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回収ではない。
——処理だ。
この世界からの削除。
……だったのかもしれない。
森は、いつも通りだ。
夜露の匂いも、
土の冷たさも、
葉が擦れる音も。
精霊の気配まで、ちゃんとある。
何も、変わってない。
……いや。
正確には、
変わったものが一つだけある。
それ以外、全部そのままだ。
――そこにいるはずの
ものだけだ。
リィナの視線が、地面に落ちる。
そこには、
“影だけが残っていた”。
踏み潰されたように、
ありえない形で。
人のものだったはずの影。
だが、
その“本体”はどこにもない。
名前を呼ぼうとして、
リィナは口を閉じた。
声にしてしまえば、
何かが確定してしまう気がした。
呼べば返ってくる——
その前提ごと、
奪われている。
地面には、
倒れた痕跡すら残っていない。
引きずられた跡も、
血も、悲鳴の余韻もない。
ただ、空白だけがあった。
そこに「人がいた」という事実だけが、
不自然なほど、
きれいに削られている。
膝をついた感覚も、
冷えた指先も、
どこか他人事だった。
胸の奥が、
痛いのかどうかも分からない。
何も感じなくなっていた。
怒りも。
悲しみも。
ただ、
思考だけが遅れて追いついてくる。
――助けたかった。
――もう一度名前を呼びたかった。
残酷なほど、森は静かだ。
「……“助けたこと”にすら、
させてもらえなかった……」
精霊の気配が、微かに揺れた。
慰めるでもなく。
否定するでもなく。
ただ“そこにいる”だけの存在。
その優しさが、ひどく残酷だった。
世界は、何も壊れていない。
制度も、街も、森も。
壊れたのは、
ここにいたはずの一人分だけだ。
そしてそれは、
誰にも知られず、
なかったこととして、
次へ進もうとしている。
リィナは、立ち上がれなかった。
泣くことすら、
許されていない気がして。
森の静寂が、
まるで――
「最初から、そう決まっていた」
と告げているようだった。
風が、ひとつだけ抜けた。
葉が揺れ、
それで終わる。
何も起きなかった森は、
それ以上、何も語らない。
リィナは、ゆっくりと顔を上げた。
立ち上がる理由はない。
けれど、
ここに留まる理由も、もうなかった。
足が動く。
誰に言われたわけでもなく、
ただ、前へ。
森を抜ける。
夜露の匂いが、
少しずつ薄れていく。
土の感触が、石へ変わる。
街の灯りが、見えた。
人の声。
扉の閉まる音。
遠くで笑う気配。
何も変わっていない世界が、
そこにあった。
「……」
リィナは、立ち止まらなかった。
ギルドの扉が見える。
いつもと同じ場所に、
いつもと同じように立っている。
重たい木の扉。
誰かが出入りするたびに、
軋む音を立てる、あの扉。
今も、変わらない。
リィナは、手をかける。
ほんの一瞬だけ、迷う。
その中に、
“いないもの”があると知ってしまったから。
それでも。
扉を、押した。
朝と変わらない騒がしさが、
そのまま流れ込んでくる。
「おい、それ昨日の依頼だろ」
「貼り替えろよ、いつまで残してんだ」
「だから言っただろ、このギルド――」
声。
笑い。
苛立ち。
全部、いつも通りだ。
リィナは、立ち止まらなかった。
視線も上げず、
そのままカウンターへ向かう。
「エリス」
呼ぶ。
それだけで、
何かが変わると思っていた。
エリスは、顔を上げる。
いつも通りの表情。
いつも通りの目。
「どうしました」
事務的な声。
「ミレーナが――」
言葉が、途中で止まる。
エリスの表情が、
わずかに揺れた。
「……誰ですか」
一瞬、
音が消えた気がした。
「……え?」
「その名前、
登録にありません」
書類をめくる音。
紙の擦れる音だけが、
やけに大きく響く。
「……そんな、はず……」
リィナの声が、
自分のものじゃないみたいに遠い。
「一緒に来たんです」
「森に――」
言葉を重ねるほど、
現実がずれていく。
エリスは、静かに息を吐いた。
「……消えたのね」
否定ではない。
確認でもない。
ただ、
“知っている側”の言葉だった。
リィナの視線が、揺れる。
「なに、それ……」
エリスは、視線を落としたまま言う。
「影に触れたものは――」
一拍。
「……残らないのよ」
「最初から、いなかったことになる」
その言葉は、
あまりにも静かだった。
「じゃあ……!」
リィナの声が、初めて強くなる。
「助けられてないじゃない!!」
空気が、止まる。
周囲の冒険者たちは、
何も知らない顔で、
別の話を続けている。
誰も、
その言葉に反応しない。
エリスは、否定しなかった。
「……そうね」
それだけだった。
リィナの指が、震える。
「そんなの……」
言葉にならない。
「……納得できるわけ、ない」
エリスは、何も言わない。
その沈黙が、
答えだった。
リィナは、振り返る。
奥。
いつもの席。
そこに、
ノクスがいる。
椅子に深く座り、
面倒そうに頬杖をついている。
何も変わっていない。
その姿だけが、
異様に現実だった。
「……返して」
小さな声。
ノクスは、視線を向けない。
「……無理」
即答だった。
リィナの呼吸が、止まる。
「なんで……」
ノクスは、少しだけ目を細める。
「助けたつもりなんだけどな」
その言葉は、
軽かった。
あまりにも。
「どこが……!!」
リィナの声が、震える。
「消えてるじゃない!!」
初めて、
ノクスがリィナを見る。
ほんの一瞬だけ。
「……あれは、もう“人じゃない”」
低い声。
否定ではない。
ただ、
事実を置いただけの響き。
「だったら……!」
リィナが一歩、踏み出す。
「それを、戻すのが――」
言葉が、途切れる。
ノクスは、視線を逸らした。
「……無理だって言ってるだろ」
短い沈黙。
「完全に影に落ちたものは、
戻らない」
それだけだった。
世界のルールみたいに。
リィナの肩が、わずかに揺れる。
理解してしまったからだ。
「……じゃあ」
声が、かすれる。
「それって……」
顔を上げる。
「間違ってるじゃない」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、それだけが残った。
一歩。
足を踏み出す。
「……壊す」
静かに。
「その“正しさ”ごと」
空気が、わずかに歪む。
リィナの胸元。
精霊紋が、淡く光る。
その瞬間。
ノクスの足元の影が、
わずかに揺れた。
初めてだった。
影が、
“警戒するように”動いたのは。
ノクスは、小さく息を吐く。
「……残すのが救いだと思ってるなら」
一拍。
「……それは、まだ優しいな」
「残すことを前提にしてる時点で」
影が、静かに歪む。
誰にも気づかれないまま。
月咲やまな