第74話:触れただけで動く日 ― 夏のサーモチャージ
朝 ― 夏の“熱が街を動かす”日
七月、朝六時。
大和国の住宅街は、夜のあいだにこもった熱が逃げきれず、むっとした空気が低い場所にたまっていた。アスファルトには細かい温感板が埋め込まれていて、朝日を受けながらじわじわと温度を上げている。
薄灰の街守隊車両が、その熱を押し分けるように音もなく滑り込んだ。タイヤの下で、路面の温感板が一瞬だけ淡く光る。街全体の“シティチャージ”が、もう始まっていた。
玄関前に立つかなえ(32)は、淡緑の薄手パーカーにベージュのワイドパンツ。首筋にはうっすら汗がにじみ、ひとつに束ねた髪は湿気で少し張りついている。留めている水色のクリップが、朝の光を受けて小さくきらめいた。
隣のゆづ(10)は、薄桃の半袖スウェットに灰のプリーツスカート。素足にサンダル。寝起きの顔のまま、腕をさすりながら、少しだけ頬を赤くしている。
「ゆづ、腕まくって。夏のサーモは強めだからね」
「はーい」
門の前に立つ街守隊員は、灰緑ジャケットに薄いインナー、汗を吸ったシャツが襟元から少しのぞいていた。手には翡翠色のサーモ端末。
端末の内部には温電が入っているが、今は人に触れられる前から、外気だけで満電に近い。何もしていないのに、画面の端がじんわり光っていた。
「ゆづさん、そのまま腕を楽にしてください」
隊員が端末をかざす。
ピッ。
淡い光がゆづの腕をなぞり、肌には触れていないのに、体温と発汗、皮膚電気反応が一度に読み取られる。すぐにかなえのヤマホが震え、小さな画面に表示が出た。
サーモ整数:高温好反応
都市温度供給:良好
隊員はにこやかな声で言う。
「はい、安心で〜す。夏は効率いいですよ。お子さんの温度も、とても元気です」
「よかったね、ゆづ」
「うん!」
ゆづは素直に笑った。
通りを歩く大人たちは、ほとんど無表情のまま、自分のヤマホで「サーモ完了(高温充電)」アイコンを確認していく。腕を組んで歩く青年も、買い物袋を提げた主婦も、立ち止まったときに自然と手すりやフェンスに触れる。そのたび、埋め込まれた温感板が小さく反応し、道路のシティチャージマップに熱がひとつ、上書きされていく。
交差点の上には大きな街頭スクリーン。協賛エンターテイナーの女の子が、水色ワンピース姿で笑顔を振りまいていた。
「夏はあなたがいちばん輝く季節。
体温も、外の温度も、ぜんぶ“安心エネルギー”に変わります!」
画面の下には小さな字幕。
本日:都市温度供給率 九十八パーセント
ヒト温優先季 実施中
学校 ― 触れれば動き、触れただけで記録される世界
淡緑パーカーの前を少し開け、澄乃(14)は額の汗を拭きながら坂道をのぼっていた。結んだ髪は肩のあたりで揺れ、水色寄りの毛先がうっすら湿っている。
隣を歩く朝斗(15)は、薄い灰ベージュのシャツの上に軽いジャケットを羽織り、ショルダーバッグを片方の肩に掛けている。片手にはヤマホ。画面の端には、小さく「温電充電中」の表示が点滅していた。
「今日のサーモ、どうだった?」
朝斗が聞く。
「高温だけど問題なし、だって。夏だからかな」
「だね。温電も夏のほうがよく動くらしいし。触っただけでどんどん溜まるって」
「……触っただけで、ね」
学校の門には、金属ではなく淡い灰色の合成材で作られた手すりがある。中には温感板が通っていて、生徒たちが無意識に握って通り抜けるたび、わずかな体温が校内の電力とログに変換されていく。
教室の机も同じだ。ひじをつけば、ひじの温度が。指でとんとん叩けば、そのリズムが。全部、蓄積される。
ホームルームが始まる前、澄乃は自分の電子パッドを取り出した。表面は少し温かい。中の温電が、夜のあいだも自然蓄電を続けていた証拠だ。
画面の端には、消去用の小さなボタン。
指で軽く触れる。
パチッ。
画面は一瞬で書き込みを失い、中央に文字が浮かぶ。
安心しました
一列離れた席で、朝斗も同じように消去ボタンに触れていた。
「便利だよな。全部消えるし」
「うん……でもさ」
澄乃はパッドを見つめたまま、声を落とす。
「全部消えるってことは、どこかに“全部残ってる”って意味じゃないのかな」
「え?」
「だって、触れただけで動くってことは、触れただけで記録もしてるってことじゃん。温電とか、サーモとか」
朝斗は一瞬だけ眉を寄せ、すぐに肩をすくめて笑った。
「考えすぎでしょ。残したままのほうが、安心できないって。先生もそう言ってたじゃん」
その言葉は、教科書に書いてある文言とほとんど同じだった。
澄乃は、朝斗の“自然さ”のほうを見つめてしまう。
公園 ― 元墓地と、熱と、やさしい監視
午後。
元墓地が整備されて生まれた「安心公園」は、日差しに照らされていた。かつて墓石が並んでいた場所には芝生と遊具。地面の下には、今は温感板と配線だけが残っている。
ブランコに座るゆづは、薄桃の半袖が背中に張りつくくらい汗をかいていた。チェーンの持ち手は、にぎるだけでほんのり熱い。その熱もまた、温電にとっては“おいしい”エネルギーだ。
そこへ、灰パーカーのそうた(10)が走ってきた。首元には小さなタオル。息を切らしながら、ブランコの横に立つ。
「ゆづ、今日のサーモ……やっぱりちょっとこわくない?」
「なんで?」
ゆづは足を止め、ブランコを揺らす勢いだけを残してそうたを見る。
「クラスの子が“要観察”になったんだって。サーモのとき、熱が高すぎて、ストレス指数も一緒に跳ね上がったらしい」
「でも、それって安心のためでしょ? 体温が変なまま学校行ったら、みんな困るし」
「……そうなんだけどさ」
そうたは視線を落とし、ブランコの影を靴の先でなぞる。
「ぼくたちの体温ってさ、ほんとは“ぼくたちのもの”じゃないの?」
言い終えた瞬間、公園の上に設置されたスピーカーが小さく鳴った。
ピン。
やさしい女声のアナウンスが、青空ではなく、重たい熱の層を通って降りてくる。
「会話内容に不正確な点が含まれる場合があります。
安心のため、正しい知識でお過ごしください」
二人は、反射的に口をつぐんだ。
そうたが、慌てて笑う。
「ごめん。変なこと言った。サーモチャージは安心だよね」
「うん。だって、協賛でも言ってたし」
ゆづも笑い返す。ブランコの鎖を握り直すと、その体温がまた、金属ではない合成素材の中を通って温電に変わる。
上空では、小さな補助サーモドローンが、公園全体の温度分布をなぞるように飛んでいた。地面に埋め込まれた温感板とつながり、どこに人が集まり、どのあたりで熱が強くなりすぎているのか、リアルタイムでマップ化している。
夏は、都市がいちばんよくしゃべる季節だった。
サーモチャージとシティチャージのしくみ(夏版)
サーモ端末がその場で読み取るのは、個人の
体温
発汗量
血流の揺らぎ
皮膚電気反応(ストレス指標)
そして、都市全体で動いているシティチャージが集めるのは、
道路の歩行熱
ベンチや手すりの接触熱
建物の壁に伝わる外気温
交通機関のシートからの体温ログ
それらはすべて、カタカナ化された数値――カタシン数値として整理され、ヒト温データと都市温度供給ログに分けて翡翠核に送られる。
表向きの説明はシンプルだ。
「体温のぶれは、冷暖房の最適化に使われます」
「ストレス指標は、心のケアのために使われます」
「都市温度は、エネルギー効率アップに使われます」
内部の資料では、もっと率直な言葉が並ぶ。
「熱の偏り=不満の偏り」
「歩かない地区=活力低下または潜伏の可能性」
「夏季データ=冬季統制方針の基礎資料」
夏は、ヒト温優先季。
そして、熱の通報期。
エネルギー局 ― 熱の地図を読む人たち
午後三時。中央安心エネルギー局。
巨大なスクリーンには、大和国の主要都市の地図が広がっている。街路、住宅地、学校、工場。すべてが、色のついた“熱の川”として表示されていた。道路の線は少し太く、駅周辺は特に濃い。
技師の灰谷(39)は、灰色寄りの作業服の胸元を少し開け、首まわりの汗をハンカチで押さえながら端末に触れる。前髪は湿気で額にくっつき、目の下にはうっすらとくまが浮かんでいる。
「今年の夏、都市温度、去年より高いですね。シティチャージだけで、もう都市電力の半分が賄えているって」
隣の隊員は、淡々とモニターを見つめたまま口を開いた。
「効率的で、安心ですね。市民の温度ゆらぎは、そのまま国家温度へ反映されますから」
国家温度、という言葉に、灰谷は心のどこかがざらりとした。
(いつから、“みんなの体温”が“国家そのもの”みたいに扱われるようになったんだろう)
スクリーンの右側には、「都市温度供給率」「高温異常点」「要観察ヒト温」のリスト。夏はそれぞれの数値がせわしなく変化する。
「この地区、熱が上がりすぎていますね。集会か、イベントか」
「協賛の撮影かもしれませんが、一応タグを付けておきましょう。ストレス指数との重なりも確認が必要です」
ぽつりぽつりと赤い点が増えていく。高温異常と、心理揺らぎの一致点だ。
(暑いだけで、要観察になるのか。
それとも、“暑さのせい”にして、何もかもまとめて見ているのか)
室内の冷房はしっかり効いているはずなのに、灰谷の背中にはずっと、じっとりとした汗が張りついていた。
部屋の隅に取り付けられたカメラが、わずかに角度を変える。その視線に気づき、灰谷は喉の奥の言葉をそのまま飲み込んだ。
端末の画面には、今日のシティチャージ量が表示されている。
本日都市温度供給:百二パーセント
ヒト温優先季 有効
夜 ― 温度を分け合う、という物語
夕飯のあと。
かなえとゆづは、リビングのローテーブルにヤマホを並べて座っていた。窓の外では冷却ドローンがゆっくり通り過ぎ、住宅地の上にうすい冷気の層を流していく。昼の熱をため込んでいた道路の温感板は、今は蓄電を終え、静かに放熱モードに切り替わっていた。
「ほら、ゆづ。今日の夏サーモ指数、すごく上がってるよ」
画面には、ヒト温ポイントのグラフが表示されている。昼過ぎの公園の時間帯が、ひときわ高い山になっていた。
「わたし、ブランコいっぱいこいだからだね」
「そうだね。あなたの温度が、ちゃんと街の安心になってるんだよ」
かなえは笑いながら、ゆづの頭をなでる。ゆづの髪は、お風呂上がりで少ししっとりしていた。水色のルームウェアの袖口から、小さな腕がのぞく。
アイスを食べながら、ゆづはふとつぶやいた。
「ねぇママ……わたしの温度って、“わたしだけのもの”なんだよね?」
かなえは一瞬、言葉を選ぶように視線を落とし、それからいつもの優しい声で答える。
「もちろん、ゆづのものだよ」
「じゃあ、どうしてサーモにいっぱい送るの?」
「それはね」
かなえはゆづの肩を軽く抱き寄せる。
「みんなの安心のために、少しだけ分けてるの。自分のものを、ちょっとだけ街に貸してあげる。それが“大和の思いやり”なんだって、教科書にも書いてあったでしょ?」
「うん……覚えてる」
ゆづは、納得したようにうなずいた。もう、それを疑う癖は身についていない。
同じ頃。
澄乃は自室の机に向かっていた。窓からは、シティチャージのために埋め込まれた道路の熱が少しずつ冷めていく気配が伝わってくる。遠くでドローンの羽音。
机の上の電子パッドに手を伸ばす。
触れた瞬間、内部の温電が指先の熱を受け取って淡く反応する。
消去ボタンにそっと触れる。
ぱち。
画面が一瞬で書き込みを失い、中央に文字が浮かぶ。
安心しました
澄乃は、その文字をじっと見つめた。
「……触れたら消える世界って、触れただけで“全部残る”世界なのかもしれないな」
誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。
国家は知っている。
今日、誰がどの道を歩いて、どのベンチに座って、どのシートに腰かけたか。
今日、昼の陽射しの中で、どの額に汗が浮かび、どの胸が不安で少しだけ早く鳴ったか。
今日、サーモ端末に触れた、すべての温度、すべての脈、すべての揺らぎを。
窓の外で広告スクリーンが光る。
温電でつながる安心の未来へ。
澄乃の指先に、パッドの温電がぬるく反応した。
その熱が、どこまで届いているのか。
彼女には、知るすべはなかった。
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