第1話:ネフリオの海底劇場
夜の浮島〈フロムロス〉では、泡が静かに浮かび上がっていた。空中劇場《ネフリオ》の上映時間が近づくと、都市の上空に吊られた半透明の膜がふわりと広がる。観客は座らない。ただ気流の中に立ち、風の揺らぎに合わせて泡映像を感じ取るのが礼儀だ。
泡は触れればはじけ、視れば消える。映像とは、“忘れるための芸術”。
その夜、少年エルドは風に逆らいながらも劇場へと浮かんだ。
彼の髪は銀白、ふわりと舞う綿毛のように軽く、瞳は気泡を溶かすような灰緑色。透き通った衣服は「ソラー社」製──光の粒子を音に変換する軽装で、気流の響きに共鳴する者だけが着こなせるとされる。
上映が始まると、泡の中から「何か」が映し出された。水の音。流れる砂。濡れた生物。揺れる緑色の帯。すべてが**“下にしかないもの”**。
——海。
泡ははじけ、記憶もまた、はじけるはずだった。
だが、エルドの中には残ってしまった。
「沈む世界」の、色。音。温度。感触のような何か。
「どうして、残ってるんだ……?」
エルドはひとりつぶやいた。
泡映像は通常、視聴後10秒で記憶から消去される仕組みだ。
それが残っているのは、バグか、それとも──。
翌日。彼は学校《エアロハード区立浮遊教育棟》に行かなかった。
教師たちは重さのある言葉を嫌う。「気持ちを語るのは未成熟」と教え込む社会では、浮いていること=完成された存在とされる。浮けない者は、心が“沈んでいる”と見なされ、矯正室に送られることもあった。
エルドは“泡がはじけなかった”ことを誰にも言えず、《星数えの丘》へ向かった。
そこは夜になると、天球の民が星を背負って集まる場所。
星は“未完の夢”。数えることは「この世界にまだ未練がある者」を確認する祈り。
月は“記録の目”。今夜は満月。忘れられなかった想いが最も近くにある日だった。
彼はかつて祖父から聞いた伝承を思い出す。
> 「海に触れれば、天の民は溶けて消える。
だが“誰か”は、それを願った。
溶けることこそ、生きることだったのかもしれない。」
《ネフリオ》の泡生成装置は、かつて「ネトリックフス」という地球語の装置から再構成されたものとされていた。
だがその語源はもはや祀られた紋章でしかなく、「泡=祝福」の意味に再解釈されていた。
そして夜明け。
誰もいない浮島の縁から、滑空具グライディスを広げた少年の姿が風に溶けた。
彼の背にあった装置は、“ソラー社製の風圧変換ユニット”。
誰よりも軽く、誰よりも深く——彼は空の下へ向かっていた。
残されたのはひとつ、
消えない泡だった。
その泡には、かすかにこう記されていた。
> 「忘れたくないなら、落ちるしかない。」
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