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──数日後。
朝の廊下は、乾いた蛍光灯の光に満たされていた。
登校する生徒たちの足音が、一定のリズムで響く。
その中で、日下部は何も言わずに通り過ぎていった。
視線すら交わらない。
それでも、彼の歩き方だけで、遥には分かる。
眠れていない。呼吸が浅い。肩の動きが不自然だ。
──声をかけたら、また壊す。
その恐怖が、のど元に重く絡みつく。
遥はただ、教室の入口から、あの背中を見送る。
それだけの距離が、永遠みたいに感じられた。
教室に入ると、机の上には何もない。
以前なら、誰かがわざと消しゴムを切って置いていったり、
椅子を後ろ向きにされていたりした。
けれど今は、それすらない。
静かだ。
“何も起きない”という事実が、妙に痛い。
昼休み。
弁当の箸を動かしながら、周囲の笑い声を聞いている。
蓮司の笑いも、近くで聞こえる。
彼はいつも通り軽やかに振る舞い、周囲を笑わせていた。
それなのに、ときどき視線がこちらに流れてくる。
それに気づくたび、遥は下を向く。
箸の先が、わずかに震えた。
午後の授業。
黒板の文字が、霞んで見えた。
内容は頭に入らない。
ただ、ノートを取るふりだけして、
机の隅に指を置いていた。
──日下部の席までは、三つ分の距離。
その近さが、どうしても遠く感じる。
放課後。
誰もいなくなった廊下を歩いていると、
背後から、靴音が近づいてくる。
軽い、迷いのない足取り。
聞き慣れた声が落ちた。
「もう、“片付いた”んだろ?」
蓮司だった。
口調は柔らかく、どこか冗談めいている。
けれど、その中に混じる冷たさが、耳の奥を凍らせた。
「……何が」
遥は振り向かずに答える。
「お前と日下部。ほら、いろいろ“あった”じゃん。
でも、もう終わっただろ? あいつ、何も言ってこないし」
“終わった”という言葉が、やけに重く響いた。
遥は息を詰めたまま、何も返せなかった。
蓮司はそれを見透かすように、笑う。
「な? もう“片付いた”んだよ。世の中、そういうもんだ」
その声が、ひどく優しい響きをしていた。
だからこそ、余計に痛い。
“片付いた”という言葉の中には、
失われたものも、見捨てたものも、
すべてがまとめて押し込められている。
遥は小さく頷くふりをして、その場を離れた。
蓮司の足音が遠ざかる。
代わりに残ったのは、自分の呼吸の音だけ。
帰宅しても、心は落ち着かなかった。
部屋の明かりをつけず、机に座る。
引き出しの奥から、あの日の“メモ”を取り出した。
「もう、話しかけんな」
その文字が、夜の闇の中で淡く浮かんでいる。
破ろうとする。
指先に力を込める。
けれど、紙の端を裂く直前で、手が止まった。
破ったら、何かが本当に終わる気がした。
──まだ、終わりにはしたくない。
そんな自分の未練が、浅く息を詰まらせる。
窓の外では、街灯がにじんで見える。
手の中で、紙がくしゃりと音を立てた。
破れないまま、ただ握りしめる。
指先が痛い。
それでも、離せなかった。
その夜、遥は一度も眠れなかった。
閉じたまぶたの裏で、何度も同じ光景が繰り返される。
あの日の教室。
泣きそうな日下部の顔。
そして、あの言葉。
──“もう、話しかけんな”。
耳の奥で、何度も何度も、繰り返し響く。
静寂が、まるで罰のように長く続いていた。