞いてほしい。実は」
言い掛けた僕を置いて、美織君は停車した電車の扉の中に入っていった。
「待ってくれ!」
それを追うように、僕も閉まりかけた扉の中に飛び乗った
乗客はまばらだが、周りの視線が僕の方に集中する。
即座に平静を装い、美織君の隣に座った。
美織君は話を続ける。
「……見ていたクラスメイト達は、 『担任と二人でふざけてるだけだと思ってた』、『私の方がもっと怖い目に遭った事がある』、『助けたら私が同じ目に遭うと思ったから』、『あんなに体の大きい男の先生に標的にされたら怖いじゃん』、『逆に私達の事は心配してくれないの?』って。見ていないクラスメイト達は 『は?そんなの嘘でしょ?』、『うーん……、信じてあげたいけど。でもね……』、『どうして誰かに相談しなかったの?』 って。母親は『おじさんは若い女の子に触りたいものだからね』って一言。父親は知らん顔だった。あの時、誰か一人でも周りに気持ちを分かってくれる人がいてくれたらよかったのにって。私、自分勝手ですか?」
「そんな事は……。亜紀君は? 仲が良かったはずだろ?」
僕の話を聞いてほしいのに、美織君は自分の話を止めようとしない。
「初めは治療を応援してくれてました。でもいつまでも良くならない私を見て、『いつまでも昔の事を!』、 『元の美織に戻ってよ!』って会う度に何度も何度も怒鳴るから、亜紀とはもう連絡を断ちました。亜紀の気持ちも分かる……けど、一番早く治したいのは私自身なのに……!」
胸の辺りを押さえ、徐々に呼吸が荒くなる美織君を呆然と見つめたまま、僕は何もできなかった。
「やっぱり発作が起こっちゃったか」
隣の車両からC子が歩いてきたかと思うと、美織君の隣に座り、肩を抱き寄せて背中をさすり始めた。
奇抜な髪型や露出の多い服装も相まって、周りの男達はC子の足を、女性達は髪を、舐め回すように見ている。
「着いてきて正解だったね。やっぱり若井先生、あんたじゃ無理だ」
C子は僕の方に一瞬を向けた冷ややかな視線を、すぐに美織君の方に戻した。
無理ってなんだよ。
お前みたいな尻が軽そうな女に、俺の何が分かるんだよ。
僕の存在を無視して、二人は目的の駅で降りていった。
+
「送ってくれてありがとうございました」
私はC子さんにお礼を言い、頭を下げた。
「大丈夫そう?まだ動悸とかする?」
「ううん、もう大丈夫です」
「……そう。じゃあもう行くね」
C子さんは私が家の扉を開けるのを確認して、再び駅の方に戻っていった。
扉を閉め、すぐに施錠をした時、「帰ってたの?」という母親の声が聞こえてきた。
「ただいま……」
母親は頬に片手をあて、不満気な表情でこちらを見ている。
「はぁ……。またカウンセリング?カウンセリング代も馬鹿にならないんだから、もうやめたら?結局は、あなたの心の持ち方の問題でしょ?それより家に入れるお金を増やしてちょうだい。それでなくてもバイトで稼ぎが悪いんだから!あー、もったいないもっいない!」
父親はソファーに座り、背中を向けている。
私は無言で階段を上り、自室へと向かった。
自室の扉を開けると、そこにはあの宝飾店が広がっていた。
「せっかくまたあのストラップが手に入ったというのに、使わなかったのですね」
店の男性が眉を少し下げ、少しだけ口角を上げながらそう言った。
「……使い道が分からなかったっていうのもあります。あのストラップを若井先生から盗んだら、普段私自身が感じてる不安とはまた別の感情が芽生えたんです。前の持ち主、若井先生の感情を私が感じてるという事……。若井先生も、悩みがあるから今あのストラップを持ってるんですよね?」
アンティーク調の椅子に腰掛け、店の男性がカップに紅茶を注ぐのを眺めながら呟いた。
店の男性は質問には答えず、紅茶の入ったカップをソーサーに乗せ、私に手渡した。
私はカップの縁に口を付けて紅茶を口に含んだ。
「担任の家族はいつまでも担任の味方で。悔しいんです」
カップを持つ手が無意識に震え、底の部分がソーサーに触れてカタカタと鳴る。
「金満先生があなたにした酷い数々の事をご家族が知らなかったように、ご家族しか知らない金満先生の良い所もあるでしょうからね。長く一緒に暮らしてきた家族なら尚更です」
「でも私は担任を許した訳じゃありません。この先手を下す事はないけれど、一生恨み続けます」
私は残りの紅茶を一気に流し込み、店の男性の顔を見上げた。
「このお店に、心の病気を治すジュエリーってあるんですか?」
私はキラキラと輝く店内をぐるりと見渡した。
「ええ。ありますよ。お試しになりますか?」
「そっか。やっぱりあるんだ…………。でも、やめておきます」
「そうですか。それは残念です」
私は、空になったカップを両手で|弄《もてあそ》ぶ。
「私の病気はいつ治るか分からない。……治らないかもしれない。でももう、いつまでもこのお店のジュエリーに頼ってちゃいけない気がするんです」
「賢明な選択ですね」
店の男性は微かに微笑んだ。
「……あの時、背中を押してくれてありがとう」
『誰も助けてくれないのなら、誰も巻き込みたくないのなら、あなたが正しいと思う方法で戦いなさい。 例え、自分の望む結果が得られなかったとしても』
「あなたがこのお店に呼んでくれてなかったら、私、ずっと我慢してたと思います。あなたがあの言葉を掛けてくれたから、私は戦おうと思えた。……望む結果は得られなかったけど、あの時の私の決断は最善だったって、今も心からそう信じています」
「それは何よりです。……それでは、もうお会いする事はないでしょう。美織様のご病気が、一日でも早く回復するよう、願っております」
店の男性が右手を自身の胸に当て、お辞儀をした。
溢れてきた涙で視界が歪んだ次の瞬間、私は自室のベッドに腰掛けていた。
そして引き寄せたクッションに顔を|埋《うず》め、声を押し殺しながら泣き続けた。
++ 「SNSの使い方、本当にこれからは気を付けてよ。次に何かあったら私、もう庇いきれないから」
私は、姉のA子に対してそう言い放った。
「この前は助かったぁー!C子、むっちゃ気転がきくじゃん!ツイートも、まさかあんなに炎上するとは思ってなかったからさー」
姉は悪びれる事なく、歯と歯茎を見せて笑っている。
「若井君は、完全にC子がTwitterにリングの写真を乗せたって信じてる訳ね?」
長女のB子が、盆に乗せたお茶と煎餅を台所から運びながら聞いてきた。
Twitterにあの投稿をアップしたのは紛れもなく、A子本人なのだ。
でもあの時、咄嗟に『実は私がやった』と、嘘を吐いた。
昔から姉の尻拭いをするのには慣れている。
「ああ、彼ね。最近ヤバイんだ。何か、鬱っぽいって言うか。あと『ストラップを捨てたい』とか、『ずっと待ってるのにあの店が現れない』とか『僕はちゃんと助けようとしたのに……』とか、ブツブツ言うようになっちゃって。どういう事だろうね?」
そう言いながら煎餅をぼりぼりと頬張るA子。
「さあ。そんなの私が知る訳ないじゃない」
私は呆れながら返した。
……前のストラップ持ち主、つまり高木美織の感情を、現在の持ち主の若井が感じているという事。
そこに美織は気付いていなかったのだ。
若井のような男に、美織が抱えているものと同等の苦しみに耐えられる訳がない。
「鬱になったら仕事行けなくなるかもしれないじゃん。まだ籍入れてないんだから、ちゃんと考えた方がいいよ」
B子がA子に助言すると、「だよね。せっかく食いっぱぐれのない真面目な公務員をゲットしたっていうのに、ヒモとか……。もしかして犯罪者になられたら私の人生終わりだもん」と返ってきた。
「ていうか、C子、あんた左手薬指にはめてたリングは?また別れたの?」
A子が私に呆れた口調で聞いてきた。
「はぁ……、もう、うるさいなあ。私の勝手じゃん」
「合コンに連れてってあげようか?私も若井さんと別れて次の男を見つけなくちゃ。このくっそダサいfuttenのリング、いくらで売れるかな?」
右手にスマホ、左手に煎餅を握りしめたA子がモルカリのアプリを開きながら言った。
私はお喋りを続けている姉達二人を適当にあしらい、階段を上がって自室へと入った。
++
大学生の時、バイト先の学習塾で若井と出会った。
私が大学三年生、若井が大学1年生の時だった。
お互いに共通の趣味を持っていた若井に連絡先を聞かれて交換し、頻繁にメールをするようになった。
その年の12月初旬、若井から 『車を出すからドライブに行きませんか? 誕生日祝いますよ』 とメールがきた。
私は浮かれていた。
恋心かどうかは分からないが、若井に対して少なからず好意を持っていたからだ。
約束の前の日には何を来ていこうか、姿見の中の自分を見つめながら悩んだ。
しかし当日、待ち合わせ場所に若井は現れなかった。
メールをしても一向に返信が来ない。
いつもとは違う路線を使って待ち合わせ場所に来ていたのだが、仕方なく帰路に着く事にした。
乗り込んだ電車の向かい側の席には、紺のダウンジャケットに黒いズボン、延びかけのボサボサの髪、大きなスポーツバッグを横に置いた三十代前半くらいのオタク風の男性が座っていた。
もうすぐ自宅の最寄り駅に着く。
最寄りと言っても、いつも使っている駅よりも自宅までは遠く、二十分は歩かないといけない。
駅に到着し電車を降りると、ダウンジャケットのオタク風の男性も後ろにいた。
+
……おかしい。
かれこれ十分ほど歩いている。
男性の歩幅ならばすぐに私を追い抜いていてもおかしくはないのに、一向に後ろにいる男性との距離が縮まらない。
偶然だろうか?
後ろを振り向いた方がいい?
その時、私の鞄の中のケータイが振動した。
着信らしく、ケータイを取り出そうとした瞬間、『ダダダタダ!』と、勢いよく地面を蹴る音が一瞬で背後に近付き抱きついてきた。
+
バイト先には泣きながら電話で事情を説明し、その日は休みを貰った。
二週間が経って、警察に被害届けを出した。
警察には「短いスカートを掃いてるから被害に遭うんでしょう?」と言われた。
二週間ほど引きこもり、バイトに復帰した時には若井はバイトを辞めていた。
後に、同じバイト先の若井の悪友から聞き出した真相はこうだった。
+
当時ネットが普及し、流行し始めたばかりの動画サイトで『バイト先の女を騙して、何時間待っているか掛けよう』と男性の知り合いの一人が持ちかけ、若井がその話に乗った。
私が待ち合わせ場所で待っていたのは二時間、その様子を離れた所から動画配信の為に録画していたらしい。
若井の悪友達は、私が一人で帰るところを家に着くまでにこっそりと録画しようとしていたが、途中で痴漢に襲われるという場面に|出会《でくわ》し、慌てて逃げたしたという。
「見てたなら、どうして助けてくれなかったの!!」と泣きながら訴えた私に、若井の悪友は、「だって、刺されたりしたら嫌じゃん」と平然と答えた。
当時、仲良くしていた友人にメールで相談すると、『痴漢とかそんなの私も遭った事あるよ』と返ってきた。
私はバイトを辞めた。
昼の15時半に被害に遭ったのだが、「短いスカートを履いて夜中に出歩いてたらしいわよ。自業自得よね」などと、バイト先の人達が噂を始めたので居づらくなってしまったから。
若井は教育実習で忙しくなるからという理由で辞めたらしい。
短いスカートを履いたのは、自分が履きたかったから。
そして、若井にもお洒落をした自分を見てほしかったから。
決して他の男に襲われる為じゃない。
私は、襟足と僅かな触覚を残してバリカンで頭を刈り上げた。
『受けた被害が大したものではない』と思い込む為に、たくさんの男と付き合った。
以前の自分を捨てる為に整形もした。
何年もそんな生活を続けていた私の前に、あの不思議な宝飾店は現れた。
「復讐したいお相手がいるのでしょう? どうか私にそのお手伝いをさせて頂けませんか?」
店の男性はそう言った。
そして『縁を取り持つティアラ』という商品を渡された。
初めは半信半疑だったが、しばらく経ってから、姉が若井を婚約者だと言って家に挨拶をしに来た時に、あの宝飾店の商品の力はきっと本物なのだろうと悟った。
顔を変えた私が、あの時のバイト先にいた、動画で晒し者にしようとしていた女だと、若井は気付いていなかった。
一見爽やかに見える若井の本性を、私は知っている。
それからは、恐ろしいほどスムーズに事が運んだ。
若井が挨拶に来たのと同じ日に、高木美織という女性が家の前で倒れているのを姉のB子が保護したり、様々な『縁』が重なった結果、若井を破滅に追いやる事ができた。スクールセクハラで心に傷を負って治療をしている美織と、若井にどういう『縁』があったのかは分からないが。
もしかしたら、美織が担任教師から受けていたスクールセクハラと若井が繋がっているのかもしれない。
私が把握している事実は、全知全能の神からすれば、ほんの一部に過ぎないのだろう。
利用する形になってしまったが、私は美織に出会えて良かったと思っている。
中学生の頃に、担任からのスクールセクハラを受けていたと打ち明けてくれた美織。
|自分《私》とは真逆に見えて、実は内面が似ている気がする。
私にそんな権利があるのかどうかは分からないが、美織にはいつか、心から笑える日が訪れてほしいと、そう思っている。
はじめアキラ
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swingout777
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沙里央
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コメント
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なんかもう、全てが絡み合っててやるせない気持ちになったわ……。若井先生、あの時美織さんを助けようとしたっていうのは事実なんだろうけど、結果的に笑ってたって見えちゃった時点でもうどうしようもなかったんだなって。それにC子さん(旧バイトの子)の過去も壮絶すぎる……。そりゃあ若井先生を恨むよね。短いスカートが悪いわけないのに。 それでも美織さんが「もうお店のジュエリーに頼らない」って決めたのはちゃんと成長しててグッときた。自分の足で立ち直ろうとしてるんだなって。C子さんが美織さんを思う気持ちも切なくて、なんかもう色々考えさせられる話だったわ……。沙里央さん、人間の複雑な感情をすごくしっかり描いてくれますね。読み応えありました!