ピンと伸びた背筋と、背中に垂れる三つ編み。こんな時でも見惚れる。
「姉の嫁ぎ先に依存して我が物顔で怒鳴っていますが、情けないとは思わないのですか? 彪さんは、是枝家の血筋ではないかもしれないけれど、あなたとは血が繋がっているでしょう? 姉の孫なんだから。なのに、なぜ、そんなに非情なことが言えるのですか?」
「なんっ……だと!」
顔を真っ赤にして憤慨する彼は、椿を指さした。
「やはりな! お前は彪が是枝の縁者だと知って近づいたな! こんなところにまでのこのことついて来たのがいい証拠だ! 当主である姉さんに取り入って、財産分与でもせがむつもりだったのだろう!!」
「いりません! お金なんて、いりません。私は、彪さんに後悔して欲しくなかっただけです。それから――」
「――それから、金か!? やはり――」
「――お祖母様にお礼が言いたかっただけです」
椿の言葉に、老犬が口を開けたまま黙った。
椿は彼を素通りし、じっと事の成り行きを見ていた祖母のそばに歩み寄った。
そして、もう何度も目にした、深いお辞儀をする。
「彪さんを育ててくださって、ありがとうございました」
ああ、俺は何度彼女に惚れ直すのだろう。
「彪から、どんな育てられ方をしたか、聞いていないのですか?」
こうして冷静になると、祖母の声は記憶より随分細く、弱くなった気がする。
俺が恐れ、嫌悪していたものとは違う。
「聞きました。それでも、お祖母様が育ててくださらなかったら、私は彪さんと出会えなかったので」
「……」
椿は顔を上げ、祖母を見た。
聖也はなぜか泣きそうな表情で、その祖父はなにか言ってやりたいが言葉が見つからないように口をムズムズさせている。
「彪さんはこの若さで部長職に就き、上司や部下からも慕われています。彼と言葉を交わす前から、私は彼を尊敬していました。目をかけていただくようになって、路頭に迷う寸前の私を心配し、助けてくれました。今は、これ以上ないくらい大事にしてくれます。私の、今のこの幸せは全て、お祖母様が彪さんを育ててくださったからです。なので、今日は、お礼を言いたくて彪さんに連れて来てもらいました」
「そう……」と祖母は呟いた。
「お祖母様は、なぜ彪さんと会いたかったのですか?」
いきなり核心を突かれ、俺は思わず息を飲んだ。
祖母の返事如何で、俺がここに来たことを後悔するか否かが決まる。
ここまで来て、祖母さん次第とか言うのは、格好悪いな。
俺はグッと手を握り、顔を上げ、椿の隣に立った。
「お久し振りです」
祖母さんの視線が椿から、俺に移る。
「あなたが俺を呼んだ理由がどうであれ、俺は彼女との結婚を報告するために来ました」
「そう……」
「椿と、家族になります」
「そう」
「今後も、是枝家に関わるつもりはありません。結婚と同時に、是枝の名も捨てます」
「えっ!?」と声を出したのは、椿。
聖也とその祖父も驚いているだろうが、その表情はわからない。
「ここにいる三人はそれぞれ、何かしらの思惑があって俺に接触し、俺に接触したがらなかったのでしょうが、俺は巻き込まれる気はありません」
「そんなっ――!」と、聖也の切羽詰まったような声がして、すぐに彼が俺の隣に立った。
「血筋がどうとかは知りませんが、本来であれば前当主の孫である彪さんが是枝を継ぐのが筋です! 椿さんが言ったように、お祖父さんはもちろん、俺に是枝を背負う資格なんて――」
「――やめないか! 見苦しい!!」
見苦しいのはどちらだろう。
聖也はきっと、是枝家を背負う器も覚悟もない。だから、俺と接触した。
俺の社内での立場なんかを調べた上で、助けを求めようとして。
一方の聖也の祖父は、孫の器も覚悟もそっちのけで、とにかく自分の血筋の者が是枝の実質的トップとなれば、自分は影のトップとして是枝の栄華をわがものに出来ると思っている。
その為に、たった一人の孫を養子に出した。
「今の是枝家に、あなたがそこまでするほどの価値がありますか」
「なにっ――!!?」
「近年の是枝興産の業績が芳しくないことは、少し調べればわかることです。その頃に、お祖母さんが体調を崩されたのでしょう? あなたじゃお祖母さんの代わりは務まらなかったようですね。上層部から、血筋にこだわらず、能力のある者を会長にと声が上がり、あなたは焦って聖也を専務に据えたようだが、彼はそんなことは望んでなかったのではないですか?」
「その通りです! 俺はっ、現場が良かったんだ。なのに――」
「――いつまでそんな甘ったれたことを言っているんだ!」
「もう、限界の様ですね」と、祖母が言った。
「椿さん」
「はい」
「彪のこと、よろしくお願いします」
祖母がゆっくりと頭を下げた。
彼女が腰を折る姿を、初めて見た。
「はいっ! お任せください。私が! 絶対に彪さんを孤独死などさせませんから! 過労死もです!」
俺の椿は、どこまでも勇ましい。
そして、やっぱり微妙に空気が読めていない。
祖母は目を丸くして、フフッと微笑んだ。
彼女の笑った顔も、初めてだ。
「彪、素敵な女性を見つけましたね」
「はい」
「椿さんの言った通りです。あなたに是枝の業を負わせる気はありません。そのつもりで、十年前に家を出しました。あなたには何の罪も落ち度もない。胸を張って幸せになりなさい」
「はい――っ」
俺は祖母に一礼すると、椿の手を引いて病室を出た。
病院の外で、ちょうど客を下ろしたタクシーを見つけ、乗り込んだ。
椿は、何か言いたそうで、何も言わなかった。
俺が彼女の手を握って離さないから、彼女も離さなかった。
マンションに帰るつもりだった。
運転手にも、そう行き先を告げた。
が、マンションまであと十分ほどの場所に来て、椿が言った。
「区役所に向かってください」
俺が、まさか、という想いで見ると、彼女はフワッと微笑んだ。
「大安じゃなくてもいいですか?」
そんなこと、どうでもいい。
仏滅だって、関係ない。
今すぐ抱き締めてキスしたい衝動を何とか堪えた。
区役所に着いたのは、午後十時。
時間外窓口で婚姻届を受け取り、その場で書いた。
俺は仕事帰りだったから印鑑を持っていた。
椿は、いつも持ち歩いている大きめのバッグに、印鑑も通帳も持っていると笑った。
とにかく、俺たちは証人のいない婚姻届を書いた。
そこで気が付いた。
「証人……」
結局、婚姻届は持ち帰った。
「お祖母様に書いてもらえば良かったですかね?」
「いや、いい」
家族のない者同士、互いの身ひとつから始めるのがいい。
「倫太朗は?」
「しばらく留守にするって聞きました」
「そっか……」
今日、提出したい。
明日になって、椿が冷静に借金を返済してからにしたいと気が変わるのが嫌だ。
俺は彼女の手を取って、もう一度タクシーに乗り込んだ。
ある駅名を告げる。
そして、電話をかけた。
「どうしても今日中にお願いしたいことがあって。非常識な時間なのは重々承知していますが――」
『――わかったよ。住所は――』
クリスマスイヴの深夜。
俺たちは、証人の欄を埋めるべく、走った。
静かな住宅街の一軒に到着したのは、三十分後。
「溝口……?」
椿が表札を読んだ。
「えっ!? 溝口部長のお宅ですか?」
「そ」
俺はインターホンを押す。
待ち構えていたように、ドアが開いた。
「お疲れ」
当たり前だが、部長はスーツではなく、トレーナーにジーンズという格好だった。
「すみません、夜遅くに」
「ホントだな。けど、ま、いいさ。入れ」
明るい、家だった。
照明が、じゃない。
雰囲気が。
温かくて、ホッとするような空気。
その理由は、すぐに分かった。
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