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昼下がりの廊下。授業の合間、教室からこぼれる声と笑いが、薄く壁越しに響いていた。
遥はノートを抱えたまま、人気の少ない角を曲がる。
その瞬間、反対側から来た影とぶつかった。
「……っ」
乾いた音とともに、教科書が床に散らばる。
反射的に、遥は膝をついた。
「ご、ごめ──」
言い終える前に、相手の顔を見て言葉が止まった。
日下部だった。
彼も同じように膝をつき、無言で落ちた教科書を拾い集めていた。
二人の指が、同じページの端に触れた。
紙の感触が、妙に鮮明だった。
そのまま、ほんの一瞬、視線がぶつかる。
時間が止まるようだった。
けれど次の瞬間、日下部は小さく息を呑み、目を逸らした。
何も言わずに立ち上がると、教科書を抱えて歩き出す。
背中が、ためらいなく遠ざかっていく。
ただその右手が、わずかに震えていた。
遥は、拾い損ねたプリントをぼんやり見つめたまま、
しばらく立ち上がれなかった。
喉の奥が乾く。
声を出せば、また壊す気がした。
──まだ怒ってる。
でも、それだけじゃない。
あの一瞬の目に残った何か。
痛みでも憎しみでもなく、もっと形のないもの。
たぶん、悲しみでもない。
けれど確かに、まだ何かが生きている気がした。
それが何なのか分からない。
だからこそ、余計に苦しい。
理解できないまま、また踏み潰してしまいそうで怖い。
遥は、自分の指先を見つめた。
ほんの一瞬触れただけの指が、まだ熱を覚えている。
その熱が罪悪感の形をして、離れなかった。
チャイムが鳴る。
周囲が一気に騒がしくなる。
廊下を走る靴音、笑い声、誰かの呼び声。
世界が何事もなかったように動き出す。
──“普通”が戻ってくる。
けれど、遥にとってその“普通”こそが地獄だった。
教室に戻ると、すでに机の上には砂消しの粉が撒かれていた。
椅子の脚にはガムテープが巻かれ、床に貼りついている。
誰かの笑いが背中をかすめた。
「お前、まだ日下部のストーカーやってんの?」
「触んなよ、汚い」
声の主は分からない。
けれど、もう誰の声でも同じだった。
笑いと軽口が、すべて一つの音に聞こえる。
遥は、ただ椅子を動かそうとして、うまく外れず、
そのまま無言で座った。
ガムテープが軋む音が教室に響く。
誰も気にしない。
その“無関心の賑やかさ”が、いちばん息苦しい。
机の中からノートを出す。
表紙に残った古い汚れを、指でなぞる。
──日下部の手の震え。
その映像が、何度も何度も頭をよぎる。
まだ、完全には壊れていない。
でも、もう戻れない。
その狭間で、遥はただ静かに呼吸をしていた。