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それは、午後の陽射しがゆるやかに傾きはじめたころだった。
扉につけられた鈴が、ちりんと涼やかな音を響かせた。
「いらっしゃいませ――」
たまが顔をあげると、そこには一人の青年が立っていた。
黒髪に白いシャツ、スーツのジャケットを肩にかけたまま、どこか所在なげな様子。年の頃は二十代半ば、けれど表情には、年齢よりもずっと深い疲れがにじんでいる。
「こちらへどうぞ。窓際の席、風が気持ちいいですよ」
たまは微笑みながら案内し、青年は少し躊躇ったあと、静かに腰を下ろした。
たまは小さなメニューを手渡す。
だが青年は、それを開くことなく、ぼんやりと外の風景を眺めていた。
暫くして
「何か……おすすめ、ありますか?」
「そうですね。じゃあ、『猫又ブレンド』を。少し苦めですけど、心には優しいですよ」
ふっと微笑みを浮かべて、青年は頷いた。
コーヒーを淹れている間、たまは青年の後ろ姿を眺めていた。
風に揺れるカーテンの向こうで、青年の肩は何かを抱えるように縮こまって見えた。
「どうぞ」
湯気を立てるコーヒーカップを置くと、青年は一口だけ飲み、目を細めた。
「……美味しいですね」
それは、まるで初めて口にする味のようだった。
「名前を訊いても?」 「……風間です。風間 翼」
たまはうなずいた。
「じゃあ、風間さん。もしよければ、少しだけ、お話していきませんか? この店はね、悩みを話すと少しだけ、心が軽くなるかもしれないんです」
風間はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……夢を諦めたんです。もう、何をやっても無駄だと思ってて。なのに、なんでか、歩いてたらこの店が見えて……」
それは、誰にも言えなかった心の声だった。
たまは黙って、ゆっくりとその言葉を受け止める。
「諦めた夢って、どんな夢でした?」
風の音と、コーヒーの香りがふたりを包む。
そして、風間が語り出したのは、ある“音”にまつわる物語だった――。
「音楽……です。昔から、ずっと」
風間は、自分の手のひらをじっと見つめながら言った。
「ピアノを弾くのが好きで。音を重ねて、誰かの心に触れるような、そんな曲を作りたくて。大学も音楽系の学部に進んで、いくつか賞も取った。でも……気づいたら、音が怖くなってて」
「怖くなった?」
たまが穏やかに訊くと、風間はかすかに笑って首を振った。
「矛盾してるでしょ。自分の作る音が、誰にも届かないような気がして。評価されるたびに、次はもっとすごいものをって、重圧ばかりが増えていって。気づいたら、ピアノの前に座れなくなってました」
静かな午後の店内に、青年の言葉がゆっくりと染みていく。
「それで……この前、やっと決めたんです。音楽をやめようって。自分には無理だったって」
たまはしばらく黙って、カウンターの奥へと戻った。
やがて、手にしたのは、古びたオルゴールだった。ねこ耳の模様が彫られた、小さな木箱。
「風間さん、これ、巻いてみますか?」
風間は不思議そうにしながらも、そっとオルゴールを巻いた。
カチ、カチ、カチ――そして、微かな音が流れ出す。
それは、どこか懐かしく、胸をくすぐるような旋律だった。シンプルだけれど、まっすぐな、誰かのために紡がれた音。
「この曲、昔、うちに通ってた作曲家の男の子がくれたものなんです。もう、何年も前の話ですけどね」
たまはコーヒーを注ぎながら微笑む。
「彼も途中で音楽をやめてしまったけど、最後にこのオルゴールを置いていきました。“この音が誰かの心に届くなら、それだけでいい”って言って」
風間は黙って、オルゴールの音に耳を傾けていた。
音楽は消えたはずだったのに――今、この音だけが、確かに心に触れていた。
「風間さん。音楽って、きっと“誰かのために奏でる”ことから始まるんだと思います。評価じゃなくて、響きじゃなくて、ただ“想い”を届けるためのもの」
たまの言葉は、風のように優しく、けれど芯のある響きだった。
風間の目が、ほんの少し潤んだ。
「……ありがとうございます。来てよかった。」
「もう一度…頑張ってみようと思います」
そう言って、彼は立ち上がり、深く頭を下げた。
店の扉が開く。
ちりん――と鈴が鳴り、春の風が店内に吹き込んだ。
そしてまた、「喫茶猫又亭」は、静かに日常へと戻っていった。