翌朝、朔也たちと同じホテルの一室に、沢渡圭と広瀬ユリアがいた。
ユリアは不機嫌だった。
「勘違いだよ。君と婚約するのが分かってて、俺がスクールのスタッフと付き合うわけないだろう?」
「でも、疑っているスタッフは多いのよ」
「いいかげん信じてくれよ。たしかに若い頃はいろいろあったけど、今は君だけなんだ。頼むよ」
「わかった。信じる」
「……ん? 急に素直だな」
「だって、昨日直接聞いたから」
「聞いた? 誰に?」
「七瀬さんによ」
「…………」
圭はあまりの驚きに、言葉を失った。
「七瀬さんっ……て?」
「私たちが婚約した途端、急に辞めた講師よ! あなたと噂になってた人!」
「あ、ああ……あの七瀬さんか。彼女はただの同僚だよ」
「そうみたいね。彼女が急に辞めたのは、好きな人がいたからみたい。それが分かってホッとしたわ」
「好きな人?」
「ええ。好きな人が北海道にいて婚約したんですって。昨日、とっても立派な婚約指輪をしていて、幸せそうだったわ。だから圭と付き合ってたなんてあり得ないって分かったの」
「……そうだよ。で、相手は誰?」
「七瀬さんの? そんなの分かるわけないじゃない」
「そ、そうだよな……で、彼女は今、札幌に住んでるの?」
「札幌じゃないみたい。でも北海道にいるんですって」
「そうか。デパートには買い物に来てたの?」
「ううん、作品展を見に来たみたい。黒のパンツスーツ姿だったから、仕事の途中かも」
「そうか……」
圭は上の空で返事をした。
「そういえば、圭! 私が好きなブランドの札幌店に、札幌限定のジュエリーがあるんですって。東京に帰る前に寄ってみない?」
「またか? 先月も限定バッグをプレゼントしたばかりだろう? ちょっと買いすぎじゃないか?」
「社長夫人になるんだもの、こういうのはいくつあっても足りないわ。それに、パパからお金もらってるんでしょう? だったらいいじゃない!」
「事業資金を私的に使うわけにはいかないよ。経営も年々厳しくなっているんだ。今回は我慢してくれ」
「え~、何よ、ケチ!」
ユリアは、昨日見た美宇の指輪を思い出しながら、ふてくされて言った。
その後、なんとかユリアの機嫌をなだめた圭は、チェックアウトのため部屋を出てエレベーターへ向かった。
そのときちょうど、上からエレベーターが降りてきた。
扉が開くと、中にいたカップルを見てユリアが「あっ!」と声を上げた。
そこには朔也と美宇が乗っていた。
二人は手を繋ぎ、楽しそうに言葉を交わしていた。
しかし、エレベーターの前に立つ二人に気づいた瞬間、美宇の表情は固くなった。
「あら、七瀬さん、偶然ね。あなたもこのホテルだったの?」
普通のOLがこんな高級ホテルに泊まれるはずがない……そう思ったユリアは、いぶかしげに言った。
すると、美宇が静かに答えた。
「本当に偶然ですね。私たちもここに泊まっていたんですよ」
美宇は久しぶりに見る圭を冷ややかに一瞥し、堂々と答えた。
元恋人の圭は、どこかやつれたように見える。
その答えを聞いたユリアはムッとした。
なぜなら、美宇が泊まっていたのは自分たちよりも上の階……つまり最上階だったからだ。
このホテルの最上階は、限られた上客しか泊まれないことで知られていた。
一方、圭は目の前に突然美宇が現れたことで、かなり動揺しているようだった。
だが、隣でユリアが目を光らせていたため、なるべく自然に振る舞おうとした。
「な、七瀬さん……久しぶりだね」
そう声をかけられた美宇は、しっかりと挨拶を返した。
「沢渡先生、ご無沙汰しております」
圭の名前を耳にした朔也は、彼が美宇の元恋人で、イラストレーターの沢渡圭だとすぐに理解したようだ。
二人がエレベーターに乗り込むと、朔也は「閉」ボタンを静かに押し、丁寧に挨拶をした。
「初めまして、青野と申します。昨日は、美宇が偶然お会いしたようで」
ワイルドな雰囲気と大人の余裕を漂わせる朔也に、ユリアはすっかり見とれ、うわずった声で答えた。
「は、初めまして、広瀬と申します。昨日は七瀬さんに偶然お会いして驚きましたわ。ねえ、七瀬さん?」
「ええ」
「青野さんが七瀬さんの婚約者なの?」
「そうです」
美宇が答えるより先に、朔也がはっきりと返事をした。
その瞬間、伏し目がちだった圭は、美宇の左手に目を向けた。
彼女の薬指には、ユリアが言っていた通り、大きなダイヤのリングがキラキラと輝いていた。
「えっと……婚約したんだってね。おめでとう」
「ありがとうございます」
美宇が返事をすると、朔也も続けた。
「ありがとうございます。まだ婚約したばかりで、毎日が浮き足立ってますよ」
朔也は隠すことなく、嬉しそうに言った。
そのあまりにも幸せそうな微笑みは、今の圭には眩しすぎた。
何も言い返せない圭に、今度は朔也が尋ねた。
「彼女から聞きましたが、お二人もご婚約中だとか」
「あ、はい……」
圭はそう答えると、ユリアの左手を隠すように体をずらした。
ユリアも、美宇の指輪には到底かなわない自分の婚約指輪を見られまいと、そっと手を後ろへ隠した。
そこで、朔也が再び口を開いた。
「昨日、美宇と一緒に作品展を拝見しました。いやあ、素晴らしい作品ばかりで感動しましたよ」
その言葉にユリアが反応した。
「青野さんも、芸術に携わるお仕事なんですか?」
「私は陶芸をやっています」
そこで美宇が慌てて説明した。
「彼は今、あのデパートの美術画廊で個展の最中なんです」
「「えっ?」」
二人は驚いていた。
「……もしかして、あの有名な陶芸家の青野さんですか?」
「有名ではありませんが、私の名前をご存知でしたか?」
「もちろんです。私の美大時代の仲間にも、陶芸をやっている者が何人もいますから」
「そうでしたか」
圭が耳にした噂では、朔也の個展は毎回大盛況で、展示作品は即完売するほどの人気を誇っていた。
彼はたまにテレビや雑誌に登場することもあり、今や日本を代表する陶芸家の一人として知られている。
そのワイルドな外見から女性ファンも多く、圭の知り合いの女性たちの中にも朔也のファンは大勢いた。
(そんな男と美宇が婚約? どうなってるんだ! これじゃ手も足も出ないじゃないか。くそっ!)
圭は心の中で呟きながら、恨めしそうに朔也を見つめた。
すると彼は、美宇を愛おしそうに見つめ、美宇もまた、輝く瞳で見つめ返し、幸せそうに微笑んでいた。
美宇は以前よりも、さらに美しくなっていた。
かつて自分が振った女が、自分よりもハイスペックな男と目の前で幸せそうにしている……その光景は圭の胸を鋭く突き刺す。
プライドの高い圭にとって、それはまさに地獄だった。
そのとき、エレベーターが一階に到着した。
エレベーターを降りると、朔也は圭のキャリーバッグを見ながら声をかけた。
「私たちは会場へ向かいますので、ここで失礼します。どうかお気をつけて」
「ありがとうございます」
「よろしければ、また東京でお食事でも……」
ユリアがとんでもないことを口走ったため、圭がキッと睨みつけ、ユリアはハッと息を呑んだ。
「では、失礼します」
朔也はにっこりと微笑み、美宇をエスコートしながらホテルを後にした。
そんな二人の後ろ姿を、圭は複雑な表情で見つめていた。
そこへ、ユリアが口を開いた。
「なんで遮るの? お食事くらいいいじゃない!」
「余計なことは言うな」
「なんなの、その言い方! 私に文句を言うなんて、パパに報告するわよ!」
「ああ、言えばいいさ。なんでも言うことを聞いてくれるパパに全部言えばいいだろう? 好きにしろっ!」
「はっ、なんなのっ? マジで頭にきた! 優しいのは最初だけじゃない! 見事に騙されたわ!」
怒りを爆発させたユリアを無視し、圭は苛立ちながらフロントへ向かった。
その頃、街中を手を繋いで歩いていた朔也と美宇は、にこやかな笑みを浮かべていた。
「どう? あれでよかったかな?」
「うん、最高! すっきりしたわ!」
「それならよかった。ちなみに聞いてもいい?」
「なあに?」
「元恋人と僕、どっちが素敵だった?」
その質問を聞いた美宇は、ふと立ち止まり、クスッと笑った。
「そんなの聞かなくても決まってるじゃない。朔也さんに決まってるわ」
「本当に?」
「当たり前よ」
「よかった、ホッとしたよ」
朔也は優しい笑みを浮かべると、突然美宇を抱きしめた。
「あっ……」
「美宇、大好きだよ」
「私も……でも、みんなが見てるわ」
「見ててもいいさ。僕たちはこんなに愛し合ってるんだから」
「それはそうだけど……デパートの人が通るかも……」
「構わないよ。僕たちは婚約してるんだ」
「ふふっ、そうね。でも、苦しいから少し力を緩めて」
「美宇がキスしてくれたらね」
「もう、冗談はやめて!」
「冗談じゃないよ、僕は極めて真剣だ」
真剣だと言いながらも、朔也の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見た美宇は、観念したように小さく呟いた。
「しょうがないわね」
次の瞬間、美宇は精一杯背伸びをして、朔也に唇を重ねた。
その途端、朔也からの熱烈なキスが始まった。
幸せそうな二人の姿を、行き交う人々が笑顔で見つめていた。
やがて札幌の街には、真っ白な雪が静かに舞い始めた。







