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物音がすることに気付いて目を開けた。
スリッパの軽い足音。
電気ケトルに水をそそぐ音。
午前六時。
毎朝同じこの時間が、規則正しい彼女の一日の始まりだった。
一人暮らしをしていた部屋から、こうして物音が聞こえるようになってしばらく経つが、いまだに慣れない。
誰かと暮らすなど、十代の後半から数えて十数年ぶりになるからだ。
まったく、自ら望んだことなのに情けなく思う。
しばらくして、俺は外出する準備をしようと自室から出た。
「おはようございます」
リビングに行くと、すっかり身なりを整えていた彼女が俺に笑いかけた。
以前、スタイリストさんに選んでもらったモスグリーンのワンピース。
少し栗色がかってやわらかにウェーブした髪が、華奢な肩で揺れている。
その姿は朝日に溶け込むようにやさしくて、俺はその素朴な笑顔につられるように、口元を緩ませた。
「おはよう。今朝も早いんだね」
「両親がいつも早起きだったから、朝は得意な方なんです。朝食、召し上がりますか?」
キッチンには小鍋から湯気がのぼり、ダイニングテーブルには二人分の茶碗があった。
「今朝も作ってくれたのかい? すまない、今日も早朝から打ち合わせが入っているんだ」
「そうですか。今日もお忙しいんですね」
うなずいて労わってくれるような微笑を浮かべる彼女に、ちくりと罪悪感を覚える。
掃除洗濯はハウスキーパーに任せたものの、食事だけは作りますと彼女は申し出てくれた。
俺は固く遠慮した。
そんなことをさせるために君に妻になってもらったわけではない。それに仕事の都合で予定が急変することもあって、君に迷惑がかかるから、と説明した。
それでも彼女は「作るのは私のわがままだと思ってください」と言って、こうして用意してくれている。
俺が和食好きと聞いていたから、今朝もキッチンは味噌汁の良い香りがする。
彼女くらいの歳の子は、パンやグラノーラが好きだろうに。
彼女に良かれと思ってしている配慮のはずなのに、逆に彼女を傷付けてしまっているのではないか。
出掛ける準備をしながら、そんな不安を考える。
君を援助するなどという体のいい言葉でたぶらかして、若い彼女の人生を縛り付けてしまったのではないか、と日が経つにつれて、そんな罪悪感ばかりが深まる。
「あ、聡一朗さん、ちょっと待っていただいていいですか?」
準備を終えて玄関に向かおうとすると、彼女が足早にキッチンからやってきた。
そして、手にしていた紙袋を俺に差し出した。
ふわり、といい香りがした。
「パン、作ったんです。これなら持ち運びできるだろうし、軽食としてなにかのつまみでも、と思って」
思わず受け取ると、まだ少し熱いくらいなのが伝わってくる。
「ベーグルです。生地にお野菜のペーストを混ぜて、ささやかですが健康に配慮をさせていただきました」
と、はにかんだ笑顔で言う。
たしかに昨夜はキッチンでなにか作っているような物音がしていたが、まさか俺のためとは。
彼女とて、大学の予習復習や来年度のための受験勉強で忙しいというのに、俺のためにそんな時間を割くなんて……。
なんと返事するのが正解か判からなくて言葉に詰まっていると、彼女は慌てて付け加えた。
「ごめんなさい図々しいことをして。邪魔だったら、捨ててくださっていいですから」
「い、いや、そんな。……ありがとう。クッキーも美味しかったし、きっとこれも美味しいんだろうな」
美良の不安げな表情が、瞬時に笑顔に変わった。
「はい! 自信作ですよ!」
そして、彼女は玄関まで送りについてきてくれた。
「いってらっしゃいませ。お仕事頑張ってくださいね」
「いってくるよ」
遠慮がちな、だが温かい声に送り出されて、俺は玄関を出た。
彼女が送り出してくれたのは今朝が初めてだった。
いつもは好き勝手な時間に慌ただしく出て行くばかりだったから。
結婚生活とはこういう感じなのか。
今更ながら実感して、思わず胸が温かくなるのに気付いた。
俺は実はこんな生活を望んでいたのかもな……。
そんなことを思って、思わず自嘲の笑みをもらす。
なにもしなくていい。
ただ、そばにいてくれれば。
彼女からもう会えなくなると告げられたあの日、よぎったのはそんな焦りだけだった。
気付いたら口走っていた。
結婚して欲しい。
などと。
出会って間もないのに、とんでもないことを口走ってしまった。
そのくせ、利害が一致しただの契約関係だのと冷めた言葉で取り繕って、思いを隠してしまった。
自分の浅ましさ卑小さに、あれほど失望した時はない。
だが同時に、安堵してしまっていた。
これで美良を一生俺のものにできる、と。
車に乗り込むと、息を求めるように溜息をこぼした。
俺の手には、ベーグルの温もりがまだ残っていた。
朝の打ち合わせの後は、一時限目からゼミが入っていた。
今回は準備が少し不十分だったので、資料の点検をプロジェクターでしておきたい。
ゼミ室に近付くと、学生たちの声が室内から聞こえる。めずらしく早めに来たのだろう。
まぁかまわないか、と入室しようとした――が、
「年の差婚! 相手は俺らと歳が変わらないらしいぜ」
「まじで? あの教授が?」