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第74話:触れただけで動く日 ― 夏のサーモチャージ
昼過ぎの街は、熱が静かに溜まっていた。
風が動かないだけで、歩道の空気が重くなる。
駅前の広場は人が多いのに、声は少ない。みんな、同じ速度で流れていく。
改札を出てすぐの都市案内板が、淡い緑の文字を淡々と点滅させていた。
今日の外気温、温感状態、推奨導線。
その下に、いつもの言い回しが添えられる。
触れて、終える。安心の一日。
りおは水色の薄手シャツの袖を肘までまくり、ベージュのパンツのポケットを探った。
指先だけ汗ばんで、端末ケースが滑る。
隣のすずは、淡い紫のワンピースにモカの薄い羽織。髪は低い位置でまとめられていて、額にかかる短い毛だけが湿っていた。
「ねえ、今日さ。手、暑い」
「暑い日ほど、端末が最初から満ちてるよ。触れただけで終わるから」
すずが笑うと、りおは半信半疑のまま、端末を取り出した。
電源表示は、すでに落ち着いた緑に近い点灯になっている。
何もしていないのに、ほとんど満電みたいに見えた。
ふたりが歩道の端を曲がると、手すりの金具ではなく、表面が滑らかな板が現れた。
都市温感板、アーバンプレート。
公共構造物の一部として埋め込まれていて、ただの手すりにしか見えない。
りおが何気なく触れた瞬間、端末が一度だけ短く震えた。
画面に出たのは残量の数字じゃない。
満電、と小さく出て、すぐ消える。
確かめる暇もないくらい短い表示だった。
「今の、満電?」
「うん。夏は外の熱だけで端末が満ちる。触れた瞬間に、満ちてるって確定されるだけ」
りおはもう一度、今度は手のひらを板に当てた。
板は冷たくない。外の熱を抱えてぬるいまま、ずっと待っている。
触れた側の皮膚から、ほんの少しだけ熱が抜ける感じがした。
画面が切り替わり、今日の推奨行動が並ぶ。
水分、姿勢、移動の順番。
見慣れた項目なのに、今は手すりに触れただけで出てきた。
「街が、端末を動かしてるみたいだな」
すずは歩幅を落として、りおの腕に軽く触れた。
その瞬間、りおの端末がまた震えた。
触れた場所は手すりじゃない。人の皮膚だ。
「ほらね。触れただけで、満電が続く日」
りおは照れて笑いそうになったが、周りを見て口元を整えた。
この街では、笑い方にも角度がある。
周囲の人たちは、ベンチに座るときも同じ方向に身体を向け、沈黙が揃っている。
広場の中央にある長いベンチへ向かう。
ベンチの縁にも、アーバンプレートが埋め込まれていた。
目立たないように、材質が周囲と揃えられている。
ただ、日差しの反射の仕方だけが少し違う。
すずが先に腰を下ろし、りおは隣に座る。
背もたれに手を置いた瞬間、ベンチの端に小さな表示が点いた。
満電、という文字が一度だけ出る。
次に、整流、という短い表示が流れる。
説明はない。満ちていることだけが示される。
りおの端末は画面を勝手に暗くして、通知だけを小さく出す。
満電維持。
動線逸脱なし。
そして、安心補助映像は本日不要。
「なんか、恋人と座っただけで、満電の確認されてる感じする」
「確認されてるだけ。夏は最初から満ちてるから、触れた瞬間に“満ちてる”って確定される」
すずはそう言って、りおの指先をつまむ。
ふたりの手が重なった瞬間、りおの端末がまた一度だけ震える。
今度の表示は、さらに短い。
満電安定。
りおは思わず自分の手を見た。
ただ手をつないだだけなのに、何かが整ってしまった気がする。
街に対して、生活の操作をひとつ終えたみたいに。
ふたりは、そのまま商業通りへ向かった。
路面の材質が変わる場所で、靴底がわずかに吸い付く。
歩くだけで発電する区画だ。
小さな振動が足裏に伝わり、端末がそれに同期するように震える。
通りの外壁も、床も、柱も、ただの建材に見える。
けれど暑い日ほど、街全体が満ちている。
人が触れなくても、勝手に満電の状態が続く。
その状態で触れた瞬間だけ、記録が濃くなる。
カフェの入口。
りおがドアノブに触れると、店の案内端末が先に起動した。
誰もボタンを押していないのに、入店の導線が点灯する。
すずが軽く首を傾ける。
「入る前に、もう満ちてる感じ」
りおは笑いながら、端末を見せた。
画面には、注文の推奨がもう並んでいる。
飲料は冷却。甘味は少量。滞在は短め。
最初から整っている前提で、全部が進む。
「俺、まだメニュー見てないんだけど」
「見なくても終わるように作られてるんだよ。迷いが少ないほうが、静かだから。静かなほうが、満ちたままでいられる」
店の中は涼しすぎない温度で揃っていて、椅子の脚が床に触れる音まで小さい。
客は会話をしないわけじゃない。
けれど声が上がらない。
言葉の代わりに、端末の短い震えが増える。
ふたりは窓際の席に座った。
りおがテーブルの縁を指でなぞると、そこにもアーバンプレートの感触がある。
木目風の加工の下に、都市温感板が埋め込まれている。
すずがりおの手の甲に指先を置いた。
恋人らしい仕草なのに、動作が小さい。
この国では、感情が大きいと揺らぎとして扱われる。
だから、触れる。
そのかわり、声を抑える。
「ねえ。満電ってさ、便利だね」
「便利だよ。探さなくていいし、切れないし」
「でも、触れたことまで、全部“満ちてる”って扱われる」
りおは言いかけて止めた。
店内の柱の上、目立たない位置に小さなレンズがあったからだ。
レンズの周りの淡い緑の点灯は、暑さで少し明るい。
すずはりおの手をぎゅっと握った。
強くは握らない。
指の力が揃う程度に、そっと。
「満ちてるって言われると、足りないって言えなくなるよね」
りおは、胸の奥が一瞬だけ熱くなった。
その熱も、きっとどこかで満ちた記録の一部になっている。
店を出て、夕方の駅へ戻る。
改札前の手すりに触れた瞬間、ふたりの端末が同時に震えた。
触れたのは同じ板。
同じ熱。
同じ満電。
改札は、カードを近づける前に準備を終えていた。
財布の中で、交通カードがすでに満ちている。
夏の街は、勝手に満電になる。
「ねえ」
「なに」
「今日は、ずっと満ちてた気がする」
「うん。満ちてるから、触れるだけで進む」
ホームの床にも、細い帯のようにアーバンプレートが埋め込まれていた。
立つ場所は自然に決まる。
そこに立てば、端末が整う。
そこに立たなければ、整わないだけ。
電車が来る。
風が少しだけ動く。
それでも熱は残ったまま。
りおは、すずの指先をもう一度つまんだ。
恋人としての確認のつもりで。
端末が、また短く震える。
満電。
接続。
安定。
ふたりは何も言わずに、同じタイミングで息を吐いた。
大和国の夏は、触れただけで満ちる。
街が巨大な満電の箱である限り、ふたりの距離さえ、勝手に記録の中で整っていく。