テラーノベル
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朝の街は、やけに明るかった。
露店の布は風に揺れ、果物の色は鮮やかで、
子どもたちの笑い声が通りを跳ねている。
石畳は昨夜の雨を乾かしきれず、
ところどころが鈍く光っていた。
その中を、一人の男が歩いていた。
外套は黒い。
布地は擦り切れ、裾は泥で重くなっている。
背は高いが、姿勢は歪み、
肩がわずかに前へ落ちていた。
顔は、半分だけ見える。
フードの影に隠れた頬はこけ、
肌は不自然に青白い。
そして――目。
焦点が合っていない。
人を見ているようで、見ていない。
男は、街を「眺めて」はいなかった。
選別していた。
行商人の横を通り過ぎる。
違う。
武器屋の前で立ち止まる。
店主と目が合う――が、すぐに興味を失う。
「……弱い」
掠れた声が、喉の奥から漏れた。
通りを行く冒険者の一団。
剣を担ぎ、笑いながら歩いている。
男の視線が、ぴたりと止まる。
一人。
魔力を帯びた気配が、わずかに揺れた。
だが――
「……足りない」
舌打ちに近い音。
男は、ふらつくように歩き出す。
その足取りは重い。
まるで、身体の中から何かを削られているかのように。
外套の内側で、何かが脈打った。
布越しに浮かぶ、淡く黒い光。
それは魔力――いや、歪んだマナだった。
男は胸元を押さえ、低く笑う。
「……まだだ」
呼吸が荒い。
目の奥が、異様に爛々と光る。
「まだ、喰える」
街の中心を外れ、影の濃い路地へ入る。
明るさが、そこで途切れる。
壁に手をつき、男はしばらく動かなかった。
汗が頬を伝い落ちる。
その指先が、わずかに震えている。
「……耐える刀……」
誰にともなく、呟く。
「……作れ、って言っただろ」
言葉が、噛み砕かれるように歪む。
鍛冶屋の親父が見た“目”。
それは、まさにこの目だった。
――すでに、何かを使い切った者の目。
だが同時に、
次を求めてやまない飢えた獣の目。
男は、再び顔を上げる。
通りの向こう。
人の流れの中に、微かに感じる“濃い”気配。
「……あそこか」
笑った。
口元だけが、歪に吊り上がる。
外套の奥で、黒いマナが、ぞわりと蠢いた。
明るい街並みの中で、
誰にも気づかれずに。
男は、
次に壊すものを決めた。
男の背中が、人混みに溶けていく。
黒い外套は、朝の色の中で、
ほどなく見えなくなった。
――その頃。
通りを一本挟んだ先。
パン屋の前で、
二人の少女が立ち止まっていた。
焼き上がったばかりのパンの匂いが、
甘く鼻をくすぐる。
店先では、まだ湯気の残る籠が並べられ、
客を呼ぶ声が、通りに軽やかに響いていた。
「わ、もう焼けてる」
ミレーナが、嬉しそうに声を弾ませる。
「この時間のパン屋、反則だよね」
「絶対お腹すくやつ」
リィナも、思わず小さく笑った。
その喧騒の端に、
一枚の紙が貼られている。
《魔力自慢、募集》
《優勝者には賞金および生涯安定した生活を保証》
リィナは、無意識に足を止めていた。
「……これ……」
ミレーナが、肩越しにのぞき込む。
「なに?」
「ああ、またそれ? 最近よく見るよね」
彼女は気にも留めず、軽く笑う。
「イベントでしょ?」
「魔力測って、ちょっと見せ合って、はい終わり、みたいな」
「……うん……」
そう返しながらも、
リィナは紙から目を離せずにいた。
「ねえ、それよりさ」
ミレーナが、くいっとリィナの袖を引く。
「今度、一緒に行こうよ」
「隣国の……ほら、あの」
「……ケーキ?」
リィナが、思い当たったように言う。
「そうそう!」
「すっごく美味しいって噂のやつ!」
「朝から並ばないと買えないんだって」
「……甘いの、好きだもんね」
「好きっていうか、幸せになれるじゃん」
ミレーナは、何でもないことのように笑った。
「仕事終わりにさ」
「一緒に行って、ケーキ食べて、」
「それでまた文句言いながら帰ろ?」
リィナは、少し困ったように笑う。
「……うん」
「約束、だよ」
「やった」
ミレーナは、満足そうに頷いた。
――なのに。
リィナの胸の奥が、ざわつく。
おかしい。
文字は丁寧だ。
紙も新しい。
内容も、どこかで見た覚えがある。
魔物の気配ではない。
人間の魔力とも、違う。
それは、
“何もない”はずの場所に触れたときの感覚に、よく似ていた。
「……ミレーナ」
「ん?」
「これ……ちょっと、変じゃない?」
ミレーナの表情が険しくなった。
「そう?」
「賞金が怪しいって意味なら、まぁ怪しいけどさ」
「……そうじゃなくて」
言葉を探す間に、
リィナの背筋を、冷たいものが撫でた。
――見られている。
そんな気がした。
リィナは、はっと顔を上げる。
通り。
行き交う人々。
笑い声。
荷を運ぶ音。
いつも通りの朝。
「……?」
振り返る。
だが、そこにいたのは、
果物籠を抱えた行商人と、
値段を交渉する客だけだった。
影もない。
視線もない。
「……気のせい、かな」
小さく呟く。
ミレーナが、少し心配そうに覗き込む。
「どうしたの?」
「顔、青いよ?」
「ううん……大丈夫」
リィナは、もう一度だけ張り紙を見る。
紙は、
風に揺れているだけだった。
「……ケーキ、楽しみだね」
ぽつりと、リィナが言う。
「でしょ?」
ミレーナは、屈託なく笑った。
――けれど。
胸の奥の違和感だけが、
どうしても、消えなかった。
日が傾く。
街の色が、ゆっくりと沈んでいく。
昼の喧騒は、
角を曲がるごとに薄れていった。
露店は布を畳み、
残った果実は、籠ごと抱えられて運ばれていく。
石畳は、
朝の湿り気をすっかり失い、
昼に溜め込んだ熱を、夜気へと逃がしていた。
仕事を終えた人々が、家路につく。
笑い声は低くなる。
足音は、ばらばらになる。
街は、
ゆっくりと「夜の時間」にほどけていった。
リィナとミレーナも、
並んで歩いている。
昼間より、少しだけ静かな通り。
灯り始めたランプが、
石畳に長い影を落としていた。
さっきまで続いていた他愛ない会話は、
いつの間にか、途切れている。
沈黙が気まずいわけじゃない。
ただ、
昼の明るさが、遠ざかっただけだ。
――そのはずだった。
リィナは、無意識に胸元へ手を当てる。
――消えていない。
朝から感じていた、
あの違和感。
強くなったわけじゃない。
けれど、
薄れてもいなかった。
それどころか。
空気の奥に、
別の気配が混じり始めている。
鉄でもない。
血でもない。
もっと薄く、
もっと冷たい。
――生命が、削られたあとの匂い。
魔力を持つ者だけが、
本能で“拒絶”する感覚。
誰かが、
どこかで倒れ、
呼吸だけを残して放置されている。
そんな、
最悪の想像を呼び起こす気配。
まるで、
背後に“視線”を置き忘れたような感覚。
街は、静かだ。
遠くで、酒場の笑い声。
鍛冶場の火が落ちる音。
誰かが戸を閉める気配。
すべてが、
「いつもの夜」を作っている。
――だからこそ。
その中に紛れ込んだ“歪み”は、
異様なほど、はっきりしていた。
空気が、
一瞬だけ、重くなる。
胸の奥を、
指でなぞられたような感触。
理由は分からない。
音も、匂いも、変わらない。
それでも、
確かに“何か”がいる。
すでに奪い終え、
次を探している“何か”が。
リィナは、足を止めかけ――
そのまま、歩き続けた。
気のせいだと、
自分に言い聞かせるように。
その少し後ろ。
灯りの届かない場所で、
影が、ひとつ、揺れる。
そこにあったのは、
人の温度だけが残された、空白だった。
通りを抜けた先。
ランプの数が、目に見えて減っていく。
人の気配も、
音も、
急に遠くなった。
「……近道だよね?」
ミレーナが、軽く振り返る。
「うん。
この道抜けたら、すぐだよ」
リィナはそう答えながら、
足元を見ていた。
石畳の影が、
妙に濃い。
「ねぇリィナ」
「なに?」
「さっきからさ……」
ミレーナが、言葉を切る。
「……空気、重くない?」
リィナは、即答できなかった。
――感じている。
自分も。
「……気のせい、かも」
そう言いながら、
胸の奥が冷える。
その瞬間だった。
「――――」
音が、消えた。
風の音も。
遠くの笑い声も。
まるで、
この一角だけが切り取られたみたいに。
「……え?」
ミレーナが、足を止める。
「なに、今の……?」
リィナが振り返る。
ミレーナの影が、
足元で歪んでいる。
「ミレーナ、動かないで」
「え?」
次の瞬間。
「お嬢さん……こんばんは」
背後から、
声がした。
そこに立っていたのは、
**人の形をした“男”**だった。
外套は黒い。
顔は影に沈み、
口元だけが、不自然に笑っている。
「もう、お帰りですか?」
ぶつぶつと、
独り言のように言葉を重ねる。
「若いって、いいですねぇ……
ああ、羨ましい」
リィナの背筋が、凍る。
――魔物じゃない。
――人間でも、ない。
「……ミレーナ、下がって」
「え? ちょっと、なにこの人――」
男の影が、
一気に膨らんだ。
黒い何かが、
ミレーナの足元から絡みつく。
「……っ!?」
声を上げる暇もなかった。
影が、
ミレーナの身体を包む。
「ミレーナ!」
「リィナ!
なに、これ……!」
男が、楽しそうに笑う。
「安心してください。
痛くはありませんよ」
「ただ……
“運ばれる”だけです」
「……壊れたら、
使えなくなりますからねぇ」
「やめろ!」
リィナが、魔力を解放する。
光が走る。
だが――
間に合わない。
影が、
ミレーナごと“沈んだ”。
「――っ!」
路地の奥。
闇の向こうへ。
残されたのは、
静寂だけだった。
「……っ、待って……!」
リィナは、震える手で胸元を押さえる。
精霊紋が、淡く光った。
「お願い……」
息が、乱れる。
「……届いて……!」
ギルド。
事務処理の書類を整理していたエリスの前に、
見覚えのない小さな光が、ふわりと舞い込んだ。
「……?」
触れた瞬間。
視界が、反転する。
夜の路地。
不気味な男。
影に包まれるミレーナ。
「……えっ……」
エリスは、言葉を失った。
「こんな大変なときに……いないって」
「ほんと……
使えないんだから」
言葉は辛辣。
けれど、体はすでに動いている。
「案内して。」
小さな光は返事をするかのように、
舞い上がった。
「待って、その森、
移動魔法が使える場所だから。」
森。
リィナの生まれ育った場所。
精霊の光が、
夜の森を導いていた。
「……ミレーナ……」
辿り着いた先。
そこには、
巨大な魔法陣が刻まれていた。
中心に、
倒れ伏すミレーナ。
「ミレーナ!」
呼びかけても、反応はない。
「ふふ……」
男が、魔法陣の縁に立っていた。
「イッヒッヒヒー」
「次は君の番だから……
少し待っていてね」
気味の悪い笑い。
「やめて……!」
リィナは、剣を構えた。
「精霊よ、我が声に応えよ。
この剣に、息吹を。
——宿れ」
精霊の光が、刃を包む。
「邪魔するんじゃない」
男の声が、低くなる。
「魔力が……
必要なんだよ」
「分かるだろ?」
次の瞬間。
男の身体が、
歪んだ。
黒い魔力が噴き出し、
肉体が変形する。
爪が、伸びる。
口から、毒の息。
目は、蛇のように細く光り、
舌が、二股に裂けた。
「……邪魔するなぁっ!」
男が、吼える。
――戦闘。
殺気が、
正面から叩きつけられた。
男が、地面を蹴った。
一歩。
距離が、消える。
「――っ!」
リィナは、半身で踏み込み、
剣を横に払う。
金属音。
火花が、弾けた。
防がれた。
「速い……!」
男の爪が、
空気を裂く。
避けきれず、
肩口をかすめた。
男が、大きく息を吸い込む。
嫌な予感。
――まずい。
間に合わない。
黒い霧が、
至近距離で吐き出された。
次の瞬間。
息が、詰まる。
毒だ。
腕が、しびれる。
指に、力が入らない。
足が、重い。
言うことを、きかない。
それでも。
リィナは、
一歩、前に出た。
足が、もつれる。
視界が、揺れる。
「……来るなら……来なさい……!」
剣先が、わずかに震えた。
――まだだ。
覚醒には、
届いていない。
「……リィ……ナ……」
かすかな声。
「……ミレーナ……!」
「……待ってて……
いま、助けるから……!」
剣を、握り締める。
精霊剣。
震える手で、構え直す。
「お願い……」
息が、乱れる。
「……いまだけでいい……」
刃が、かすかに光る。
「——力を、貸して」
男が、勝利を確信したように笑う。
「もう終わりだよ」
一歩。
とどめの距離。
――その瞬間。
地面を、
影が這った。
音もなく。
確実に。
影は、
みるみる輪郭を持つ。
白い髑髏の仮面。
漆黒のマント。
深く被ったフード。
手には、
大鎌。
死神のような姿。
敵か、味方か。
分からない。
分からないまま――
すべてが、
終わった。
影が、踏み込んだ。
鎌が、水平に走る。
風を切る音すら、
遅れて届いた。
次の瞬間。
男の身体が、
静かに、崩れ落ちた。
魔法陣が、
砕け散る。
「……え……?」
リィナが見たのは、
回収だった。
男の身体が、
影に溶ける。
そして。
ミレーナも。
「……待って……!」
叫ぶ。
届かない。
影は、
等しく持ち去っていく。
善も。
悪も。
命も。
すべてを。
影は、
何も言わず、
夜に溶けた。
残されたのは、
崩れた魔法陣と、
静まり返った森。
膝から、崩れ落ちる。
「……なんで……」
声が、震える。
そのとき。
背後で、
草を踏む音。
「……間に合わなかった、か」
低い声。
振り返ると、
エリスが立っていた。
マントの裾に、
転移の残滓。
状況を見て、
すべてを悟った顔。
「……最悪ね」
「ほんと……面倒な事件」
吐き捨てるように言って、
それ以上は何も言わない。
エリスは、
ただ近づき、
リィナの肩に手を置いた。
強くも、
優しくもない。
現実を確かめるだけの手。
「……泣いていいわよ」
それだけ言って、
そばに立つ。
リィナは、
歯を食いしばりながら、
呟いた。
「こんな世界……
もう、要らない」
エリスは、
否定しなかった。
その言葉を、
森と、
まだ名を持たない“何か”だけが聞いていた。
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