テラーノベル
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いつもの、落ち着いた
それでいてどこか優しげな口調で犬飼さんは言った。
その声を聞くだけで、昨夜の出来事が夢であったかのように思える。
しかし、現実はそうではない。
「はい…!その、ニュース、今朝見て知って…本当に昨日はありがとうございました…!」
彼が俺を救ってくれた事実が胸に迫り、自然と深く頭を下げていた。
感謝の言葉だけでは足りない、そんな思いが全身を駆け巡る。
「いや、元はと言えば俺の後輩が花宮さんを狙っていたのが問題なんです。花宮さんを危険な目に合わせてしまったのは事実ですし……」
彼の言葉は、常に自分を責めるような響きを含んでいた。
しかし、それは決して彼の責任ではない。
俺は顔を上げ、彼の言葉を遮るように訴えた。
「そんな、犬飼さんのせいじゃないですよ…!犬飼さんがいなかったら、どうなっていたか…考えただけでも恐ろしいです」
彼の優しさと責任感の強さに、胸が締め付けられる。
この恩を、どうしても返したい。そう強く思った。
「その…犬飼さんにお礼したいんですけど、何か俺にできることがあればさせてくれませんか……?」
精一杯の気持ちを込めてそう言うと、犬飼さんは一瞬、本当に驚いたような表情を浮かべた。
彼の瞳がわずかに見開かれ
すぐにいつもの落ち着いた表情に戻ったが、その動揺は俺にも伝わってきた。
「そんな、お礼なんていいですよ。俺は然るべきことをしたまでですから」
彼は謙遜するが、俺にとっては命の恩人だ。
「いえ、このままじゃ俺の気が済まないので、ちゃんとお礼したいんです…….!」
俺は食い下がった。
彼の優しさに甘えるだけでなく、きちんと感謝の気持ちを形にしたい。
その強い思いが、俺の言葉をさらに力強くした。
犬飼さんはしばらく考え込むように視線を彷徨わせた後、ふと何かを思いついたように口を開いた。
「…なら、食事でもどうですか?ちょうど行きたい焼肉屋があるんで」
思いがけない提案に、俺の顔はぱっと明るくなった。
焼肉という響きは、重くなりがちだった空気を一瞬で明るくする。
「いいですね、焼肉!ぜひ奢らせてください」
俺の即答に、犬飼さんは小さく笑った。
その笑顔に、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
「それじゃあお言葉に甘えて。そんなに値段は張りませんから、来週の土曜日なんてどうですかね?」
犬飼さんの気遣いが、その言葉の端々から感じられる。
「はい、予定開けときますね!」
俺は満面の笑みで答えた。
犬飼さんと二人で食事に行ける。
お礼と言えど、それだけでも心は弾むようだった。
◆◇◆◇
その夜───…
LINEにて犬飼さんから詳細が送られてき、俺は胸を踊らせた。
「新宿歌舞伎町の『月夜の牛』に1時からでも大丈夫そうですか?」
「大丈夫です。予約しときますね!」
「助かります、お願いしますね」
「はい。土曜日、楽しみにしててください」
短い会話を済ませて、布団に入り眠りについた。
◆◇◆◇
そのまた翌日、火曜日───…
開店準備を済ませ、店の入り口にある花たちに水をあげていると
大輝くんがまた店に来てくれて
今日は迷いなく俺の立つレジまでやってきて
静かに頷きながら「あの…」と話し始めたので俺は耳を傾ける。
「……昨日の向日葵、ひとつ買いたいんですけどいいですか?」
どこか照れながら言う大輝くんに、俺は
「もちろんです。少々お待ちください」
と答えて向日葵のコーナーまで歩き
ひときわ大きく、花びらが生き生きとしている向日葵を選び取り
丁寧にそれを抱えてレジまで持っていく。
「こちら、今からラッピングに移らせていただきますね」
と言って机に向日葵を寝かせ、太い茎を専用のハサミで丁寧にカットし
切り口を水の中で斜めに処理する。
そして向日葵の力強い美しさを損なわないよう
黄色のラフなラッピングペーパーでくるりと包み、麻紐でざっくりと結んだ。
「お待たせいたしました」
と大輝くんに手渡すと、彼は「ありがとうございます、本当に綺麗ですね」と目を輝かせた。
「向日葵は夏にぴったりの花ですからね。喜んでもらえて嬉しいです」
「えっと……これ、いくらですか?」
「はい、1本ですので、350円になります」
と言うと、彼はズボンのポケットから黒色の長財布を取り出し
その中の500円玉を渡してきたので
「500円ですね、お預かりいたします」
と受け取ると
俺はレジからお釣りを取り出しながら言う。
「こちら、お釣りの150円になります。」
言いながら、お釣りの乗った手のひらを差し出すと、取る際に手が当たってしまったのか
大輝くんは小銭を受け取ると「す、すみません」とすぐに手を引っ込めた。
緊張してるのかな、と思ってその学生らしい初々しさに俺は内心微笑んで
同時にぺこりと一礼して
「またのご来店お待ちしております」
と言って顔を上げると
彼もまた軽く会釈をしてひまわりを手に抱え、店を出ていった。
◆◇◆◇
その翌日、水曜日
今日もまた大輝くんがやってきた。
「あ、また来てくれたの?いらっしゃい大輝くん」
いつも通り挨拶をすると彼はハッとした顔をしてから
「あ、えっと……」と言い淀んでしまったので
どうしたのだろうと首を捻っていると、彼は頭をかきながら言う。
「実は、昨日の向日葵家に持ち帰ったら弟も同じの欲しいってせがんできて…あはは」
「あっ、そっか。大輝くん実家から大学通ってるんだっけ?大変だね」
言うと、大輝くんは珍しく
「いや、大したことないっすよ。俺んち兄弟多く
て….」
と言って少し笑った。
「じゃあ…向日葵もう1つってことでいいかな?」
尋ねると彼は少し気まずそうに目を逸らしてから
「……は、はい……ちまちまとすみません…」
そう呟いたので俺は思わず吹き出してしまった。
「ははっ、気にしないで何本でも買ってってください」
そつ言うと彼は少し安心したように表情を和らげて口を開いてくれた。
「あ、ありがとうございます……じゃあ、それで、昨日みたいにラッピングお願いします」
「分かりました」
俺は向日葵を昨日の手順で処理し、ラッピングしてお会計に移る。
「向日葵1本で、350円になります」
昨日と同じように値段を告げると
大輝くんはズボンのポケットから長財布を取り出し、昨日と同じ500円玉を出した。
俺はそれを受け取りレジから出したお釣りを手渡す。
するとその小銭を財布にしまいながら、破顔した様子で言った。
「この前から思ってたけど……は、花宮さんって、手綺麗ですよね」
俺は一瞬きょとんとして「え?そうですか?」と聞き返す。
すると大輝くんは慌てた様子で手を振って弁解した。
「へ、変な意味とかじゃないですから…本当に綺麗なので…つい口が、滑って……っ」
慌てふためく彼が面白くて、俺がクスクス笑いながら吹き出すように言った。
「そんなに慌てなくても分かってるよ。ははっ、大輝くんって面白いんだね」
「かっ、楓さん……笑いすぎです」
急に名前を呼ばれて、あれ、名前教えてたっけ?と聞くと
「ここの常連のおばさんがよく楓ちゃんって読んでたので…」と言われ
「あぁ、相澤さんか!」と呟き、短い談笑を済ますと
大輝くんは俺にぺこりと会釈して、そそくさと店を出て行った。
そんな大輝くんを見送ったあと
店の入り口にある花たちに水をやりながら
(やっぱ大輝くんいい子だなぁ………)
なんて微笑ましく考えていた。
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