空が徐々に光に包まれていく。
一つの星が輝いた。明けの明星である。
「………………」
土が被さるような音が静かな朝に響き渡る。
俺は空を仰ぎ、朝日の光に染まっていく光景を見ながら山を下りていた。
妖狐様────太宰から貰った青い宝石の首飾りを見る。
「………綺麗」
ポツリと俺は呟いた。首飾りをギュッと握りしめる。
昨晩の記憶が、煌めいて脳に溢れ出した。
──────君の赫い髪に良く似合う。
「っ……」
あんな事を云われたのは初めてだ。
この異端な赫色の髪をしているから、『不気味な子────赫なんて鬼のようだわ』と、母親にまで気味悪がられていたと云うのに。
重い空気を吸って、吐き出す事ができずに肺に溜まっていくかのように、躰が重く感じる。
然し俺は太宰の笑顔を思い出し、自然と口元が緩んだ。
首飾りは朝日を反射して輝いた。
「──────中也?」
刹那、知った声が耳に響く。
俺は顔を上げた。
村の入口に、近所に住んでいたおじさんと其の友達。そして母さんが居た。
「母さん!」
何故か心の何処かで安堵し、俺は母さんの元へ走り出す。
「………中也………………なの…?」
母さんは目を見開いて瞬きをしながら、口先からこぼすように俺の名を呟いた。
「母さん、俺────」
「何で戻って来たのッ!?」
其の言葉が、酷く耳に響いた。
「えっ……?」
思わず声をもらす。足が止まった。
何処か境界線が引かれたように、地面が割れてしまったかのように、俺と母さん達の間にナニか切れ目が起こり、俺を引き離す。
「ぇ…何でって………だざ────妖狐様が帰れって云って……」
「なっ!?“また”贄の儀式が失敗したと云うのかッ!?」
おじさんが声を張った。
俺は訳が判らず、声をもらし目を見開きながらおじさん達を見る。
「縛って箱に入れたのではなかったのか!?」
「嗚呼!確かに入れたさ!」
「なら何故、あの子は此処に居るのッ!?」
母さん達は俺に視線を向けた。
其れは自分達の疑問を解く為のものであり、そして俺に向けたその視線は、人間を見る目では無かった。
俺は自分の手首を見る。
縛られていた時に感じていた痛みも、皮膚の赤みも、元から無かったかのように、キレイだった。
「な……縄は…妖狐様が解いてくれ、て……」
そう云った瞬間、母さん達の顔色がサァっと白くなる。
「妖狐様に触れたと云うの!?」
「ぇ……あ、嗚呼」
俺は一歩後ろに下がって云った。何処か声が震えているのを感じる。
「っ……そ、んな……」
そして俺の言葉を聞いて、母さんは両手で顔を覆いながら倒れそうになった。
おじさんが母さんを支える。
母さんに駆け寄ろうと、俺は数歩前に出た。
「母さ────」
「来ないでッ!!」
足の動きを止める。
母さんは化け物でも見るかのような目で、俺を見た。
何処か母さんの躰が震えている。
其れは恐怖だった。────母さんは俺に対して恐怖を感じているのだ。
「きっとナニか悪いモノに───そうよ!鬼に憑かれているのよ!」
其の言葉に、近くに居た男が側に在った長い棒を俺に向ける。
「ソレだ!妖狐様に────人外に触れて平気な筈がないっ!!」
“人外”。
其の言葉が、妙に耳奥で引っ掛かった。
「太宰は───妖狐様は人外じゃねェッ!俺達と同じだ!人間と少しも変わらねェ!!」
俺は声を荒げて母さん達に云う。
然し母さん達の表情はますます強張り、恐怖に変わった。
「妖怪を庇うと云うのか中也!否、人間の皮を被った悪鬼め!!」
そう云って、おじさんは棒で勢い良く俺の腹部を突いた。
「かはっ……!」
棒で突かれた勢いで、俺は後ろに生えていた桃の木にぶつかる。
──────ドンッ!!
おじさんが、まるで俺を逃さなくするかのように、再び腹部を長い棒で押し付けた。
呼吸がしずらくなる。
「ゔ……っ…」
俺は如何にか手を動かし、棒を掴んだ。
「っ!」
其れに気付いたおじさんは、俺の動きを止めるかのように、今度は近くから思い切り突く。
「ぐっ…!」
手が地面に付いた。
「如何する!?神官をお呼びするか!?」
「いいえ!其れよりも婆様をッ!」
「時間がないだろう!?一刻も疾く、この化け物を消さなければっ……!」
俺は喘鳴に近い呼吸音を響かせながら、如何にか息を吸う。
「ッ─ゥ゙──カ、ヒュッ────ヒュ──ハッ──ハァ」
視界が黒に侵食されていき、意識が朦朧(モウロウ)とする。
何も考えられない。
五感。そして躰を動かすと云う感覚が、消え失せていった。
「か……ぁ、さ…」
「黙れッ!!!」
俺の声を遮るように、おじさんは声を荒げると、今度は横腹を棒で叩きつける。
「っ゙!」
視界に入る光景が一回転し、まるで横に素早く移動しているかのように母さん達が見えて、少し湿った地面に俺は倒れ込んだ。
「は……っ、はぁ………はっ………」
痛い。
何でこンな事すンだよ、おじさん。
ずっと、俺の事を家族みたいって云ってたのに。
嘘だったのか……?
奥歯が何故かガタガタと震える。歯が重なり合う音が脳に響いた。
母さんに視線を移す。
「ひっ……!」
まるで見られた事に対して恐怖を感じたような表情になり、見るなとでも云うような目で俺を睨んだ。
「ねぇっ!疾くこの化け物を如何にかしましょう!?何を仕出かすか判らないわッ!」
そう云って、母さんはおじさんに縋り付く。
化け物……?
俺が?
何云ってンだよ、俺は…………ちゃんと母さんの腹から産まれただろ?
母さんが、俺を産んで呉れたンだろ?
なのに何で………
何でそンな事云うンだよ?
「然し婆様も神官も居な────そうだ!火だ!火を用意しろッ!!」
おじさんがそう云うと、側に居たおじさんの友達が持っていた火を此方に向けた。
「火で弔えば我々の村に厄災は降り掛からない筈だ!」
「そうだ!疾く燃やすんだッ!!」
「この化け物を村から消滅させろ!!」
「動かない今が好機(チャンス)だ!」
そう云って、おじさん達は俺に松明(タイマツ)に付いた火を向ける。
「ッや………止めっ─────」
バチッと音を立てて火種が跳ね、頬に当たるとジュッと何か燃えるような音が響いて、一瞬の鋭い痛みが頬に宿った。
「い゙ッ!」
反射的に瞼を閉じる。
焦げたような臭いが鼻腔を彷徨った。
熱い………痛い…ッ………。
何で俺が、こんな風になンなきゃならねェ…?
そんな悪い事を、俺は何時した?
贄として村を出る時だって皆の為に────
「____…」
俺は目を見開いた。
眼の前で繰り広げられる全ての動作が、スローモーションのようにゆっくりになる。
皆の為……?
俺は、そんな大層な大儀を持ってたか?
……いいや、持ってねェだろ。
なら何故、俺は贄になる事に対して反抗しなかった?
嗚呼、そうか──────────。
***
『中也が贄にッ?』
扉の先で、母さんがおじさんや村の人達と話をしていた。
俺の村には、俺が産まれる何百年も前から“人身御供”と云う儀式があるのだと云う。
十年に一度、この山に棲む【妖狐様】に生贄を捧げるのだ。
そうやって贄を捧げる事で、妖狐様は俺達に富と幸を与え続けてくれるらしい。
だからこそ、俺も含めて村の子供達は〔贄になる事は選ばれし人間だけ、とても特別で素晴らしい役目なんですよ〕と、母親や大人達に教えられていた。
そして────────今回は俺だ。
「…………………」
しては駄目だと判っていながら、俺は母さん達の会話を盗み聞きしていた。
『でも、また失敗したらッ……』
『大丈夫だ!失敗はしない!』
『其の通りだ。子供でも大人でも簡単には解けぬ特別な縄を御婆様から頂いた』
『本当?それなら……っ!』
『嗚呼!今度こそ妖狐様は贄を――――』
『――――――――――ッ――――!』
『――――――――』
『―――――――――――』
壁に背中を持たれ、膝を曲げて脚を抱える。
「……………」
只、何も考えずに俺は会話を聞いていた。
『兄ちゃん?』
目が覚めたのか、弟が布団から起き上がって俺に近付いて来る。
「悪ぃ、起こしたか?」
苦笑しながら俺は云って、弟の傍に寄った。
『ううん、だいじょうぶ………』
小さく首を振って、弟は温もりを求めるかのように俺に抱き着いた。
俺は息をふっと吐いて、弟を抱き締める。
弟は、まだ五歳の子供であった。
然し十年に一度の儀式ならば、俺が今回生贄になれば次の贄の儀式は今から十年後────詰まり弟が十五歳の頃。
贄にされる心配はない。
『ママ、どこ行ったの……?』
「今外でおじさん達と大事な話してンだ」そう云いながら、俺は弟の頭を撫でる。「一緒に待ってような」
『うん』
弟はそう云って、俺に抱き着いたまま瞼を閉じた。
「____…」
黒髪が目に入る。幼児な所為か、弟はとても温かかった。
はっきり云うと、俺と弟は少しも似ていない。
けれど、確実に俺と弟は兄弟だ。
俺は────母さんとも死んだ父さんとも、弟とも、誰にも似ていない。
でも、似ていないだけ。
皆きっと俺を愛してくれている。愛している。
そう思っていた。
俺は、愛が知りたかった。
愛されると云うのは何なのか。
愛すると云うのは何なのか。
ソレを──────俺はずっと知りたかった。
母さん達が愛してくれていると、俺は思ってた。
だって、そう云ってたから。
俺の事を褒めてくれたから。
でも、矢っ張り何かが違った。
同じ人間でありながらも、何かが違った。
この髪色の所為かもしれねェ。
若しかしたら只の勘違いかもしれねェ。
でも、何かが違う。
あの心境と感覚が『愛する』に当て嵌まるのならば、
俺は母さんを、弟を、死んだ父さんを、おじさんを、
愛して居たンだと思う。
だって、あの時俺が安堵したのは、母さんを愛していたから。
でも、何処かで必ず────俺は世界全てから切り離される瞬間が在った。
自分が別物であるかのような、
人間ではないような、
そんな感覚。
きっと俺は、其の感覚を、
其の感覚に陥る度に感じる恐怖と、
自分が人間では無いのかもしれないと云う考えに、夜な夜な起こされ発狂しかける事に、
飽き飽きしていたンだ。
だから俺は、そうならないように、
贄として選ばれた事に何の負い目も感じず、
────────遠くに行こうとした。
俺は妖狐様の存在に半信半疑で、だからこそ誰も居ない山奥で消えようと思った。
でも、妖狐様はちゃんと其処に居た。
──────それじゃあ中也、君にコレをあげるよ。
──────君の赫い髪に良く似合う。
あんな事を云われたのは、本当に初めてだった。
***
松明が、ゆっくりと降りてくる。
先程見ていたのは走馬灯っつう奴か?
判らねェな。
──────中也。
太宰の声が、耳に響いた。
記憶の欠片である。
「____…」
俺は遠くに行きたかった。
一人でも良いから、消えたかった。
愛して欲しい。愛したい。
そう思って居ながら、俺は遠くに行った。
「…………ッ……」
──────そンなのもう、愛してねェのと一緒じゃねェか……。
松明の炎が、視界を覆おうとする。
然し真っ暗な暗闇に、俺は包まれていた。
「ッ………」
けれどそんな暗闇の中でも、
まるで何かを導くかのような一筋の煌めく光が、明けの明星のように奥の方で輝いている。
ゆっくりと手を伸ばした。
「────太宰ッ……」
其の光に何かを期待し、震える声で俺は名を呼ぶ。
────青色の宝石の首飾りが、ほのかに光った。
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