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カル・カラジト砂漠の戦いは
両軍大損害を出したが
結果だけをみれば惨敗だった
我々はバルジュチ湖まで逃げてきた
従うものはテムジン以下十騎満たなかった
「よくやったな」
「お前の射たのはセングンだ」
皆、疲れ果てて草の上に横たわっていた。
夜風は冷たく、
血と土の臭いを静かにさらっていく。
父は私の頭を乱暴にかき回した。
「愉快じゃ、あいつ顔に穴が開いたぞ」
周囲から乾いた笑いが漏れる。
その中でジュベが口を開いた。
「坊ちゃんの弓の腕は、父君より上かもしれませぬ」
「それはない」
父は即座に否定した。
だが私は、
ジュベにそう言われたことが嬉しかった。
ジュベは父の古参ではない。
だが、誰よりも戦を知る男だった。
その男に認められることは、
戦士として認められることに等しかった。
しばらく沈黙が続いた。
焚火の火が小さく爆ぜる。
父は空を見上げた。
「……星がきれいだ」
私は黙って同じ空を見る。
雲ひとつない夜だった。
無数の星が、
まるで草原そのもののように果てなく広がっていた。
やがて父が静かに言った。
「今度のこと、お前が気に病むことはないぞ」
「……」
「元凶はジャムカよ」
その声に、
私は思わずムカリを見た。
ムカリは何も言わず、
ただ静かに頷いた。
それだけで十分だった。
父も、
ムカリも、
もう理解しているのだ。
これは偶然の襲撃ではない。
ジャムカが、
オン・カンとセングンを動かしたのだと。
父は夜空を見たまま呟いた。
「これで、兄弟に続いて父まで討たねばならぬか……」
その言葉に、
私は胸の奥が痛んだ。
オン・カンは、
父にとって本当に父のような存在だった。
飢えた時に助け、
敗れた時に迎え入れ、
共に戦った男だった。
私は思わず口を開いていた。
「……お辛いですか」
父は少しだけ目を細めた。
怒りはなかった。
むしろ、
どこか遠い昔を見るような顔だった。
「いや」
静かな声だった。
「昔は気づかなかったが……」
父がぽつりと呟いた。
夜風が草を揺らし、焚火の火がぱちりとはぜる。
赤い火の粉が闇へ舞い上がり、
父の横顔を一瞬だけ照らした。
「今ならわかる」
父は炎を見つめたまま続けた。
「草原の掟の意味が」
誰も口を開かなかった。
ボオルチュも、
ムカリも、
若いスブタイでさえ、
静かに父の言葉を待っていた。
「儂とジャムカでは、考え方が違う」
父は乾いた笑みを浮かべる。
「例えば恐怖だ」
風が吹き、
火がゆらりと傾いた。
「儂は身内に慈愛を、敵に恐怖を与える」
低い声だった。
だが不思議と、
胸の奥へ沈んでくる声だった。
「奴は逆だ」
「外には融和を見せ、身内に恐怖を強いる」
誰も否定しなかった。
ジャムカの陣営から逃げてきた者たちの話を、
私は何度も聞いていた。
逆らえば殺される。
疑われれば処刑される。
忠誠ではなく、
恐怖で人を縛る。
父はしばらく黙り込む。
やがて、ぽつりと言った。
「草原の土地に、貧しく小さく生きるだけなら……それでもよかったのだ」
その言葉は、
どこか寂しそうだった。
父は昔の草原を嫌っているわけではない。
むしろ誰より愛している。
だからこそ、
変わらねばならぬことを、
誰より苦しんでいるのだと、
その時の私はまだ知らなかった。
「だが今は違う」
父は夜空を見上げた。
「外にはチャイ王朝がおる」
「オラズムもおる」
「奴らは力と金で草原を揺さぶってくる」
炎が父の瞳に映る。
「我らがいつまでも部族同士で争っていては、草原はいずれ呑み込まれる」
「統一など夢物語だと皆笑うが……」
父はそこで言葉を切った。
その続きを、
私は聞かなかった。
いや、
聞けなかった。
その時の父が、
あまりにも遠くを見ていたからだ。
静寂を破ったのは、
父自身だった。
「……それにしても」
急に肩の力を抜き、
苦笑する。
「これで何度目の放浪だ?」
皆の間から小さな笑いが漏れた。
父はボオルチュを見る。
「覚えておるか?」
「もう忘れました」
ボオルチュは即答した。
「ですが、何度でもお供します」
父は吹き出した。
「すまん、苦労をかけるな」
「今さらですよ」
その空気に、
皆の顔が少し和らぐ。
敗軍とは思えぬほど、
穏やかな夜だった。
すると、
若いスブタイが身を乗り出した。
「今なら敵も油断しています」
鋭い目で父を見る。
「攻撃をかけましょう」
まだ若い。
だがその瞳には、
獣のような闘志が宿っていた。
父はそんなスブタイを見て、
おかしそうに笑う。
「すまん」
「体が動かん」
皆がどっと笑った。
「もう少し後でもよいか」
焚火の周囲に、
久しぶりに明るい空気が広がった。
私はその光景を、
ぼんやりと眺めていた。
負けた。
裏切られた。
草原中を敵に回した。
それなのに――
父の周りには、
まだ人がいる。
命を懸けてでも、
この男についていこうとする者たちがいる。
その時だった。
父が不意に私を見る。
「ジュチ」
「はい」
火の向こうで、
父の目が静かに細められた。
「身内に刃など向けてはならぬ」
私は息を呑む。
父は続けた。
「向ければ、もう親兄弟ではいられなくなる」
焚火が揺れた。
「儂のようになってはならぬ」
その声だけが、
やけに小さかった。
私は返事ができなかった。
父はすべて知っている。
チャガタイのことも。
周囲が何を囁いているかも。
全部知った上で、
なお家族であれと言っている。
「チャガタイを許せ」
父は静かに言った。
「あれはまだ子供だ」
「それに……いらぬことを吹き込む輩もおる」
私は黙って頷いた。
父はそれ以上何も言わなかった。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで馬が鼻を鳴らした。
私は横になり、
星空を見上げる。
負けているのに、
不思議と心は穏やかだった。
この幸せな時間が、
いつまでも続けばいいのに。
そう思いながら、
私は静かに目を閉じた。
「たわけ者!!」
天幕の中に怒声が轟いた。
外で控えていた兵たちが、
思わず肩を震わせるほどの怒鳴り声だった。
オン・カンは立ち上がったまま、
目の前の男を睨みつけている。
イルカ・セングン。
実の息子だった。
だが今のオン・カンの目には、
親としての情など欠片もなかった。
「テムジンの兵舎を襲っただと」
低い声だった。
それがかえって恐ろしい。
「しかも……取り逃がしたと」
セングンは唇を噛む。
「ですが父上、今なら奴は――」
「黙れ!」
再び怒鳴り声が飛ぶ。
卓の杯が揺れ、
酒がこぼれた。
「儂に任せておけばよかったものを」
オン・カンは苛立ちを隠そうともせず、
荒々しく髭を撫でる。
「兵刃を交えてしまっては、もはや言い逃れはできぬ」
「だが奴は危険です!」
セングンも負けじと声を荒げた。
「今のうちに討たねば、いずれ我らを――」
「だからお前は浅いのだ!」
オン・カンは鋭く言い放つ。
天幕の空気が凍った。
ジャムカでさえ口を開かなかった。
オン・カンはゆっくりと息を吐く。
怒りを抑え込むように。
「わからぬなら教えてやろう」
その目が細められた。
「お前とテムジンの違いをな」
セングンは押し黙る。
「負けて兵を集められるかどうかじゃ」
静かな声だった。
だが、
その場の誰よりも重かった。
オン・カンは草原を知っている。
人を知っている。
飢えた夜を。
裏切りを。
離散した部族を。
そして――
一度潰れた者が、
二度と立ち上がれぬことを。
だがテムジンは違った。
父を失い、
妻を奪われ、
一族に見捨てられ、
幾度となく草原を追われた。
それでも奴の周りには、
必ず人が戻ってくる。
ボオルチュ。
ムカリ。
あの若いスブタイまで、
命を捨てるように従っている。
オン・カンはそれが恐ろしかった。
「まあ……」
オン・カンは乾いた笑みを浮かべる。
「ジャムカごときの甘言に乗るようでは、わからぬのも無理はないか」
ジャムカの眉がわずかに動いた。
だが反論はしない。
事実、
彼自身も薄々感じていた。
草原が変わり始めていることを。
そして、
その中心にいるのがテムジンであることを。
セングンだけが納得できぬ顔をしていた。
「父上は奴を恐れておられるのですか」
その瞬間、
天幕の空気がさらに冷えた。
オン・カンはしばらく何も答えなかった。
やがて、
静かに席へ腰を下ろす。
老いた指が、
酒杯をゆっくり持ち上げた。
「恐れる?」
小さく笑う。
だがその目は笑っていなかった。
「……当然だ」
ぽつりと呟く。
「草原で最も恐ろしいのは、死を知らぬ若者ではない」
オン・カンは酒を飲み干した。
「何度負けても立ち上がる男だ」
誰も言葉を返せなかった。
風が天幕を揺らす。
遠くで馬のいななきが聞こえた。
オン・カンは表情を変えぬまま、
静かに杯を置く。
だがその胸中では、
消しようのない不安が広がっていた。
――殺し損ねた。
その事実だけが、
老王の心を重く締めつけていた。
橘靖竜
#切ない
#長編