家の中は
時間だけが流れていた。
エリオットのいない部屋。
動かされていない椅子。
触れられないままの木の器。
乾ききった水差し。
イチは
ただ座っていた。
食事をするという概念は
すでに胸の内から抜け落ちていた。
外へ出て、
水を汲むという記憶も
霞の中へ沈んでしまっていた。
家の空気は
澱んでいく。
日が昇り、沈んでも
イチは動かない。
時おり、
わずかに指を動かして
何かを探すように空気をなぞる。
声も
表情も
なかった。
―――
ひとりになり七日目の朝、
森の空気が
わずかに揺れた。
低く、
湿った土を踏む音。
――コツ、コツ。
家の外に
人の気配が近づく。
イチは何も反応しない。
扉が控えめに叩かれた。
コン、コン。
応える声は
どこにもない。
少しの沈黙のあと、
ゆっくりと扉が開いた。
「……エリオット?」
低く、
落ち着いた声。
しかし
呼びかけに返事はなく、
彼は家の中を見回した。
そこに立っていたのは
痩せた少女だった。
光を失った瞳。
生きているのに
生きていないような気配。
男――
ルシアン・ヴァルドレイダドは
思わず息を呑む。
「……誰だ?」
少女はまったく反応しない。
ただ
椅子に座ったまま
視線も動かさない。
エリオットの気配がしない。
部屋の中も乱れていない。
それが
逆に違和感となって
胸に刺さる。
ルシアンは
慎重に数歩近づき、
少女の顔を覗き込んだ。
その目は
何も映していない。
感情の色が
すべて抜け落ちていた。
「……どうして、こんな所に」
答えは返らない。
少女の腕は細く、
肌は青白く
口元は乾き、
呼吸は浅かった。
一週間、
食事も
水も
ほとんど取られていない身体。
ルシアンは
眉をひそめる。
「……エリオットはどこだ」
質問というより
確認のような声。
少女は
わずかに目を動かした。
窓の外、
森の奥――
エリオットを眠らせた
あの場所の方へ
視線を向ける。
その仕草だけが
唯一の返事。
ルシアンの心臓が
小さく軋む。
「……まさか」
ルシアンは一度だけ
深く息を吸った。
異変の理由を
知りたかった。
けれど
知りたくはなかった。
胸に
重く沈む予感を抱えながら
彼は寝室に足を踏み入れる。
ギィ……
古い木の軋む音が
静けさを裂いた。
寝室は
どこかひんやりしていた。
長く火が使われていない部屋の冷たさ。
そして、
人の気配が薄い匂い。
「……」
ルシアンは
目を細め、
まっすぐ奥を見渡した。
ベッド横にあるサイドテーブルに器が片方は空。
もう片方には
干からびた実がひとつだけ残っている。
手を伸ばし
そっと触れると、
器は冷えきっていた。
(……最後の食事か)
隅の棚には
小さな薬草の束が
いくつか吊られている。
しかし、
それは明らかに量が少なすぎた。
床には
落ちたままの布があり、
乾いた痕が
滲むように染み付いている。
水、
あるいは……血。
「……くそ」
喉奥で
小さく吐き出す。
寝具は乱れ、
そこだけ
人が何度も動いた跡がある。
痕跡は
争いではない。
苦しんだ、
ただそれだけの跡。
その中心に
少女が
膝を抱えたように座っていたのだと
簡単に想像できた。
視線が
部屋の片隅にある
木刀に止まる。
刃はない。
防ぐためだけの武器。
埃が薄く積もり、
最近使われた形跡はない。
(エリオット……
おまえ、戦える身体じゃなかっただろ)
ルシアンは拳を握った。
もし
まだ生きているなら
呼べば返事が返るはずだ。
どんなに弱っていても
声を搾るはずだ。
でも――
この沈黙が
すべてを物語っている。
「……どこに行った」
声は
搾り出すように
低く響く。
少女は
立ち上がる。
ふらつきながら
扉のほうへ向かう。
ルシアンは
無言でついていく。
家の外、
ほんの少し歩いたところ。
――静かに盛り上がった土。
その上に置かれた
ひとつの青い花。
ルシアンは
言葉を失った。
「……そうか」
深く
静かに息を吐いた。
誰が埋めたのか。
理由は聞かなくても
すべて理解できた。
ただ一つ、
胸に刺さる疑問だけが残る。
――なぜ
エリオットが
この少女といたのか。
少女は
何も語らない。
だが
その無言が
なにより雄弁に
“すべてが終わっている”
ことを物語っていた。
風が吹き、
花を揺らした。
ルシアンは
小さく目を伏せた。
「……ここにいてはだめだ」
少女は
振り返りもせず
ただ
墓を見つめていた。
けれど
ルシアンは
そっと手を伸ばし
少女の肩に触れる。
その手は
驚くほど軽く
壊れそうなほど
細かった。
「行くぞ」
拒絶も抵抗もない。
ただ、
少女は
静かに
ルシアンへ身を預けた。
その空っぽの瞳の奥に
なにかが沈んでいることに
彼はまだ気づかない。
そして――
ふたりの歩みが
静かな森の中へ消えていった。
イチの
物語は
ここから
大きく動き始める。







