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第1話 月から落ちた種
その種は、雨のあとに落ちていた。
校舎裏の小さな畑。
トマトの支柱が倒れ、土のにおいが強くなっていた夕方。
日向ユウは、ひとりで軍手をはめ直していた。
「また倒れてる」
誰に言うでもなくつぶやくと、支柱を持ち上げた。
湿った土が靴の裏にくっつく。
ぐにゃり。
変な感触がした。
石ではない。
虫でもない。
ユウは足をどけた。
そこに、種があった。
親指の爪ほどの大きさ。
丸くない。
細長くもない。
まるで小さな鳥のくちばしを折りたたんだような形をしていた。
表面は緑がかった茶色。
雨粒を吸ったように、しっとり光っていた。
ユウはしゃがんだ。
「なにこれ」
指でつまもうとした瞬間、種がわずかに動いた。
土の中で、息をした。
そんなふうに見えた。
ユウは指を止めた。
風が吹いた。
畑の端に立つ細い木が、さわさわ鳴った。
その音に混じって、かすかな声が聞こえた。
まだ。
まだ拾うな。
ユウは顔を上げた。
誰もいない。
校舎の窓は夕方の光を受け、ぼんやり染まっている。
グラウンドからは部活の声が遠く聞こえた。
けれど校舎裏には、ユウだけだった。
種が、また動いた。
今度ははっきりと。
ぱき。
表面に細いひびが入った。
ユウは息をのんだ。
ひびの奥から、芽ではなく、細い輪が出てきた。
植物の根ではない。
鉄のような硬さを持つ輪。
けれど冷たい感じはしなかった。
輪はゆっくり開き、小さな装置になった。
手のひらに乗るほどの大きさ。
種の殻がほどけ、中心に透明な粒が現れる。
粒の中で、緑の光が揺れた。
ユウは逃げなかった。
逃げるより先に、見てしまった。
粒の奥に森があった。
木々が伸びている。
川が流れている。
鳥の影が飛んでいる。
そして、月があった。
「月……?」
ユウがつぶやくと、装置が震えた。
透明な粒の中の森が、ぐっと近づいた。
木の枝。
葉。
水面。
それから、鳥のような顔。
大きな目。
灰色の羽。
緑と黄色の縦じまの尾羽。
その存在は、まっすぐユウを見た。
声がした。
耳からではない。
頭の奥に、そっと置かれるような声だった。
見つけたな。
ユウはひざをついたまま固まった。
「だれ」
問いかけたつもりなのに、声はかすれた。
鳥のような存在は首を傾けた。
だれ、ではない。
有楽だ。
「ゆうらく?」
そう呼ぶな。
ユウは口を閉じた。
相手の目が少し細くなった。
いや、名前ではなく種の名だ。
わたしはリウ。
ユウは自分の胸を押さえた。
心臓が速い。
畑の土のにおいが急に濃くなる。
「ぼくは、日向ユウ」
知っている。
「なんで」
見ていた。
「いつから」
長く。
ユウは立ち上がろうとして、足がもつれた。
尻もちをついた。
装置は土の上で静かに光り続けている。
リウは粒の中でまばたきをした。
その仕草があまりに鳥に似ていて、ユウは思わず言いそうになった。
ヨウムみたいだ、と。
しかし言葉は喉で止まった。
リウの目が、先に鋭くなったからだ。
言うな。
「まだ言ってない」
言おうとした。
「ごめん」
ユウが小さく頭を下げると、リウは羽を一度だけふくらませた。
許す。
一度だけだ。
ユウは土の上で座り直した。
夕方の風が、制服の袖を冷やした。
「これは、なに」
地球用の接触種子だ。
「種じゃないの」
種でもある。
装置でもある。
入口でもある。
「どこへの」
リウは少し黙った。
粒の中の森が揺れた。
木々のあいだから、見たこともない建物がのぞいた。
緑に飲みこまれた塔。
川の上をすべる小さな船。
木の根元に並ぶ丸い窓。
ユウは唇を開いたまま動けなくなった。
リウが告げた。
月の裏側だ。
ユウは笑った。
笑うしかなかった。
「月に森なんてないよ」
ある。
「ないって。だって月は」
知らされていないだけだ。
ユウの笑いが止まった。
グラウンドの声が遠ざかる。
セミの声もない季節なのに、耳の奥だけがじりじり鳴った。
「月の裏側に……森があるの?」
リウは静かにうなずいた。
ある。
そして、おまえたちの地球はもうすぐ枯れセカイへ傾く。
ユウは意味が分からなかった。
けれど、その言葉だけは土より重く胸に落ちた。
枯れセカイ。
聞いたことのない言葉。
なのに、知っている気がした。
テレビで見た干上がった川。
切り倒された森。
砂に飲まれた町。
暑さで倒れる人々。
全部が一つの言葉になって、目の前に置かれた気がした。
「なんで、ぼくに」
接触種子は選ぶ。
「ぼくを?」
そうだ。
「なんで」
リウはすぐには答えなかった。
粒の中で、森の奥を見た。
それから小さく言った。
おまえは、拾ったからだ。
「それだけ?」
それだけが始まりだ。
風が止まった。
ユウは装置を見た。
光は弱くなっていない。
むしろ、だんだん強くなっている。
「これ、持って帰っていいの」
持って帰れ。
「危なくない?」
危ない。
「え」
世界が変わる。
ユウは手を伸ばした。
種だったものは、手のひらに触れると少しだけ温かかった。
まるで小動物の体温みたいだった。
その瞬間、校舎の向こうから声がした。
「ユウ!」
長瀬ミハルだった。
リュックを揺らしながら、畑のほうへ走ってくる。
「先生が探してたよ。水道閉めたかって」
ユウは反射的に装置を隠した。
しかし遅かった。
ミハルは目ざとい。
「なに持ってるの」
「なんでもない」
「なんでもない人はそんな顔しない」
ミハルは近づき、ユウの手元をのぞきこんだ。
装置が光った。
緑の光がミハルの頬を照らした。
ミハルの目が丸くなった。
「なにこれ」
ユウは答えられなかった。
装置の中で、リウが小さく羽をすぼめた。
人間が増えた。
ミハルは一歩下がった。
「今、声した?」
ユウはゆっくりうなずいた。
「した」
「どこから」
「これ」
ミハルは装置を見つめた。
それからユウを見た。
もう一度、装置を見た。
「……拾ったの?」
「うん」
「校舎裏で?」
「うん」
「普通、そういうの拾わないよ」
「種だと思った」
「種はしゃべらないよ」
リウが言った。
厳密には、しゃべっていない。
ミハルが小さく悲鳴を上げた。
ユウは装置を両手で包み込んだ。
「大丈夫。たぶん」
「たぶんで済むやつ?」
ミハルの声は震えていた。
けれど逃げなかった。
怖がりながらも、目は装置から離れない。
リウは二人を交互に見た。
おまえたちは、月をどう考えている。
ミハルが眉を寄せた。
「いきなり何」
答えろ。
ユウは少し考えた。
「夜に見えるもの」
ミハルも続けた。
「あと、昔、人が行った場所」
リウは目を細めた。
その時、緑が映った。
ユウは息を止めた。
ミハルが小さくつぶやいた。
「月面着陸の話?」
公開映像の端に、わずかに。
ユウは装置の粒を見た。
そこに古い映像のようなものが映った。
荒れた月面。
ぎこちなく歩く人影。
旗。
機械。
そして一瞬。
地平線の向こうに、緑。
ほんの小さな揺れ。
すぐに映像は乱れた。
ミハルが両手で口を押さえた。
「これ……本物?」
HASAは知っていた。
リウの声は低かった。
HASAは隠した。
人間には早すぎると決めた。
ユウは首を振った。
「そんなの、教科書にない」
教科書はすべてを載せない。
「でも、月に森があるなら、もっと調べる人が」
調べられないようにされた。
ミハルがぽつりと言った。
「だから天体の授業、変なのかな」
ユウはミハルを見た。
「変?」
「だって、詳しくやらないじゃん。月と太陽と地球くらい。太陽系の話もさらっとだけ。衛星もないし、人が乗る衛星もないし、GPSもない。なんか、ずっと止まってるみたいだなって思ってた」
ユウは今まで気にしたことがなかった。
地図アプリは道を細かく示してくれない。
遠くへ行くときは紙の地図や古い通信塔に頼る。
天気予報はよく外れる。
夜の天体番組はいつも同じ話を繰り返す。
それが普通だと思っていた。
普通だと、思わされていた。
リウは静かに言った。
人類はまだ、外を知らない。
ユウは装置を握りしめた。
「外って、無重力空間のこと?」
そうだ。
「そこから、枯れ敵が来たの?」
ミハルがユウを見た。
「枯れ敵?」
リウの目が暗く沈んだ。
オウムガイに似た者たち。
遠い無重力空間の彼方から来た。
彼らは枯れた地を好む。
森を嫌う。
川を嫌う。
そして人間を利用する。
ミハルが声をひそめた。
「利用って」
自然を壊すために。
ユウは唇を噛んだ。
言い返したかった。
人間はそんなことばかりじゃない、と。
でも言葉がすぐには出てこなかった。
校舎裏の畑でさえ、去年は半分つぶされて駐輪場になる予定だった。
反対した生徒がいて、残っただけだった。
残したのも人間。
つぶそうとしたのも人間。
ユウは手の中の装置を見た。
「有楽は、人間を嫌ってるの」
リウはすぐに答えなかった。
尾羽の縦じまが、粒の中で小さく揺れた。
悪い者もいる。
良い者もいる。
それだけは知っている。
「じゃあ」
だが、信用はしていない。
その言葉は冷たくなかった。
ただ、長い年月の底から拾い上げられた石のようだった。
ユウは何も言えなかった。
ミハルも黙っていた。
夕方の校舎裏で、三人分の沈黙だけが残った。
やがてチャイムが鳴った。
下校時刻を告げる音だった。
ミハルがはっとする。
「ユウ、これ先生に」
だめだ。
リウの声が重なった。
HASAに届く。
「でも、隠していいものじゃないでしょ」
隠せと言っているのではない。
今は渡すなと言っている。
ユウはミハルを見た。
ミハルは不安そうだった。
けれど、目の奥にはもう好奇心が火をつけていた。
「これ、世界変わるよ」
「リウもそう言った」
「本当に月に森があるなら」
ミハルは校舎を見上げた。
「全部、変わる」
ユウは装置をポケットに入れた。
その瞬間、胸元に温かさが移った。
小さな種が、心臓の近くで呼吸しているようだった。
リウの声が、もう一度響いた。
日向ユウ。
「なに」
今夜、月を見るな。
ユウは顔を上げた。
「なんで」
向こうも、おまえを見る。
その夜。
ユウは部屋のカーテンを閉めていた。
机の上には接触種子。
宿題のプリントは一枚も進んでいない。
スマホにはミハルからのメッセージが何度も届いていた。
見てない?
月、出てる。
見ちゃだめって言われたけど、気になる。
ユウは返信できなかった。
窓の向こうが気になった。
カーテンの隙間から、夜の光が細く床に落ちている。
その光が、なぜかいつもより近い。
ユウはベッドに座り、装置を見つめた。
リウは映っていない。
ただ緑の粒が静かに光っている。
「リウ」
返事はない。
「聞こえてる?」
粒が少し揺れた。
聞こえている。
「月を見たらどうなるの」
見返される。
「誰に」
HASA。
枯れ敵。
有楽の一部。
「有楽の一部?」
人間との接触をよく思わない者もいる。
ユウは息を吐いた。
世界は広がったのに、逃げ道は狭くなった気がした。
「ぼく、どうすればいい」
まず眠れ。
「眠れると思う?」
眠れないだろうな。
ユウは少し笑った。
初めて、リウの声に温度があるように感じた。
その時、外で車の音が止まった。
ユウは体を固くした。
家の前。
一台ではない。
複数。
ドアが開く音。
靴音。
低い話し声。
階下で母が玄関へ向かう気配がした。
チャイムが鳴った。
ユウは装置をつかんだ。
リウの声が鋭くなる。
隠せ。
「どこに」
身につけろ。
ユウは装置をパーカーの内側に入れた。
温かい。
階下から母の声が聞こえた。
「はい、どちらさまでしょうか」
男の声。
落ち着いた、なめらかな声。
「HASAの者です。日向ユウさんに確認したいことがあります」
ユウの背中に冷たい汗が走った。
HASA。
早すぎる。
リウが低く言った。
接触種子の反応を拾われた。
「どうする」
逃げるな。
「じゃあ」
知らない顔をしろ。
足音が階段を上がってくる。
ユウは机の上のプリントを広げた。
シャーペンを握った。
手が震えた。
ノック。
母がドアを開けた。
「ユウ、少しいい?」
母の後ろに、灰色のスーツを着た男が立っていた。
整った髪。
笑顔。
でも目だけが動かない。
胸にはHASAの小さなバッジ。
男は軽く頭を下げた。
「こんばんは。少しお話を聞かせてもらえますか」
ユウはシャーペンを握ったまま、うなずいた。
男は部屋に入らず、入口で止まった。
「今日、校舎裏で珍しいものを見ませんでしたか」
「珍しいもの?」
ユウは聞き返した。
声が少し裏返った。
男は笑った。
「たとえば、発光する鉱物。あるいは、小型の機械。落下物の可能性があります」
母が驚いた顔をした。
「落下物?」
「心配はいりません。安全確認です」
ユウは机の上を見た。
「見てません」
男の目が、ほんの少し細くなった。
「本当に?」
「はい」
「長瀬ミハルさんとは、今日一緒にいましたね」
ユウの指が止まった。
男は笑顔を崩さない。
「彼女にも確認を取ります」
ユウは唇を噛みそうになり、こらえた。
装置が胸元でわずかに熱を持った。
リウの声は聞こえない。
けれど、いる。
それだけでユウは息をした。
男は部屋の中を一度見渡した。
窓。
机。
ベッド。
カーテン。
「月は好きですか」
唐突な質問だった。
ユウは男を見た。
「普通です」
「今夜はよく見えますよ」
「見てません」
「なぜ?」
ユウは一瞬だけ迷った。
それから言った。
「宿題があるので」
母が少し安心したように笑った。
男も笑った。
「それは大事ですね」
男は名刺を机に置いた。
「何か思い出したら、ここへ連絡してください」
灰色の名刺。
HASA広報室。
ユウはそれを見下ろした。
男は帰り際、もう一度だけ振り返った。
「日向ユウさん」
「はい」
「月に関する誤った情報には気をつけてください」
ユウはうなずいた。
男の足音が階段を下りていく。
玄関が閉まる。
車のエンジン音が遠ざかる。
ユウは膝から力が抜け、床に座り込んだ。
胸元の装置が光った。
リウが現れた。
遅かったな。
「怖すぎる」
生きている。
「ミハルが危ない」
すでに見張られている。
ユウは立ち上がった。
スマホをつかみ、ミハルに電話をかけた。
一回。
二回。
三回。
つながらない。
画面に文字が出た。
圏外。
ユウの部屋で圏外になることなんて、ほとんどない。
「リウ」
分かっている。
装置の光が強くなった。
粒の中の森が激しく揺れる。
川が走る。
葉が鳴る。
遠い月の内部で、何かが起きている。
リウはまっすぐユウを見た。
日向ユウ。
「なに」
次の選択をしろ。
「選択?」
このまま黙るか。
真実に近づくか。
ユウは窓を見た。
カーテンの隙間から、月の光が床を細く照らしている。
見てはいけない。
そう言われていた。
でも、もう見られている。
HASAに。
有楽に。
たぶん、枯れ敵にも。
ユウはカーテンに手をかけた。
リウが止めなかった。
ゆっくり引く。
窓の外に、月があった。
いつもの月。
遠くて、静かで、何も言わない顔をしている月。
けれどユウはもう知ってしまった。
あの裏側に文明がある。
あの内部に森がある。
あの中で、有楽たちが地球を見ている。
そして、何万年も種をまいている。
ユウは月を見つめた。
その瞬間。
月の端で、緑の光がまたたいた。
一瞬だけ。
でも確かに。
ユウの胸元で装置が震えた。
リウの声が、静かに響いた。
接続された。
ユウは窓ガラスに映る自分の顔を見た。
昨日までの自分とは違って見えた。
知らないことを知らないまま生きていた顔。
それが、少しだけ崩れていた。
スマホが震えた。
ミハルからだった。
画面には短い文字。
月、見た。
その下に、もう一行。
誰かが家に来た。
ユウは装置を握りしめた。
遠くでサイレンが鳴った。
夜の町が、いつもと同じ顔をして眠っている。
けれど、もう同じではなかった。
月の裏側に森がある。
その一文だけで、人類の常識は音もなく割れ始めていた。
コメント
1件
わああ第2話もぶっ飛ばすねえ!!😭💫 種じゃなくて接触種子で、しかも月の裏側に森と文明があるって展開、頭ぶっ壊されたわ…!! 🚀🌿 HASAとか枯れ敵とか、情報量エグくない??しかもユウの家にスーツの男が来たシーンの緊張感やばすぎてスマホ握りしめてた📱💦 ミハルちゃんも仲間になったっぽくて嬉しいし、これからどうなるのか待ちきれないんですけど!!! 次回も全力待機してます🔥🍬