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午後三時を回った頃、「喫茶猫又亭」はちょうど穏やかな時間帯を迎えていた。
昼のピークが過ぎ、常連たちが帰っていったあとの、静かなひととき。
たまはカウンターに立ち、今日も変わらずコーヒーを淹れていた。
窓の外では春の風が木々の葉を揺らし、猫のクロが窓辺でひなたぼっこしている。
そこへ、風鈴の音と共に、扉がゆっくりと開いた。
「いらっしゃ――」
言いかけたたまの声が止まる。
見慣れない客だった。
やや長めの黒髪を後ろでゆるく結んだ青年。
どこか疲れたような目をしていて、左手には使い込まれたノートPC、右手には分厚い原稿用紙の束を抱えていた。
「……あの、空いてますか」
掠れた声だった。
「もちろん。どうぞ、お好きな席へ」
青年は、店の一番奥、観葉植物のそばの席を選んだ。
人目を避けるように、そっと腰を下ろす。
たまがメニューを渡すと、彼は一瞬だけ迷い、それから小さくつぶやいた。
「ブレンド……じゃなくて……なんか……眠れそうなやつ、あります?」
「ありますよ。おすすめの“夜明け前ブレンド”をどうぞ。カモミールと焙煎豆をブレンドした、やさしい一杯です」
「……それ、ください」
彼は目を伏せたまま、カウンターへと目をやらなかった。
その瞳の奥にあるもの――たまにはなんとなくわかっていた。
それは、“言えない悩み”を抱える人の、共通の目。
たまは静かに豆を挽き、香りの立つ湯をそっと注いだ。
香ばしさとハーブの甘みがふわりと店内に広がる。
――数分後。
「お待たせしました。“夜明け前ブレンド”です。眠れぬ夜の、お供にどうぞ」
たまがカップを差し出すと、青年は小さく会釈した。
そして、両手で包むようにカップを持ち、一口。
「……やさしい味ですね」
「疲れた心に効くんです。……お仕事、大変ですか?」
たまがそっと問いかけると、彼は眉をしかめた。
「……小説家なんです。いや、“元”と言った方が正しいかもしれない。ここ一年、全然書けてなくて」
「スランプ、ですか?」
「……書いても、全部嘘に見えるんです。昔は、登場人物の気持ちが勝手に動いてくれた。けど、今は……全部、自分の言葉に嘘が混じってる気がして。書いても書いても、どこか浅い」
カップを見つめながら、彼は続ける。
「……それでも、書かなきゃいけない。生活のために。でも、心がついてこなくて。だから、逃げてきたんです。」
「この店には、いろんな人が来ます。逃げてきた人も、探しに来た人も、誰かを待ってる人も」
たまはカウンターの奥から、紙とペンを取り出して、テーブルにそっと差し出す。
「書いてみませんか? ここでなら、少しだけ“書ける”かもしれないですよ。誰に見せるわけでもなく、自分だけの言葉で」
青年は黙ってペンを手に取り、紙に向き合った。
最初は迷っているようだったが
やがて静かに、言葉を綴り始める
その日、小説家は最後まで言葉を止めることなく、紙の裏までびっしりと物語を書き綴った。
店を出るとき、彼は振り返って小さくつぶやいた。
「また、来ていいですか」
「もちろん。『喫茶猫又亭』は、いつでも“物語の続きを書きたい人”を待ってますから」
外は、春の夕暮れ。
彼の背中は少しだけ、軽くなっていた。