テラーノベル
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詩乃が自分の部屋に行ってしまった後、俺は大きなため息をついた。
彼女が言っていた「分かっている」の意味も気になるが、それ以上に、彼女の笑顔がぎこちなく見えたことの方が気になっていた。詩乃は、気にしていないと言っていたけれど、きっと嘘だ。
「詩乃に触られて嫌だったわけじゃないんだよな……」
咄嗟に取ってしまった自分の行動が悔やまれてならない。俺はもう一度深いため息をつきながら、柚乃が用意しておいてくれていたスリッパにのろのろと足を入れた。
帰る時までには、詩乃にもう一度、さっきのことを説明したい。どういうタイミングで伝えようかと真剣に考えながら廊下を進み、リビングのドアを開けて中に入った。
柚乃はキッチンにいた。俺を見るなり、カウンター越しに怪訝な顔を見せる。
「あれ?詩乃は?」
「あぁ、えぇと……」
俺は口ごもった。ドアを後ろ手で閉めながら、詩乃の言葉を伝える。
「部屋に行ってるってさ」
「部屋に?どうして?」
「邪魔すると悪いから、だって」
「邪魔って、何の?」
「勉強の、だろ。柚乃、言ってたじゃないか。レポートがどうのこうのって」
俺はぶっきらぼうに柚乃の質問に答えた。彼女の視線につかまらないように、わずかに目を伏せながら、ソファに腰を下ろす。
詩乃が言った、勉強の邪魔云々は嘘ではないだろう。けれど、彼女が自分の部屋へ行ってしまったのは、やっぱり本当は、俺が彼女の手を振り払ってしまったことが原因のように思えてならなかった。
小さなそのアクシデントのことを、柚乃には知られたくなかった。知られたら、絶対に責められる。何しろ柚乃ときたら、詩乃のこととなると、過保護力全開になってしまうのだから。
柚乃はキッチンから出てきて、ソファに座る俺の目の前に立った。
腰に手を当てて俺をにらみつけているところを見ると、俺が言おうとしない何かは詩乃にとって良くないことだと察したのかもしれない。
「詩乃に何したの?」
「何もしてないよ」
柚乃の強い視線に気圧されて、俺は目を泳がせた。
彼女は俺の動揺を見逃さなかった。俺を見下ろしたまま問い質す。
「何もしていないんなら、どうしてそんなにおどおどしてるのよ」
「べ、別に、おどおどなんてしてないよ……」
柚乃は眉間にしわを寄せて、俺の顔をのぞき込む。
「ほら、何をしたのか、さっさと白状しなさいよ。詩乃を傷つけるようなことでも言ったの?もしそうなら、許さないわよ」
俺が詩乃を傷つけるような真似をするわけがない、と大声で反論しかけたが、思い直す。
あの時の詩乃は、怯えた顔をしたように見えた。俺の行動は彼女を驚かせただけでなく、もしかしたら、怖がらせてしまった可能性もある。何が何でも今日のうちに、詩乃の誤解を解かなければ、絶対にまずい。
焦っている俺に、柚乃は苛立ちをにじませた声で返事を急かす。
「碧斗、早く言いなさいったら」
柚乃は俺を追及する手を緩めるつもりはなさそうだ。
とうとう観念した俺は、肩を落としながらぼそぼそとした声で言う。
「別に何かしたってわけじゃないんだ。ただ、つい、さ……」
「つい、何?」
柚乃は俺の言葉尻を捉えて繰り返し、話の続きを待つ。
「詩乃に額を触られそうになって、手を払いのけてしまっただけでさ」
「手を払いのける?」
訊き返されてさらに落ち着きを失くした俺は、彼女から目線を逸らす。
「えぇと、色々あって、互いに頭がぶつかって、それで心配してくれたんだと思うけど、急に触られてびっくりしただけで、別にそれが嫌だったとかじゃないんだ。でも、詩乃のこと、すごく驚かせてしまったみたいで。いや、下手をしたら、怖がらせてしまった可能性も……。詩乃は気にしていない、分かってるとか言って笑っていたけど、もしかしたら、俺とは一緒にいたくないと思って、自分の部屋に行ってしまったのかも、とか考えたりして……」
柚乃はふっと笑い、呆れ声で言う。
「突っ込みたいところが色々あるなぁ。額に触れられた?そんなのなんてことないでしょ。子どもの頃なんかには、それ以上にみんなでじゃれ合ってたじゃない。詩乃にちょっと触れられたからって、今さらそんなに恥ずかしがらなくたっていいでしょうよ」
俺は柚乃にむっとした顔を向ける。
「それは、子どもの頃の話であって、今の俺は……」
詩乃の近くにいるだけでどきどきして、だめなんだよ――。
うっかり口に出しかけて、慌てて口をつぐんだ。柚乃は俺の気持ちを知っているが、詩乃とそっくりな容姿の彼女を前にして言うのは、あまりにも恥ずかしい。
柚乃は肩をすくめる。
「だから、意識しすぎなんだって。ここ数年のあんたってば、そのせいで、詩乃に対して変な壁を作っちゃってるわよね。仮に、よ?そのことで、詩乃が、『碧斗に嫌われているのかしら』、あるいは、『嫌われたかしら』なんてことを思ったとしたら、それはあんたの自業自得でしょうね」
「うっ……。もし本当にそんな風に思われてたら、どうしよう……」
「ちゃんとフォローしたんでしょ?だったら大丈夫だよ」
「そうかな……。一応は説明っていうか、詩乃に触られて嫌だったわけじゃないってことは伝えたけど」
動揺している俺の姿の何が可笑しいのか、柚乃はくすくすと笑う。
「どうせなら、そこでさらっと言っちゃえば良かったのに。『好きな子に触れられて驚いたんだ』とかなんとかさ。で、そこから告白本番になだれ込む、っていう手もあったわよね」
「そ、そういうことは、ちゃんとした場を作って伝えたいんだよ。そんな、流れと勢いで言いたくない」
顔が熱い。きっと今の俺は真っ赤になっている。
「というより、そんな風に冷静に考える余裕なんてなかった」
柚乃は鼻でふっと笑う。
「ちゃんとした場ねぇ……。いつまでそうやって、ずるずると引き延ばしているつもりなの?いったいいつになったら、進展を見せてくれるのかな?」
「そんなこと言われても、なかなか勇気が……」
「勇気が、とか言ってないで、動いてみたら?例えばデートに誘ってみるとかさ」
「デートって、二人でどっかに行くってことか?いつも三人で行動してたのにいきなり二人だけでって、そんなの、不自然に思われるだろ。詩乃にどうしてかって聞かれたら、なんて答えればいいんだよ」
「そんなの、デートに誘ってるんだ、って素直に答えればいいでしょ」
「いや、だめだ。まだ無理だよ」
「碧斗ってこんなキャラだったっけ?まったく、仕方ないなぁ。まだしばらくは、あんたの恋がうまくいくように、協力してあげる」
柚乃は苦笑いを浮かべて俺の頭を撫でた。
「やめろよ。髪がぐしゃぐしゃになるだろ」
俺は赤面しながら柚乃の手をはっしとつかんだ。その手を押し返しながら、柚乃に触られるのは全くなんとも思わないのにと、ため息をこぼした。
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