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ひよこの進化形態
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第1話 落下
山あいの里は、夕方になると音が薄くなる。
日中はあちこちで鳴っていた鍬の先も、
軽トラのうなりも、
鶏の落ちつかない羽音も、
日が傾くにつれて、みんな土の中へ沈んでいく。
かわりに、風の向きがよく分かるようになる。
田の面を渡る風。
畑の葉を返す風。
杉の列をぬけて、少しひんやりした匂いを運んでくる山の風。
その日は、その風の奥に、
聞きなれない音がまじっていた。
低く、長く、こすれるような音だった。
里の男は、畑の端で腰をのばしかけたまま、顔を上げた。
空の高いところで、ひとつ、光る筋が動いている。
鳥ではない。
飛行機でもない。
もっと速くて、
もっとまっすぐで、
まるで誰かが夜のものを昼に落としてきたみたいだった。
光は山の肩へ消えた。
一拍おいて、
腹の底にくる音が、どん、と届いた。
地面がふるえた。
畑の水桶が揺れて、水が縁からこぼれた。
納屋の板戸ががたんと鳴り、
犬がいっせいに吠えた。
里の男は鍬を放り、山の方へ駆けた。
「おい、見たか」
「落ちたぞ」
「向こうの斜面だ」
畑にいた者、庭先にいた者、道を歩いていた者、
みんなが同じ方へ向かう。
夕方の里にはめずらしい足音の多さだった。
山へ入る細道の入口に、
おばあちゃんも立っていた。
籠を腕にかけたまま、
いつもの足どりで、
けれど少しだけ早く歩いている。
茶色のもんぺの裾に草の実がつき、
まとめた髪の灰色が夕日にやわらかく浮いていた。
誰かが言う。
「危ないから、あんたは家に」
おばあちゃんは、ふっと鼻で笑った。
「危ないものほど、先に見とかなきゃならない時もあるよ」
その言い方が明るいせいで、
止めた男の方が言葉をなくした。
林を抜けた先に、
土のえぐれた場所があった。
斜面の土がひらいて、
根がちぎれ、
低木が押し倒されている。
まんなかに、
丸い塊が半ば埋まっていた。
隕石だ、と誰かが言った。
けれど、その声も、すぐには広がらなかった。
みんな見ていたからだ。
塊の表面には細かなひびが走り、
そのひびの奥から、じんわり赤いものが脈打っていた。
熱で揺れる空気が、まわりの草をゆがめて見せる。
焦げた匂い。
湿った土の匂い。
焼けた葉の匂い。
その奥に、知らない匂いがした。
鉄に似ているのに、もっとやわらかい。
雨上がりの石に、甘い果物を近づけたような匂い。
里の男が、足もとの枝を拾った。
細い棒だったが、持ち方だけは槍に近い。
「下がってろ」
誰に向けたのか分からない声が出る。
ひびが、ひとつ大きく鳴った。
ぱき、と乾いた音。
その音に、人の輪が一歩ぶん引いた。
草がざわっと倒れ、石がひとつ転がる。
ひびの間から、蒸気が上がった。
白いとは言わない。
湯気とも煙ともつかない、薄いもやだった。
夕日の色を吸って、赤茶に揺れている。
もう一度、ぱき、と鳴る。
割れ目がひらいた。
中から最初に見えたのは脚だった。
長い。
細いが、弱くは見えない。
節の動きが鳥に近く、
けれど鳥よりも、どこか考えながら立っている脚だった。
大きな指が土をつかむ。
熱い殻の内側から、
ひとつ、
またひとつ、
その生きものは外へ出てきた。
首が伸びる。
羽がこすれる。
灰色の羽毛のあいだに、首もとだけ紫がやわらかく混じる。
顔が出た。
短めのくちばし。
丸みのある輪郭。
目は水色寄りで、
人の顔を見回すたび、光を細くためた。
その場にいた誰も、
すぐには声を出せなかった。
里の男の握る棒だけが、
ぎし、と音を立てた。
生きものはまっすぐ立とうとして、少しよろけた。
足もとの土が崩れ、
小石がころころと転がる。
そのたび、
人の気持ちがひとつに寄る。
警戒。
おそれ。
様子見。
逃げ腰。
好奇心。
目に見えないものが、
空気の温度を変えた。
生きものの羽先が、わずかに垂れた。
ミュオは、その場に立ちつくした。
山の土はあたたかい。
落ちてきたばかりの隕石の熱も、まだ周囲に残っている。
けれど、自分へ向けられているものだけが、
ひどく冷たかった。
刺さるようではない。
もっと鈍く、
もっと広く、
水に濡れた布が羽へ重くまとわりつくような冷たさだった。
羽が、重い。
首もとの羽毛がしんなりする。
胸の奥にある、言葉になる前の何かまで、
じわじわ重みを持ちはじめる。
ミュオは口を開いた。
何か言いたかった。
けれど出てきたのは、短い息だけだった。
「……みゅ」
小さすぎて、
風に混じりそうな音だった。
里の男が棒を一歩ぶん前へ出す。
「動くな」
その声の鋭さに、
ミュオの目が細くなる。
意味は分からなくても、
声のかたちで分かるものがある。
追い払う声。
拒む声。
輪の外へ押しやる声。
羽がさらに重くなった。
その時、
おばあちゃんが輪の前へ出た。
誰かの腕が、その肩をつかもうとして、
つかみ損ねる。
おばあちゃんは小柄なのに、
こういう時だけ、すり抜け方がうまい。
「ちょっと」
よく通る声だった。
叱るほど強くなく、
それでいて、耳に入ると黙ってしまう声。
「そんな顔したら、余計こわがるでしょうに」
里の男が振り返る。
「こわがるも何も、何だか分からねえ」
「分からないなら、なおさらだよ」
おばあちゃんは籠を下ろし、
土のえぐれたふちへしゃがんだ。
指先に土がつく。
それを気にせず、
隕石の殻から少し離れたところへ手を伸ばす。
ミュオは、その手を見た。
細い。
筋が浮いている。
土がなじんでいて、
爪の間には畑の一日が残っている。
その手が、冷たくない。
あたたかい、というより、
ほどけている。
やわらかく開いたままの温度だった。
おばあちゃんは籠の中から、
丸い根菜をひとつ取り出した。
さっきまで土にいたばかりのような、土つきのままのそれを、
そっと地面へ置く。
「おなかすいてるかい」
誰かが息をのんだ。
そんなことを言う場面じゃない、と
何人もが思ったはずだった。
けれど、おばあちゃんは眉ひとつ動かさない。
ミュオは、根菜を見た。
そこにも温度がある。
昼の日差し。
土の湿り。
引き抜かれた時のかすかな驚き。
それを洗わず持ってきた人の、気づかい。
畑のものは、手をかけられたぶんだけ、
奥に何かを残している。
ミュオの羽先が、ほんの少しだけ持ち上がった。
おばあちゃんはそれを見て、
少し口もとをゆるめた。
「ほら。食べられるよ」
ミュオはゆっくり脚を動かした。
一歩。
土がくずれる。
もう一歩。
棒を持つ男の肩が強ばる。
輪の後ろの誰かが「来るぞ」とつぶやく。
けれどミュオは、人へ向かわず、
置かれた根菜の前で止まった。
首をかしげる。
目の輪が細くなる。
くちばしがそっと土の表面へ触れた。
ひやりとしている。
奥は、ほのかに甘い。
食べる、というより、
まず、そこに残った温度をなぞるみたいに、
ミュオは小さくかじった。
土がぱらりと落ちる。
その瞬間、
おばあちゃんが笑った。
目じりのしわが深くなって、
その笑いが顔全体へ広がる。
「食べるんだねえ」
その声が、ミュオの羽へ触れた。
重さが少し抜けた。
びっくりして、ミュオは顔を上げた。
おばあちゃんの笑いには、
押しつけるところがなかった。
ただ、受け入れるための広さだけがある。
里の男が棒を下ろしきれずに言う。
「連れて帰る気か」
「帰れるなら帰るさ。帰れないなら、まず座る場所がいる」
「人じゃねえぞ」
「見りゃ分かるよ」
おばあちゃんは立ち上がった。
小柄な背すじが、すっと伸びる。
夕日を背にしても、影に負けない立ち方だった。
「でも、生きてる」
そのひと言だけで、
その場の音が少し落ちた。
ミュオは、言葉の意味は半分も分からないのに、
その音の置き方で分かるものがあった。
生きているものとして見られた。
それだけで、
胸の奥の重さが少し動いた。
輪の後ろで、子どもがぴょこんと顔を出した。
頬が丸く、鼻先にそばかす。
短い髪は寝ぐせが片側だけ跳ねている。
膝には古い擦り傷。
子どもは大人のわきからするりと前へ出た。
「でっけえ鳥」
すぐ横の母親らしい人が、
あわてて肩を引く。
「だめ」
「でも」
「だめったら」
子どもの目だけが、じっとミュオを追う。
おそれより先に、知りたさが走る目だった。
その温度は、冷たくない。
落ちつきはなくても、まっすぐだ。
ミュオはその目を見返し、
胸の奥が少しだけ明るくなるのを感じた。
けれど、
まわりの大人たちの気配はまだ固い。
「役場へ知らせろ」
「警察だろ」
「いや、大学とか、そういう」
「触るなって」
「山、閉めた方がいい」
言葉が飛び交うたび、
ミュオの羽はまた重くなりかける。
おばあちゃんは籠を持ち上げた。
「ひとまず、うち来るかい」
その言葉は、
大きな決断みたいに響かなかった。
晩ごはんの前に手を洗うか聞くみたいに、
あまりにもいつも通りだった。
だからこそ、
ミュオは動けた。
おばあちゃんの方へ、半歩出る。
それだけでざわめきが起きる。
里の男がまた口をひらく。
だが、おばあちゃんの方が早かった。
「大丈夫だよ。大丈夫じゃなかったら、その時考える」
「そんな簡単に」
「簡単じゃないから、連れてくんだろうに」
おばあちゃんは根菜の残りをミュオへ差し出した。
ミュオはそれを受け取った。
羽毛のあいだからのぞく指先は意外と器用で、
そっとつまむように持つ。
「歩けるかい」
ミュオは言葉の全部は分からない。
でも、問いかけの調子は分かる。
歩く。
ついてくる。
一緒に。
ミュオは小さくうなずくように首を動かした。
おばあちゃんは、それで十分だったらしい。
「よし」
と言って、
くるりと山道の方へ向きを変える。
誰かが呼び止める。
誰かがため息をつく。
誰かはあきれ、
誰かはなおも警戒している。
その全部を背中に受けながら、
おばあちゃんはふつうの歩幅で歩きだした。
ミュオもついていく。
最初の一歩はぎこちない。
長い脚が山道の石に慣れず、
危うく前へつんのめりそうになる。
けれど、おばあちゃんは振り向くだけで笑わない。
転びそうな相手を見て笑わない人だ、と
ミュオはすぐに分かった。
斜面を下る。
草がふくらはぎをなでる。
夕方の虫の声が戻ってくる。
里は、下から見ると静かだった。
細い道。
低い屋根。
畑を区切る畝。
洗濯物の残り香。
道端に干された大根の葉。
柿の実のまだ固い匂い。
ひとつひとつが、
とても小さいのに、
とても濃い。
ミュオは歩きながら、
何度も立ち止まりそうになる。
知らないものばかりなのに、
どこかで知っていたような気配もある。
土。
育てる匂い。
人の手の跡。
心というものが、
もし形を取るなら、
こういうものに近いのかもしれないと、
ミュオはまだ名前のつかない感覚で思った。
おばあちゃんの家は、里のはずれにあった。
大きくはない。
けれど、庭先の道具がきちんと片づき、
干し網が風に揺れ、
縁側の板がよく磨かれている。
戸口の横には、
泥のついた長靴が二足。
今はもう使う人が少ないのか、
片方だけ少し奥へ寄せられている。
おばあちゃんは戸を開け、
土間へ上がる前に振り返った。
「そのままじゃ土だらけになるねえ」
ミュオは足もとを見た。
長い指のあいだに土が詰まっている。
羽の先にも、山の枯れ葉がひっかかっていた。
おばあちゃんは手桶に水を汲んできた。
井戸水だ。
夕方の光を受けて、表面がかすかに揺れる。
「ここで洗っといで」
水の意味は、ミュオにもすぐ分かった。
近づく。
のぞきこむ。
水面に、自分の顔が映る。
長い首。
灰色の羽。
水色寄りの目。
見たことのある顔なのに、
今だけ少し、ちがって見える。
疲れている。
羽が乱れている。
そして、どこか拍子ぬけしている。
追い払われる前に、
招き入れられてしまったからだ。
ミュオは足を水へ入れた。
ひやりとした。
思わず首がすくむ。
けれど、土がほどけて流れ、
指のあいだが軽くなる。
おばあちゃんはその様子を見て、
また笑った。
「冷たいかい。でも、そのうち慣れるよ」
慣れる。
その言葉が、井戸のそばで小さく弾んだ。
ミュオは足を洗い終え、
羽についた葉をひとつずつ取った。
おばあちゃんは戸を開けたまま待っている。
家の中から、
煮た野菜の匂いが流れてきた。
味噌の匂い。
炊きあがった米の匂い。
乾いた畳の匂い。
日の落ちた家にだけある、静かなぬくもり。
ミュオの羽がふっと持ち上がる。
さっき山で感じた冷たい視線とちがう。
ここには、やわらかな熱が満ちている。
何も言わなくても、
泊まる者の背を丸めさせない温度だ。
おばあちゃんは、敷居を軽く指した。
「上がんな」
ミュオはためらう。
外と中の境目。
踏み越えていいのか。
ここから先は、誰かの暮らしの中心だ。
おばあちゃんは待つ。
急かさない。
問いつめない。
ただ、戸を開けたまま、そこにいる。
その待ち方が、
ミュオの背中を押した。
一歩、上がる。
板がきしむ。
次にもう一歩。
土間のひんやりした感触が終わり、
家の中の木のやわらかな感触に変わる。
その瞬間だった。
胸の奥で、
なにかがほどけた。
ことばになる前の、
小さな、小さな灯みたいなものが、
ふっと息を吹き返した。
ミュオは、思わず目を細めた。
「……あう」
意味のない音だった。
けれど、おばあちゃんは首をかしげるだけで、
変な顔はしなかった。
「しゃべるんだねえ」
ミュオは首をふった。
しゃべる、というほどではない。
けれど、音が出てしまう時がある。
言いたいことがあるわけじゃない。
言葉の手前で、胸があふれるのだ。
おばあちゃんは囲炉裏のそばへ座り、
鍋のふたを少しずらした。
湯気が立つ。
夕方の薄い光を受けて、ゆらゆら揺れる。
「腹へってるなら、これ食べるかい」
椀によそわれた汁には、
根菜と葉物が入っていた。
畑のにおいが、もう一度立ちのぼる。
ミュオは、目を見ひらいた。
それは、土の中で感じた温度と同じものが、
もっとはっきりした形になって、目の前に出てきたようだった。
手をかけた時間。
煮るあいだの待ち時間。
ひとりで食べるつもりだったものを、
ためらわず差し出す心。
全部、湯気の向こうにある。
ミュオは椀をのぞきこみ、
くちばしをそっと近づけた。
熱い。
だが嫌な熱ではない。
からだの奥へ入っていく熱だ。
ひと口すする。
味が広がる。
やさしい。
濃すぎず、
けれど薄くもない。
土の甘みがあって、
葉のかすかな苦みがあって、
どちらも消されていない。
ミュオはびっくりして、
おばあちゃんを見た。
おばあちゃんは当然みたいにうなずいた。
「うちの畑のだよ」
そのひと言で、
椀の中に残っていた温度の正体が、少しだけ分かった気がした。
自分で育てたものには、
その人の時間が入る。
時間は、
心に似ている。
見えないのに、
味には残る。
ミュオはもうひと口、すすった。
今度は少し落ちついて、
ゆっくりと飲む。
羽の重さがほどけていく。
首のつけ根まで軽くなる。
脚の疲れも、
山の斜面で受けた人の視線も、
熱に溶けてほどけていく。
おばあちゃんは、そんなミュオを見ながら、
自分の椀にも汁をよそった。
「名前、あるのかい」
名前。
その響きに、
ミュオは胸を押さえた。
ある。
たぶんある。
けれど、自分のところでのそれは、
ここではうまくほどけない。
何度か息を整え、
口を開く。
「……みゅ、お」
短い。
切れた。
でも、いちばん近い音だった。
おばあちゃんの目じりが、またやわらぐ。
「ミュオかい」
ミュオはまばたきをした。
そう呼ばれると、
その音がすとんと胸へ落ちる。
「ミュオ」
おばあちゃんはもう一度言った。
たしかめるように。
馴染ませるように。
名前は、
呼ばれてはじめて形になるものなのかもしれないと、
ミュオは椀の湯気越しに思った。
外はもう暗くなりかけていた。
戸のすきまから入る風が、
山の夜の匂いを運んでくる。
虫の声が濃くなり、
遠くで川が続いている。
里は静かだったが、
完全には眠っていない。
さっきの隕石の話が、
あちこちの家で交わされている気配がある。
それでも、この家の中だけは、
鍋の音と湯気の音でできた小さな夜だった。
食事を終えると、
おばあちゃんは縁側へ出た。
ミュオもついていく。
夜の山は深い。
畑の畝は見えにくくなり、
木立はひとつの塊みたいに沈んでいる。
その上に、
星がある。
まだ、ふつうの数だった。
おばあちゃんは空を見上げ、
息を吐いた。
「今日はにぎやかな日だったねえ」
ミュオも見上げる。
胸の奥が、また少し鳴っている。
山で落ちてきた時からずっと、
ことばになりきらないものが、
胸の中でゆっくりと転がっていた。
冷たい視線。
土の匂い。
根菜の甘み。
汁の熱。
名前を呼ばれた音。
戸を開けて待つ人の背。
それらが混ざって、
ひとつの小さな粒になる。
ミュオは、知らず知らず口を開いた。
「つち、ぬくい」
おばあちゃんが振り向く。
ミュオは自分でも驚いた。
言おうとして言ったのではない。
胸の粒が、勝手にほどけて、音になっただけだった。
けれど、音はそこで終わらなかった。
「て、やさしい」
ふたつめのことばが落ちる。
おばあちゃんは黙って聞いている。
ミュオは夜を見た。
「なまえ、あたたかい」
その瞬間だった。
頭上の暗がりに、
ひとつ、光が増えた。
もともとあった星ではない。
もっと近く、
もっと新しく、
ちいさな灯が、ぽつりとともった。
おばあちゃんが目を細める。
ミュオは息を止めた。
増えた星は、
かすかにふるえながら、
夜の中に居場所を見つけるみたいに落ちついていく。
庭も、畑も、屋根も、
何も音を立てない。
ただ、そのひとつだけが、
たしかにさっきまでなかった場所にある。
おばあちゃんがゆっくりと言う。
「……今の、ミュオがやったのかい」
ミュオは答えられない。
やった、という感じではない。
こぼれた、に近い。
ことばが先で、
星はあとから来た。
胸の奥で、
まだ小さな震えが残っている。
おばあちゃんはしばらく星を見ていたが、
やがて、ふっと笑った。
驚いていないわけではない。
でも、驚きの先に、
受け入れる場所がある笑いだった。
「じゃあ、明日も何か言ってごらん」
明日。
その言葉が、夜の縁側に置かれる。
ミュオはその響きを胸の中で転がした。
明日。
ここにある次の時間。
山へ落ちてきたばかりの自分に、
そんなものが急に与えられていいのか分からない。
けれど、おばあちゃんは当然みたいに、
明日の話をする。
朝になったら何を食べようか、
畑の水は足りているか、
納屋の戸は直さないといけないねえ、
そんなふうに、
明日が来るのを知っている人の声で。
ミュオは、増えた星をもう一度見た。
ひとつだけ。
でも、たしかにある。
冷たい視線の中では、
羽は重くなった。
あたたかい手のそばでは、
ことばがこぼれた。
そのことだけは、よく分かった。
ミュオは小さく息を吐き、
縁側の板へ脚をたたんだ。
家の中からは、
まだ煮物の匂いが残っている。
畑の方からは、
湿った土の匂いがのぼってくる。
そのふたつのあいだに座って、
ミュオは目を細めた。
星は消えなかった。
夜のはじまりに、
見慣れないひとつの灯が増えたまま、
静かにまたたいていた。