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ちゃ
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第10話▶︎今期最大ハイライト / side 柔太郎
佐野先輩の家を出て、二人並んで駅へ向かう。
休日の駅前は、どこか浮ついたざわめきに満ちていて、 笑い声も、足音も、すべてが少しだけ輪郭をぼかしてくれる。
その曖昧さが、今の俺たちにはちょうどよかった。
改札が見えてきたところで、俺は無意識に歩幅をゆるめる。
終わりに近づいているのが、はっきり分かってしまうから。
「じゃあ…俺行くね」
言葉とは裏腹に、足は止まりそうで。
視線を落としたまま、名残を引きずる自分が情けない。
ここで普通に別れていいのかな。
そうするべきだって、分かってる。
分かってるのに、胸の奥が騒いで、静かになってくれない。
やっと伝え合えた想い。
あの夜の空気を思い出すたびに、自分がどうしようもなくなる。
先輩の唇を、まだどこかで待っている自分がいる。
そんな、感情だけがあふれてしまっている。
「ごめん、なんか…」
突然、熱のこもった先輩の声が耳にふれる。
言いかけてやめるその仕草に、胸がきゅっと締まる。
次の瞬間、距離が一歩分、縮まった。
「はやちゃん?」
驚いて顔を上げた瞬間、手首を掴まれる。
そのまま人の流れから少し外れた場所へ引き寄せられて、 抵抗する間もなく、腕の中に閉じ込められた。
「やっぱ無理だ」
耳元で落ちた低い声に、身体の奥が震える。
「離れるとか、普通に無理」
「な、なに言って」 「だってさ」
戸惑いを遮る声は、さっきよりずっと必死で、まっすぐだ。
「やっとちゃんと好きって言い合えたのに、もう離れるとかさ…」
握られた手に、ぎゅっと力がこもる。
逃げ場なんて、最初からなかったみたいに。
「こんなの、我慢できるわけないだろ」
引き寄せられて、距離が一気に溶ける。
視界いっぱいに先輩がいて、呼吸すら奪われそうになる。
「っ…ここ、駅…」
抗議のはずなのに、声は弱くて、揺れていた。
「分かってる」
そう言いながらも、離れる気配はない。
むしろ、逃げられないように、囲い込むみたいに強くなる腕。
額が触れそうな距離で、時間が止まる。
「でも、離したくない」
その一言が、まっすぐ胸に刺さる。
逃げ場なんて、どこにも残されていない。
周りのざわめきが遠のいて、
世界が、二人分の温度だけに閉じていく。
「…ずるい、ほんと」
かすれた声は、自分でも驚くくらい甘くて。
「そんな顔されたら、帰れなくなる…」
「帰らなくていいよ」
近すぎる距離で浮かぶ笑顔は、ずるいくらい優しくて。 抗う理由を奪っていく。
いつもは頼れる先輩が、今はやけに子どもっぽくて。 でも、その分だけ、全部が本気だって伝わってくる。
「少しくらいなら、いいよな」
そう言った瞬間
触れるだけのキスが唇に落ちてくる。
ほんの一瞬。
なのに、時間が溶けたみたいに長くて、深くて、
胸の奥までじんわり熱が広がっていく。
離れたあとも、胸と唇がじんと痺れて、
そこに確かに触れられた証が残っていた。
顔が熱い。
きっとひどい顔をしているのに、それすらどうでもよくなる。
「ごめん。ほんと、我慢できなかった」
少し困ったように笑う先輩に、余計に心が揺れる。
「ん…いいよ」
考えるより先に、言葉がこぼれる。
受け入れるみたいに、許すみたいに。
…ん?なに許してんだ、俺。
遅れて自覚して、慌てて言い直す。
「いいよじゃねーよ」
でももう、全部遅くて。
この空気も、この距離も、簡単には戻らない。
逃げるみたいに一歩引く。
これ以上近くにいたら、きっとまた流される。
視線を逸らしたまま、今度こそ改札へ向かう。
心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
「ほんと、ずるいんだよ」
聞こえるかどうかも分からない声で呟いて
そのまま人の流れに紛れていく。
それでも、数歩進んだだけで、我慢できなくなる。
振り返ると、先輩はちゃんとそこにいて。
「またね」
約束みたいな声と、少し照れた笑顔。
その表情に、さっきのキスよりも強く胸を掴まれる。
「…うん」
それだけ返して、今度こそ前を向く。
人混みに溶けていきながらも
背中に残る視線が、ずっと離れない気がした。
指先にも、唇にも、まだはやちゃんが残っている。
触れられた場所全部が、じんわりと疼いている。
「……やば」
ぽつりとこぼして、空を見上げる。
いつもと同じはずの景色が、まるで違って見えた。
もう、戻れない。
でも、 それでいいと思えた。
遠回りした時間も、すれ違った夜も、
全部まとめて抱えたままでいい。
逃げないと決めた、この気持ちごと。
ゆっくり、 ここから、始まっていくんだ。