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「再来週の土曜なんだけど、発表会の受付って頼めるかしら?」
そんな電話が実家から掛かって来たのは、睦美が最寄り駅から自宅までの通りを歩いている時だった。久しぶりに聞いた母の声は変わらず少し早口で甲高くって、頭の中でシフト表を捲ってスケジュールを思い出そうとするのを早く早くと急かされている気分だった。
教室で子供達にレッスンする際はもっと穏やかな口調なのに、家族の前では本来の忙しない性格が丸出しになる。
「接客業なんだから土日に休めるはずないでしょ。もっと前もって言ってくれなきゃ、シフトの希望も出せないじゃない」
仕事だと返事すると、「たまには帰って来て手伝ってくれてもいいじゃない」とあからさまに嫌そうな声を出されて、睦美も逆ぎれ気味に反論する。公休日は平日が基本の娘の仕事を全く理解してくれようとしないのが腹立たしい。
それに手伝いに行ったら行ったで、母からは「いつまで独りでいるつもりなの」だの「誰々はもうすぐ二人目が生まれるらしいわよ」なんて小言や噂話をグチグチと聞かされる上に、生徒の保護者達からも物珍しいものでも見るような目を向けられるのがオチ。「娘さんもどこかで教室をされてるんですか?」なんて当然のことのように聞いてくる人だっていないわけじゃない。
「人に頼むと後々で気を使うのよねぇ」
他の教室の先生や保護者だとお礼をケチる訳にもいかない。娘なら安上がりで済むという本音が駄々洩れしている。
「もういいわっ」という半ば逆切れの言葉のついでに、「たまには顔を見せに帰ってらっしゃい」と親らしい台詞を付け加えて、こちらの返事も待たずに一方的に電話は切られた。
母と話すといつもモヤモヤだけが残って、しばらくは心がザワザワと落ち着かなくなる。
翌朝のシフトも普段通りの遅番勤務。でも、取り扱いメーカーの担当者から新商品のカタログを持ってくると連絡を受けていたので、少し早めに売り場へと顔を出した。早番の小春はハンディモップを持って売り場中の棚掃除で忙しそうにしていた。客足はそれほど多くはなさそうで、売り場横の通路をエスカレータへ向かう人がちらほらいる程度。
店内放送だけが静かに流れる中、季節商品の引き上げ分の赤伝を記入していると、背後からよく通る低めの声が聞こえて振り返る。
「お世話になっております。三好さん、ご無沙汰しております」
セミオーダーの細身の黒スーツを身につけた、服飾メーカー営業の岩井が人懐っこい笑顔を浮かべて挨拶してくる。この売り場の商品の多くを取り扱っている商社に勤める彼は、他のどの営業担当よりも店に顔を見せる頻度が高い。本社が近いというのもあるけれど、メーカーによっては全てを電話で済ませてしまうところもあるから、熱心な社風なのかもしれない。
ハンカチやスカーフ、傘、帽子など、岩井の会社から卸している商品はいろいろで、ライセンス契約しているブランドの種類も多い。人気のあるブランドを一手に押さえていて服飾メーカーの大手と言ってもいい。
睦美が以前に勤務していた店の男性上司は彼と歳が近いということもあり、個人的に一緒に飲みに行ったりしていたみたいだった。で、それ経由で聞いた話によると、見た目の爽やかさに反してプライベートはかなりゴタゴタしているという噂。
――確か、学生結婚して二十代は全然遊べてなかったから、今はめちゃくちゃ好き勝手してるって言ってたっけ……
それを聞いて以来、岩井が笑いかけてくると無意識に彼の左薬指を確認してしまうようになった。そして、シルバーの結婚指輪が煌めいているのを見て、なんだか釈然としない気分になる。本当は根も葉もないことかもしれないけれど、刷り込みって恐ろしい。
胸の内ではいろんな想像をしつつも、睦美は平静を装って岩井から受け取ったカタログへ目を通していく。来シーズンから新しく取り扱うことになったブランドは、しばらくはコーナーを作ってシリーズ展開して欲しいという要望に、睦美は少しばかり難しい顔をする。
「ワンブランドだけでの展開って、うちではあまり前例がないんですよね……通常はアイテムごとの陳列になるので」
「ですよねぇ、でも、一旦注目さえして貰えれば、すごく動くと思うんですよ。雑誌でも取り上げられることも多いブランドですし」
「他の店はどんな感じなんですか?」
「……他も同じような反応ですねぇ、棚にはあまり余裕がないとかで」
だと思った、と心の中で大きく頷きながら、睦美は「うちも難しいですね」と繰り返した。棚数には限りがあるのに、服飾というのは元から取り扱い品目が多すぎるのだ。年々新しいアイテムが流行る上に、日傘のように以前は期間限定の取り扱いだったものが最近ではシーズン関係なく出回るようになったりもしているし。
「そう言えば、岩井さんのところはフォーマルなブローチって取り扱いされないんですか? 最近、コサージュよりもブローチを探しておられる方が増えてるんですけど」
春の卒入学シーズンに必ず作るコーナーには、近頃ではコサージュと同じくらいブローチが並ぶようになった。スーツ以外でも使えるということもあって、定番のコサージュよりもブローチの方が睦美自身もお勧めし易いと思っていた。
「ブローチだとオールシーズン、何かしら使えて便利なんですよね。ストール留めとしてもお勧めできますし」
「あー、社内でも話題には上がってるみたいなんですが、今のところは……実はさっき、上のフォーマル売り場でも同じこと聞かれたんですよ」
「あ、フォーマルにも顔出されたんですか?」
「ええ、柿崎さんもブローチの取り扱いを増やしたがっておられました。なんすか、もうコサージュは厳しいんでしょうかね?」
「そんなことはないと思いますけどね」と答えながらも、香苗も同じことを考えていたのかと、睦美は少し嬉しくなった。