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「レオスは逃げていない」
布が縫ったその一文は、翌朝になっても消えなかった。婚礼衣の刺繍としてではなく、見た者の胸の内に残る形で。
王立衣装局では星糸祭当日の準備が始まり、誰もが目の前の礼装へ追われている。だが、ジェイレンには針先がいつもより重く感じられた。今日のうちに、三十年前から止まっている糸の続きを見つけなければならない。
朝の巡回を終えたパリックは、いつもより言葉少なに記録庫へ現れた。整えられた制服姿に乱れはないが、目だけが眠っていない。昨夜からほとんど休んでいないのだろう。
「家の古記録も確認した」
彼は扉を閉めるなり言った。
「レオスの件は、同じ筆跡で何度も書き換えられていた。事故死にも失踪にも読める曖昧な記述だ。……見たくないものを見ないための文章だった」
ジェイレンは机の上で糸を巻き取りながら、彼の声を聞いた。
「苦しいですね」
「ああ」
「でも、いま苦しいのは、まだ縫い目が残っているからです」
「また布の例えか」
「私にはそれが一番わかりやすいので」
「……助かる」
いつものように鋭く返さなかった。パリックは自分でも意外そうに言って、少しだけ口元をゆるめる。ジェイレンの胸が、また小さく跳ねた。
記録庫には、すでにアニトゥアがいた。机の上には、昨夜までなかった紙束が広げられている。古びた修繕依頼書、罫線の薄い控え、焼け焦げた端のついた写し。彼は紙束の端をきっちり揃えてから顔を上げた。
「見つかりました。修繕依頼書の控えです。火災後の整理箱に、別件の帳簿へ挟まっていました」
「何が書いてありますか」とジェイレン。
「三十年前の小火騒ぎ当日、北棟の見習い五名を『グランツ家のレオス殿が先導して避難させた』という報告です」
記録庫の空気が止まる。
「失踪どころか、救助者じゃないですか」とジェイレン。
「ええ。加えて、こちら」
アニトゥアがもう一枚の写しを差し出す。そこには乱れた筆で、火の手が上がる前にエルミナが作業室へ戻り、『名簿を衣へ納める』と記されていた。婚礼衣を守ろうとしたのではない。見習いたちの救助名簿を残すため、自分の仕事へ戻ったのだ。
アドリアナが扉口に立っていた。いつから聞いていたのかわからない。彼女はゆっくり机へ歩み寄り、その写しを受け取る。読み進めるほど、顔から強張りが剥がれていく代わりに、長いあいだ抑えていたものが滲んでいく。
「先生は……」
声が細くなる。
「婚礼衣にうつつを抜かしていたわけでも、男に溺れたわけでもなかった」
誰に向けた言葉でもない。幼い頃から胸に刺さっていた棘を、自分で抜く時の声だった。
「弟子たちを守って、名簿を残して、それで……名前まで奪われたのね」
アドリアナはその場へ膝をついた。泣き崩れるほど大きな動きではない。けれど、床へ落ちたその膝の音に、彼女が背負ってきた三十年の重さがすべて含まれていた。ジェイレンはそっと傍らへしゃがみ、何も言わずハンカチを差し出す。アドリアナは受け取るまで少し時間がかかったが、受け取ったあとは、きちんと目元を押さえた。
「ありがとう」
その一言が、これまでの厳しい声と同じ人のものとは思えないほど柔らかかった。
涙のあと、話は一気に具体的になった。
「問題は、誰が今になってこれを掘り返したかです」
アニトゥアが指先で机を叩く。
「昨夜、温室へ来たのは礼装監督補佐の章をつけた人物。現時点で最も可能性が高いのはモルゲン」
アドリアナが顔を上げる。
「祭礼直前から、あの人はしきりに『衣装局は古い体質を改めるべきだ』と言っていたわ。教師役の入れ替えも進言していた」
「騒ぎが起きれば、現場の責任にできる」パリックが言う。
「三十年前の醜聞を表へ出し、今の衣装局がそれを隠していたと見せれば、誰が得をするかは明白だ」
「局長職へ近づけますね」とアニトゥア。
「昔の嘘に寄りかかって、いまの椅子を奪うつもりです」
ジェイレンは婚礼衣の白さを思い出した。あの布は、人を陥れるために歩いていたのではない。ただ、届かなかった言葉を渡したかっただけだ。それをまた都合よく使おうとする人間がいるのなら、今度は止めなければならない。
途中、王女付き侍女の裾のほつれを直すために、ジェイレンはひざまずいて針を入れた。侍女は忙しさで苛立っていたが、仕上がった裾を見ると、小さく息をつく。
「ありがとう。歩きやすいわ」
その一言だけで、ジェイレンの指先に力が戻る。礼装は飾るためだけにあるのではない。着る人がちゃんと前へ進めるようにするためのものだ。エルミナも、きっとそう考えていた。だから婚礼衣の中へ、名簿を残したのだろう。人を飾る布で、人を守ろうとしたのだ。
星糸祭の当日、王城大広間は春の光と絹の色で満ちていた。
高い天井から星型の硝子飾りが吊られ、窓辺には白と薄青の花が並ぶ。王女の婚約披露に招かれた貴族たちが、宝石のような衣装をまとって階段広間へ集まり、楽師たちが控えめな曲を奏でている。華やかな場だが、裏方である衣装局には戦場に近い。裾を直す者、留め具を替える者、最後のしわを消す者。ジェイレンも朝から走り続けていた。
その最中、保管庫担当の下働きが青ざめた顔で飛び込んでくる。
「月白の婚礼衣が、ありません!」
ジェイレンとパリックは同時に振り向いた。
「向こうから出るつもりなんです」
ジェイレンが言うと、パリックは即座に頷く。
「大広間へ行く。アニトゥア、写しを持て。アドリアナ殿、縫製記録を」
「ええ」
四人は人波を縫って広間へ向かった。
ちょうど王女が階段上へ姿を見せる直前だった。ざわめく貴族たちの視線が、ふいに会場中央の階段下へ集まる。誰かの悲鳴がひとつ上がる。
そこに、月白の婚礼衣が現れていた。
誰も着ていないまま、白い裾を広げて階段の最下段に立っている。大広間の灯りを受けて、その刺繍は月そのものより明るかった。遠くから見てもわかる。あれはただ美しいだけの衣ではない。誰かの最後の必死さが、一針ごとに残っている。
「やはり昔の醜聞が……」
「衣装局は何を隠していたのだ」
囁きが広がる。
礼装監督補佐モルゲンが、前へ出てきた。顔には焦りを浮かべている。だが目だけが妙に落ち着いていた。
「皆様、お下がりください。古い保管衣装が不具合を――」
その声を聞いた瞬間、ジェイレンは確信した。怖がるふりをしているだけだ。あの人は、この場を待っていた。
彼女は人波をかき分け、階段の前へ進み出た。
「ジェイレン!」アドリアナが呼ぶ。
だが、もう止まれない。
大広間中の視線が集まる中、ジェイレンは月白の婚礼衣へまっすぐ手を伸ばした。
「この衣装は、恥ではありません」
声が震えないよう、胸の奥から押し出す。
「話を聞いてほしいだけです」
白い布が、待っていたかのように彼女の腕へ落ちた。肩へ、胸へ、腰へ。婚礼衣は拒まず、むしろ元からそうあるべきだったように身体へ沿う。見習いの作業着しか着たことのないジェイレンに、その衣は明らかに場違いなほど豪奢だ。だが不思議と、縫い目のどこひとつ彼女を拒まない。
布が肌へ触れた瞬間、強い流れが来た。
三十年前の夜そのものではない。見えるのは、きのうの夜のなぞり直しだ。婚礼衣が誰にも見られぬ回廊を歩き、胸元を押さえ、裾を返し、裏地の一点を何度も示す。次に、温室へ向かう白い影。床板の位置。戻って、また胸元。まるで「この順番で見て」と何度も繰り返している。
ジェイレンは息を呑み、その順序のまま指を動かした。胸元の裏地、左から二番目の折り返し、裾の返し、そして内側の隠し留め。
「ほどきます」
誰にともなく言い、彼女は自分の腰から小さな針入れを抜く。見習いが肌身離さず持ち歩く、自前の針だ。
会場が静まり返る中、ジェイレンは一針だけ切った。二針目を抜く。三針目で、裏地の内側から薄い布片がのぞく。
「あった……!」
引き出したのは、焼け焦げの端が残る名簿の切れ端だった。煤に汚れていても、そこに記された見習いたちの名前は読める。さらに、その裏にはエルミナの縫い留めの印――彼女だけが使っていた、半月形の返し針が残っていた。
アドリアナが駆け寄り、震える手で自分の持つ記録と照合する。
「間違いない。この印は先生のものです。こちらの縫製記録にもある。火の日の夜、名簿を衣の裏へ納めた、と」
アニトゥアが改ざん前の写しを掲げる。
「レオス・グランツは失踪ではなく、見習い五名を避難させた救助者です」
パリックが一歩前へ出た。
「我が家の記録にも嘘があった。だからこそ、ここで止める」
広間のあちこちでどよめきが上がる。モルゲンが顔色を変えた。
「たかが古い紙切れで何が証明できる! その見習いが勝手に仕込んだ可能性も――」
「昨夜、温室で帳面を探したのはあなたですね」
アニトゥアが冷えた声で遮る。
「階級章まで見えています」
「言いがかりだ!」
「では、なぜ祭礼当日に限って、この衣装の保管担当を替えたのですか」とアドリアナ。
「なぜ、月白の婚礼衣の名だけを局長へ報告し、名簿の欠番には一度も触れなかったのですか」
「私は局のために――」
「違う」
ジェイレンは婚礼衣の裾を握ったまま言った。
「あなたは、話してほしかったことを、また都合よく黙らせようとしただけです」
その一言で、モルゲンの顔に浮かんでいた取り繕いが崩れた。パリックが合図すると、待機していた警護隊員が左右から男を押さえる。モルゲンは何か叫んでいたが、もう誰も耳を貸さない。
階段上から、静かな声が降りた。
王女だった。
「縫い手の仕事は、王家の見栄のためだけにあるわけではありません」
広間の全員が頭を下げる中、王女はゆっくり階段を降り、ジェイレンの前で立ち止まった。
「名を奪われた者の仕事を、今日ここで戻した功を、私は忘れません」
その場にいた誰もが、もう月白の婚礼衣を醜聞の象徴として見ていなかった。白い布は、ようやく渡せた言葉の重みを失い、どこか軽く見える。
アドリアナがジェイレンの前へ進み出て、深く頭を下げた。
「あなたがほどいてくれたのね。三十年分の結び目を」
ジェイレンは慌てて首を振る。
「私一人では無理でした。先生の記録も、アニトゥアさんの写しも、パリック様の言葉も、全部あったからです」
「それでも、最後に針を入れたのはあなたよ」
そう言われると、胸の奥がじんと熱くなる。母の店を立て直したい。王都で学びたい。そう思ってここへ来た。けれど今日初めて、自分の針が誰かの名誉を戻すこともあるのだと知った。
祭礼が終わったのは、春の陽が傾いたころだった。
中庭へ向かう途中、すれ違う下働きたちの視線はもう昨日までと違っていた。面白半分の噂を口にしていた少女たちが、今は気まずそうに頭を下げる。その一人が勇気を出すように言った。
「ジェイレンさん、さっきの……すごかったです」
言葉はそれだけだったが、彼女は何度も頷きながら走り去った。広間で起きたことは、ただの騒ぎでは終わらない。働く場所の空気そのものを少し変えたのだと、ジェイレンは遅れて実感する。
騒ぎの後処理で王立衣装局はまだ慌ただしかったが、大広間から少し離れた中庭だけは、ようやく夕方の静けさを取り戻していた。石畳のあいだから若草がのぞき、噴水の水が薄青く光っている。
ジェイレンは婚礼衣から着替えを済ませ、持ち場へ戻る前の短い息抜きに中庭へ出た。すると、先に来ていたパリックが振り向く。鎧ではなく礼装姿のままで、いつもより少しだけ近寄りがたい。いや、近寄りがたいのは服ではなく、自分の胸の方かもしれない。
「探した」
彼が言う。
「見つかってよかったです」
「いや。……そういう意味じゃない」
ジェイレンは首を傾げた。パリックは明らかに言葉を探している。普段なら命令や報告を迷わず口にする人が、今は一語ごとに慎重だ。
「君を疑った夜から、ずっと目が離せない」
やっと出てきた言葉は、思ったより真っ直ぐだった。
「布を信じる君を見ていたら、俺も、自分の家の記録から目を逸らしていられなくなった。だから……次に手を取る時は、任務のついでじゃない」
春の風が吹き抜ける。噴水の音がやけに大きく聞こえる。ジェイレンは顔が熱くなるのを止められず、慌てて視線を逸らした。けれど、逃げるのも違う気がした。
「では、次はちゃんと許可を取ってください」
ようやくそれだけ言うと、パリックは一拍遅れて、ごく浅く笑った。
「善処ではだめか」
「だめです」
「……了解した」
その返事が妙に嬉しくて、ジェイレンも笑う。気づけば、最初に会った朝よりずっと自然に向かい合えていた。
そこへ、少し離れた回廊から乾いた咳払いが聞こえた。アニトゥアである。両手にはまた古文書の束を抱えている。
「よろしければ、甘い空気は後回しにしていただけますか」
「甘くないです!」とジェイレン。
「否定が遅いですね」とアニトゥア。
「何か見つかったのか」
パリックが真顔へ戻る。
アニトゥアは一枚の古文書を差し出した。そこにはエルミナの筆跡で、確かに別の記録が残されている。
『第二の型紙 預け先――』
その下に記されていた名前を見て、ジェイレンは息を呑んだ。
亡き母の名だった。
春の夕暮れの中庭で、まだ終わらない糸が、静かに次の布へつながっていく。月白の婚礼衣はもう歩かないかもしれない。けれど、託された針はたしかに次へ渡ったのだ。
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