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「……何が、起きた?」
掌にずっと感じていた優しい体温が失われた事に慌てて即座に横を見たが、すぐ隣に立っていたはずの焔の姿が何処にも無い。 自分の格好も白衣を羽織った白シャツとトラウザーズ姿とは違い、足にはスニーカーを履き、ジーンズにパーカーといったかなりラフな装いに変わっていた。褐色だった肌は屋内で働く者特有の白く透き通ったものへと戻り、狐を象った隠れ身の面もしていなければ、耳も尖っておらず、当然獣耳や尻尾だって消えていた。
訳がわからず周囲を見渡す。まずは現在地を確認せねばと思ったからだ。
「……俺の家、だ」
中途半端に発展しつつある町並みがよく見える、小高い位置に建てられた神社の境内が目の前にあり絶句した。もう何年も……いや、何十年かそれ以上ぶりに見る実家の様子は記憶の中にある姿のままで、寸分違わずそこに建っている。
近所の子供達がたむろして、端にあるベンチに座って携帯ゲーム機で遊び、散歩中の爺さんがのんびりと歩き、巫女服を来たアルバイトが箒を持って掃除をしたりと、見慣れていた光景のせいで頭がくらっとフラついた。
何の予兆も無しに、俺は元の世界へ戻って来たのか?
それとも今までのアレが、夢だったのか——
キョロキョロと周囲を見渡す俺に対して不思議そうに視線を投げ掛ける者もおらず、皆普通に過ごしている。彼らから不審がられる前にと、俺は少し隅の方へと移動して鳥居近くの木の下に隠れた。
まさか、徹夜明けで白昼夢でも見ていたのか?
いや、あんなリアルで激長な夢があってたまるか!
魔物達と共に魔族の基礎を創りあげていった日々や、トイフェル城で過ごした退屈な日常も、焔の肌の感触や妙に落ち着く陽だまりの様な匂いだって全部ちゃんと覚えている。
さっきまで、ほんの数分前までは手だって繋いでいたというのに、それらが全部夢幻だったなんてオチは絶対に受け入れられない。
焔の居ない人生なんか何の価値があるというのだ。
もう永遠に奴の隣に立つ権利を失ったのなら、今すぐにだって自害してやる。
「——『カウンセリングルーム』」
直前に何があったのかを思い出し、ボソッとそう呟いて、あの部屋が原因だとすぐに悟った。
「あの、やけに小綺麗なカウンセリングルームに立ち入った次の瞬間には此処に居たと言う事は、俺の心の問題に直面して解決しないと、元にへは戻れないということか?」
生まれてからずっと虚無感を抱えながら生きてはきたが、別にその事で病む程悩んでいた記憶は無い。何でも簡単にこなしてしまうせいでほとんどの事に対してやり甲斐を感じずに過ごしてきたからって、それをどうこうしようと思った事もなかったんだから今更その点を解決しろと言われているのだとしたら『無理だ』としか言いようがない。そうなると——
「まさか、もうあの世界へは戻れないのか?」
そんな結論に至った途端、背筋が凍った。 解決すべき問題が思い当たらない以上、先へは進めない。
造り出したい結論を最初に決め、そこへ向かって理論を構築し、ソースコードを書いていく事に関してはプログラマーという職業柄長けている自信はあるが、問題点のありそうな箇所に見当がつかない状況ではどうしていいのか思い浮かばず完全に頭の中がフリーズしてしまった。
焦るな、まずは落ち着け。
俺は絶対に、焔の隣に帰るんだろう?
口元を軽く両手で覆い、深呼吸を繰り返す。
だけど、『嫌だ、こんな世界で一人きりでなんて過ごしていたくない』とすぐに考えてしまい、心が壊れそうになる。何も知らないでいた時は与えられた命を無下にはせずに生きていくという人生を苦痛には思わなかったが、心の拠り所を得てしまった今ではもう無理だ。
戻りたい、逢いたい、触れていたい——
それしか考えられず、感情が邪魔をして何をしていいのか益々思い付かない。こんなふうになってしまう経験はこの姿では初めての事で余計に焦ってしまう。完全に悪循環に嵌っている。このままでは戻れないとわかっていても、そう簡単には抜け出せそうになかった。
木に寄り掛かり、ずるずるとその場にしゃがむ。 口元を手で覆ったまま見上げた空はとても澄んでいて、どこまでの綺麗に広がっていた。雲のない青空はスカイブルーにも近い色をしており、写真にでも収めておきたい気持ちにもなってくる。
(あぁ、これは……いつか見た光景だ)
そう不意に思った瞬間、今自分が居る時間がいつなのか、やっと気が付く事が出来た。
「……俺が、異世界に飛ばされた日だ」
肩に掛かっていたショルダーバッグを無造作に地面へ落とし、鳥居を見る。するとそこには、今の自分ならば見覚えしかない着物がチラリとあった。
あの日では言えるはずの無かった言葉を口にして、鳥居のある方へと駆け出す。
そうだ、あの日は徹夜での仕事明けで酷く疲れていて、足元もフラフラで、そんなタイミングでクソデカイ鳥居の上なんかに着物姿の何かを見た気がして、驚いて——
ずっと鳥居の上から視線を逸らす事なく走り続けたせいで、鳥居の奥には急な石階段が続いている事を完全に失念していた。此処へ来たのが久しぶり過ぎたせいもあるかもしれない。
ズルッと足元が滑り、体をコントロール出来なくなる。異世界では自由に色々な属性を操れる自分でも、今はその能力すら消えているのか何もなす術が無い。
落ちる——
そうはわかっていても何も出来ず、でも鳥居の上で寛いでいる焔の着物姿から視線を逸らす事を止められない。『助けて』とも口にせず、ただただ自由落下していく己に対し、『そういえばあの時もこうだったな』と諦めの気持ちを抱いた。
こちらの存在に全く関心を持っていない雰囲気の焔がゆっくり体を起こし、空を見上げる。白い目隠しはしておらず、真っ赤な瞳には澄み切った空のみが映っているのが見え、やっと自分が彼の瞳が赤い事を知っていた理由がわかった。
どこまでも広がる青空の下、鳥居の上で休む着物姿の焔はあまりにも綺麗で幻想的で、この世の存在だとは感じられない優美さがあった。やっと、自分には足りない何かを与えてくれる者を見付けたような感情が心を満たす。
どうして今だったのだろうか?
もっと早く彼を見付ける事が出来ていたら、俺は何者にだってなれただろうに——
そう思ったと同時に、焔の姿がふっと煙の如く鳥居の上から消え去ってしまった。まるでそこにはさっきからずっと何も無かったみたいに虚無の光景が広がり、後頭部に感じた激痛なんかよりも心の方が何倍も痛かった。
もう一度、彼に逢いたい。
逢いたい、逢いたい、逢いたい。
——アレは俺のモノだ、誰にも渡さない。
霞む視界の中でどず黒い血がドクドクと広がっていくのに、考えているのはそんなことばかりだった。
(……そうか、俺はあの時死んだのか)
激しい痛みが不意に消え、初めて異世界で目が覚めた時に居た場所に、今は立っている。
あの時は『これは夢だ』と思って好き勝手にしていたが、まさかとっくに死んだ後だったとは。何処かの病院で昏睡状態にでもなっているのだろうと勝手に推測していたが、戻る場所も体も無い身になっていた事を思い出し、軽くショックを受けた。
じゃあ俺は、今死んだら元の世界へは『転生』で戻るコースか。
魔物や獣人といった魔族に属している者の大半が、元の世界で不遇な死を迎えてしまった者ばかりだが、『自分は転落死程度で魔族の頂点に立っていていいのか?』とちょっと今更気になった。もっとこう壮大な生い立ちや死を迎えて他人が許せず、元の世界とは違う場所であろうが人間達への復讐に燃える方が格好がつくというのに。
心の中だけで謝罪し、さてこの先はどうしたものかと思案する。 今までずっと思い出せずにいた記憶が蘇り、不思議と心はスッキリしていた。自分の立場や、『魔王』として討伐される以外の理由で命を落とすとどうなるかがきちんとわかったのもありがたい。もっとも、そう易々と殺される身ではないのだが、何も知らずにいるよりはずっといい。
「しっかし、此処へ来たそもそもの原因が、まさか焔だったとはなぁ……」
直接ではなかったにしろ、焔が原因で死んでいたのかと思うと、それだけでゾクリと全身が歓喜で震えた。後頭部に感じた頭蓋骨が砕けて脳味噌が飛び散る感覚や、全身の血液が吹き出して周囲を染め上げていく光景を思い出し、更に気持ちが昂っていく。骨が砕け、それらが内臓に刺さる痛みを想像の中で反芻するだけで下っ腹の奥がずくんっと疼く気さえしてきた。
あれがもし直接焔が手に掛けてくれていたら、どんなに心地よかったのだろうか?
痛みで快感を覚えるマゾヒストでは無いはずなのに、そんな事を考えてしまう自分が居る。しかもかなりグロい内容だというのに、何でか抵抗は微塵も抱けなかった。
廃病院の中で殺し合いそうになった瞬間にも感じたが、どうやら自分は彼の手で殺されてみたい願望がある気がする。 魔王を倒し、元の世界へ戻る事を焔達が目標としている以上、再び彼と戦う事はもう決定された未来だ。 だけど、その時俺は、ちゃんと焔を瀕死にまで追い詰め、手足を奪い、その身を牢獄へと閉じ込めて永遠に自分だけの者にする事が出来るだろうか?根底にある願望が抑えきれず、その鋭い爪で貫いてしまって欲しいと、この身を差し出してしまいそうで怖い。
「そうなったら、焔は元の世界へ戻ってしまうのに……」
胸の奥が冷たくなり、意馬心猿に惑わされる。上手く焔をメリーバッドエンドに導く自信が揺らぎ、ぎゅっと胸元を強く掴んだその時——
「……——おい!今お前は何を見た⁉︎何を知った!早く答えろ!」
焔に胸倉を掴まれ、体をぐっと持ち上げられた。大声で叫ぶ彼の顔は焦りで満ちていて、蒼白に染まり、冷や汗まで流れ落ちている。
(いつの間にか、元の時間に、元の場所に戻っていたのか)
すぐにそう理解したが焔の質問の意味がわからない。答えるべきなのか?自分が実はもう死んでいて戻る体が無い事を。死んだ原因が、間接的にではあっても焔であった事を。だが……焔は別にそれを聞きたい訳では無い気がして、俺は「いいえ、何も」と言い、首を横に振った。
焔の手に手を重ね、床に降ろす様に促す。
「だが、『二人で一緒に』と言っていた!何か見たんじゃないのか?」
下に降ろしてはくれたが掴んだ手はそのままで、今にも白いシャツを破かれてしまいそうな勢いだ。
「いいえ。私は私で、自分の過去の記憶に引き戻されていたので、焔様が気に掛けている『何か』を覗き見たりはしていませんよ?」
少しでも落ち着いてもらおうと、ゆっくり穏やかな口調でそう言い、優しく頭を撫でてみる。するとちょっと安心したのか、やっと掴んでいていた手を離してくれ、意外にもそのまま俺の胸の中に飛び込んできた。背中に腕を回し、縋り付くみたいに抱き締めてくる。こんなにも素直な焔は初見だったせいか、抱きしめ返すべきなのか迷ってしまった。
「……ならいい、それなら……いいんだ」
くぐもった声がちょっと涙声っぽいが、大丈夫だろうか?
心配にはなったが、何があったのかと訊いてどうにかなる気がしない。答えてくれるとも思えない。なので俺は、焔が落ち着くまでずっと、彼の背中や頭をゆっくり撫で続けた。