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館内の灯りが少しずつ戻っていく。エンドロールの音楽がまだ鳴っていた。
暗闇に紛れていた安心が、蛍光灯の白さに一気に剥ぎ取られるようで、遥は息を詰めた。
「……どうだった」
日下部がぽつりと聞く。
遥はしばらく答えられず、スクリーンを見たまま硬直していた。映画の内容なんて、頭にはほとんど残っていない。ずっと、隣で袖を握っていた自分の手の震えと、あの笑い声の残響が胸を圧迫していた。
「……わかんねえ。あんま、入ってこなかった」
小さくそうこぼすと、日下部は「そっか」とだけ返した。責めることも、慰めることもせず、ただ受け取る。
ロビーに出ると、人のざわめきが押し寄せてきた。笑い声、はしゃぐ声。ポップコーンの甘い匂い。どれもが遥の神経をざらつかせる。
足が自然と早くなる。出口へ向かう群れに混じりながら、心臓が速く打つ。
――さっきのやつらがまだいたらどうする。
――また笑われるんじゃないか。
そんな思考が途切れず、頭を埋め尽くした。
「……遥」
呼ばれて立ち止まる。気づけば、日下部が少し後ろにいた。
「そんな急がなくてもいい」
低い声に、遥はようやく息を吐き出す。自分が逃げるように歩いていたことに気づいた。
外に出ると、夕暮れの街はまだ人が多かった。カップルや家族連れが笑いながら行き交う。自分たちもその中の一組のはずなのに、遥はどこか場違いな気がしてならなかった。
「……なあ、日下部」
「ん」
「なんで……平気なんだよ。おまえ、あいつら見ても顔色ひとつ変えねえし。おれなんか、まだ震えてんのに」
声がかすれた。唇の裏を噛んで、やっと絞り出す。
どうしてこいつは、こんなふうに、当たり前のように隣に立ち続けられるんだろう。
自分だったら、きっと嫌になる。
汚い過去を持って、壊れた試し行動を繰り返して、それでもまだ「そばにいろ」と縋りついてくるような人間を――。
「……おれ、ほんとに面倒くせえよな」
ぽつりとつぶやく。自嘲でも、投げやりでもあった。
日下部は眉を動かしたが、すぐに口角を上げた。
「まあな」
あっさり肯定されて、遥は目を見開く。
「……は?」
「面倒くさい。でも、それでいい」
日下部はそう言い切って、遥の手を取った。人通りのある道の真ん中で。
遥は慌てて手を引こうとした。
「おい、やめ――」
「いや。離さねえ」
そのまま強くも優しくもない力で握られた手は、逃げ場を塞ぐようで、でも同時に温度を与えてきた。
視線が合った。
日下部の目に、責める色も軽蔑もなかった。ただ真っ直ぐに「ここにいる」と告げていた。
遥の胸がざわついた。
逃げ出したいのに、どこにも行けなかった。
「……バカだろ、おまえ」
ようやく絞り出した声は、掠れて震えていた。
それでも手を振り払えなかった。
――映画の内容なんか、やっぱり思い出せない。
でも、暗闇の中で握られた手の感触と、今こうして街中で繋がれた手の温度だけは、きっと忘れられない。
遥は俯いたまま、小さく呟いた。
「……おれ、どうすりゃいいんだよ……」
その声を、日下部は聞き逃さなかった。だが何も言わず、ただ隣を歩き続けた。
言葉ではなく歩幅を合わせることでしか、今の遥に触れられないことを、日下部は知っていた。
それでも――その沈黙は、不思議と遥を少しだけ支えていた。