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(……あの目は、もう……見たくなかった)
遥は、机に指をかけていた。
白い、整った指先。
すっかり乾いて、ひび割れている。
毎日のように掃除道具を握らされ、誰かの汚れを黙って拭いて、
それでも──誰よりも「汚れているのは自分だ」と思っていた。
日下部が戻ってきた朝のことを、何度も思い出していた。
あのときの声。あのときの沈黙。
教室に広がった笑いと、
それを何も否定しなかった自分──。
(おれのせいだ)
誰にもそう言われていないのに、
遥の中では、もう答えが出ていた。
「日下部が、狙われるようになったのは──おれが、そばにいたからだ」
そうとしか、思えなかった。
あの日、昇降口で。
日下部の肩が、ほんの少しだけ、傾いた。
遥の方へ。
……それがすべてだった。
(近づかなきゃよかった)
(触れようなんて、思わなきゃよかった)
(信じようなんて、──最初から)
胸の奥が、ちくりと痛む。
──違う。
そうじゃない。
日下部は、何も悪くない。
なのに。
(あいつは……また、巻き込まれた)
遥は、そうやってずっと誰かを巻き込んできた。
幼い頃。
家で何かあったあと、黙っていると怒られた。
笑っても怒られた。
だから──誰かの前では、できるだけ「良い子」でいた。
けれど、日下部にだけは、ずっと「悪い自分」を見せていた気がした。
暴力を受けても黙っているのは、自分のせい。
性的ないじめに笑いが起きても、きっとそれも「似合ってた」から。
いま日下部が、あの目で見られているのも──
遥が、日下部の隣にいたから。
「メスいぬの恋人」
「おさわりヒーロー」
「エロ同盟」
誰かが黒板に書きなぐった言葉。
誰もが笑って、それを写真に撮って、
それを──遥は、黙って見ていた。
(おれが……黙って、なにも言わなかったから……)
(あいつも、壊されていく)
それが、いちばん──苦しかった。
だから、遥は自分の席に戻ると、
教科書を広げるふりをして、
足元に落ちていた紙くずを拾った。
それは、誰かが丸めたタオルの端。
中に、小さなメモが挟まれていた。
「さっさと日下部とくっつけよ、メス。」
誰が書いたのかなんて、どうでもよかった。
遥は、それを読んで、微かに笑った。
ほんの一瞬だけ、
どこか安堵のようなものが浮かんだ自分に──ひどく、吐き気がした。
(どうして……少しでも、“嬉しい”なんて思ったんだろう)
罪は──こうして、静かに深まっていく。
遥は、自分が殴られるとき、
誰かの足が背中を蹴っていくとき、
教室の中で笑い声が弾けるとき、
「これくらいじゃ、済まないはずだ」と思っていた。
もっと傷つけられればいい。
もっと、壊されれば、いい。
そうやって“自分だけ”が壊れていれば──
少しは、あいつを守れるんじゃないかって。
でも。
それすら、
“勝手な贖罪”だということを、遥はどこかで知っていた。
知っていて、でもやめられなかった。
教室のざわめきが遠のいていく。
蓮司が、どこかで笑っていた気がした。
──「見返りのない優しさ」も、
「独りよがりの犠牲」も、
蓮司にとっては、同じ“エサ”だ。
遥の指先が、小さく震えていた。
けれど、その震えを、誰も見ていなかった。
そして──遥自身も、
それが“何の震え”なのか、もうわからなくなっていた。