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椿と過ごす初めてのクリスマスイヴに、どうして病院なんかに来ているのか。
それは、全て、従兄弟殿のせいだ。
聖也の話を椿から聞いた三日後のクリスマスイヴ。
一足先に定時で上がった椿は、俺が予約しておいたケーキとオードブルを引取り、マンションに帰った。そして、聖也からの電話を受けて、マンションを出た。
タクシーに乗り込み、駅に着いた俺を乗せ、三十分ほど走らせてやって来たのが、祖母さんのいる病院。
聖也が言うには、今日の祖母さんは意識がしっかりしているから、チャンスらしい。
意識がしっかりしていない方がいいのではと思ったことは、口にしていない。
「だ、大丈夫ですよ。私が一緒ですからね」
眉間に皺を寄せて口を真一文字に結んだ椿。
意外にも冷静な俺とは反対に、ガッチガチに緊張している彼女だが、俺を勇気づけようとしてくれる。
俺は、愛しい女の、緩く編んだ髪を手に取り、指に絡めた。
「折角のクリスマスなのに」
「帰ったらケーキ食べましょう」
「そんな遅くに食って大丈夫?」
「何がです?」
そう言えば、椿が体型を気にする発言を聞いたことがない。
気にする必要がない体型なのは事実だが、日付が変わる直前でも、誘えば酒を飲むし、つまみも食う。
恐らく、病院から帰ったら、本当にケーキを食べる気だろう。
とことん、俺の知っている女とは違う。
「あ、聖也さん」
面会時間残り三十分の今は、まだ病院内に病衣の患者や見舞いの人が行き交っている。
中央に飾り気の少ないクリスマスツリーが置かれているロビーでは、話し込んでいる家族もいれば、相手を待っているような人もいる。
その中に、従兄弟殿がいた。
彼は俺たちを見つけると、ホッとした表情で駆け寄って来た。
「来てくれて、ありがとうございます」
彼はスーツ姿ではなく、スポーツメーカーの黒のダウンにジーンズ、ハイカットのブーツという格好だった。
「昼過ぎから来てたんですけど、随分と調子がいいようなんです。彪さんの名前を出したら、昔の話をし始めて」
「……」
ろくな話じゃないのは明らかで、俺は返事をしなかった。
「彪さんが来ると言ったら、起き上がって身なりを整えてました」
「楽しみにしてくださって、良かったですね」
俺を気遣う椿の、ぎこちない笑顔よ。
「先に言っておくけど、涙の和解、とか期待すんなよ」
「はい」
椿をがっかりはさせたくないけれど、会わなきゃ良かったと後悔する可能性は五分だ。
祖母さんの部屋は、最上階から三階下の特別室だった。
エレベーターを下りると、クラシックが流れてきて、廊下には観葉植物や絵画が飾られている。
特別室はエレベーターを中心に左右に四部屋で、祖母さんの部屋は右だった。
「ホテルみたいですね」と、椿が見回しながら言った。
白が基調で、柔らかなカーペットもないが、確かに雰囲気が病院らしくない。
聖也が一室のドアの前で立ち止まり、コンコンとノックした。
「はい」と中から女性の声がした。
たったそれだけで、一気に緊張が押し寄せる。
この十年、忘れたフリをしていても、身体は憶えている。
祖母の気配だけで身体が竦んだ幼少時代。うんざりした少年時代。諦めた学生時代。
自分が、あの頃に引き戻されるのがわかる。
隣に椿がいることすら忘れてしまいそうなほど、孤独を感じた。
が、それはほんの一瞬。
指先から全身に熱が巡る。
見ると、勇ましく前を見据える椿が、俺の手をギュッと握っていた。
俺は一人じゃない――。
彼女の手を握り返し、離した。
そんな俺たちの空気や仕草など露ほども気づかない聖也は、あっさりドアを開けた。
ガラッと、音がしているはずなのに、聞こえない。
それくらい、俺の全神経が視覚に集中していた。
俺のマンションのリビングほどの広さがある部屋の、正面の奥にベッドがある。足がこちらに向いているから、起き上がると来訪者と正面から目が合う。
そうして、ダブルほどの広さのベッドの背を起こして、彼女はいた。
記憶の彼女とは別人のように頬はこけ、昔はきつく結い上げられていた髪は、緩く編まれて肩に垂れている。その肩も、着物を着ていないからか、小さく見える。実際、小さいのだろう。
着物を着て背を伸ばしていた頃の祖母が大きく思えたのは、幼少期に植え付けられた恐怖からだった。
きっと気づいていた。
気づかない振りをして、家を出た。
小さく年老いた祖母を認めたくなかった。
だから、今、その姿にショックを受けた。
人は誰でも年を取る。
わかっているのに、わかっていたはずなのに、なぜ俺は、十年前の祖母がいると思っていたのだろう。
「お祖母さん、お待ちかねの彪さんですよ!」
聖也が軽い足取りで部屋に入って行くから、なんとなく後に続く。
「こちらの女性が、柳田椿さんです」
「初めまして。柳田椿です。彪さんには、いつも大変お世話になっております」
聖也に紹介され、椿が深々と頭を下げた。
「一緒に暮らしていらっしゃるとか」
祖母の声に、ハッとした。
どんなに老いても変わらない、声と目。
椿を値踏みするような鋭い眼光と、威圧的な口調。
俺は椿を背に隠すように立った。
「彼女と結婚し――」
コンコンとノックされたと同時に、ガラッと勢いよくドアが開く。
「――ねえさ――」
入って来た男性が、俺を見て眉を顰める。
「――彪、か」
不躾に俺の名を呼ぶと、聖也を見やる。
「聖也。お前が連れて来たのか」
「お祖父さん。お祖母さんが彪さんに会いたいと――」
「――駄目だと言っただろう! 十年も前に是枝の家を出た人間が、当主の死期を知って邪な考えを持ったらどうする! お前の立場が――」
「――是枝の財産にも地位にも興味はない」
俺は目の前の年老いた男を見据えた。
十年前と変わらず喚く彼を、間違っても叔父などとは呼びたくない。
「あんたの孫がどうしてもと、俺の婚約者にまで頼み込むから、仕方なく来ただけだ。結婚の報告も終えたし、俺たちはこれで――」
「――結婚、だと!? お前に興味がなくとも、お前の女が狙っていたらどうする! 是枝の財産を! 会社を!」
「やめてください、お祖父さん!」
「お前は黙っていろ! 姉さんがどうしてもと言うから自立できる年まで是枝の家にいることを容認したが、そもそも是枝の血も流れていない人間だ。昔から家族に迷惑ばかりかけた女の落とし子が産み捨てた子供だ。是枝の姓を名乗ることも烏滸がましい! 今すぐ出て――」
「――では、あなたは?」
ギャンギャン吠える老犬の前に立ちはだかったのは、我が愛しの婚約者だった。
「あなたも是枝家の人間ではないですよね」
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